生ける屍の発症条件
準備 6日目
わたしはエリカさんを図書館に案内しながら覚悟を決めていた。
これもまた妄想に違いないけれど、エリカさんが堀氏の日記を読めば、間違いなく彼女も大きなショックを受けると、この時のわたしは、わたしのサティに賭けてそう確信していた。
それに、明け透けで裏表のない豪快な性格の彼女には、余計な気遣いという小細工はむしろ害にしかならないと判断した。何にしても遠慮会釈のない真っ向勝負こそが彼女の望むところだと。
恐らく、彼女は私以上に修羅場を潜っているはずなのだから。
「エリカさん。これからお見せするこのノートは、三年前に堀建雄さんという方が書かれた日記です」
「わたしも直接お会いしたことはありませんが、この方の経験談は、わたしにとっても最初は信じられないぐらいに衝撃的な内容で、簡単には受け入れられないような事例で満ちていました」
「ほお……おもしれえ」
「わたしがこの日記を初めて読んだ時、わたしはわたしの全てを否定された気がしました。それからわたしは三日三晩に渡り、怒りに荒れ狂いました。この日記が今もこうして無事なことが奇跡的だと思えるぐらいに荒れました」
「分かった、みなまで言うな。この日記に傷はつけねー、それでいいな」
「はい、助かります。でも、読んでみてどうしてもおへそが曲がってしまったり、頭から湯気が出ましたら、どうか此方をご利用下さい」
そう言ってウレタン性の大きなバランスボールをエリカさんに差し示した。
「へっ?」
「これは元々この図書館のキッズルームにあったモノで、その節はわたしも大変お世話になった逸品です。八つ当たりにはもってこいの素晴らしい性能を備えてますよ」
「アハハッ! オモシレーなーキョーコは。分かった、そん時はコイツで遊ばせて貰うよ」
「ではお渡しします。あと、これからわたしは今日中に調達したいモノがあるのでしばらく出かけます。3、4時間で帰って来るつもりですが、ちょうどそれ位で一通り目を通せると思うので、よろしいですか」
「ん、分かった。じゃあそろそろ読ませてくれ」
「はい、ではごゆっくり」
こうしてわたしは一人で外にでた。
そして今、わたしは、この時のことを思い出して日記を記しながら、背筋が凍り、冷や汗が滲むような思いが拭えないでいた。
それは、堀氏曰わく、度を超した怒りこそが仮称ゾンビ化現象を発生させるトリガーなのではないか? という仮説を、この期に及んで思い出していたからだ。
ブッダの教えでは怒りの種類を便宜上10のカテゴリーに分類している。
「Dosa:ドーザ」嫌だという思い。これが基本の怒りとなる。
「Vera:ヴェーラ」憎悪。身体に隠せないほどの震えや歯ぎしり等が出る怒り。
「Upsnaha:ウパナーハ」憎悪が更に発展した怒り。(ここまではドーザから順に発展している)
「Makkaha:マッカ」軽視、軽蔑する怒り。(ここからは基本のドーザからそれぞれ別方向に発展した怒りとなる)
「Palasa:パラーサ」相手に勝ちたい、足を引っ張りたいという、競争心系の怒り。
「Issa:イッサー」依存、嫉妬系のドロドロとした暗い怒り。
「Macchariya:マッチャリア」ケチ、物惜しみ、独占欲系の暗い怒り。
「Dubbaca:ドゥッバチャ」何にでも反発、反抗して何も受け入れない頑固な怒り。
「Kukkucca:クックッチャ」後悔。何度も何度も嫌なことを繰り返し思い出すタチの悪い怒り。
そして
「Byapada:ビャーパーダ」激怒。もはや何故怒っているのかすら忘れ去り、破壊と殺戮のみを求める最悪の怒り。
最初に便宜上と断ったのは、怒りを滅するにあたり、今わたしが把握しているブッダの教えでは、大きく発展してしまった大きな怒りを直接どうこう出来るモノではないからだ。
怒りを火に喩えると、一軒の家、或いはひとつの街、ひとつの山林を燃やし尽くすような大火を都合よく、その場ですぐに鎮火させることはほぼ不可能だ。場当たり的な対処療法では一時的なその場しのぎすら難しい。
だから、そもそも大火になる前の小さな小さな種火にも似た小さな怒り(ドーザ)を、サティにより何度でも何度でも消し去り、究極的にはワザと怒ろうとしても怒れない程に立派な人格を完成させるという根本治療である〈解脱〉を説いているからだ。
それにしても、ビャーパーダ、か。
確かにこのレベルの怒りなら仮称ゾンビ化症状の発症に関係なく、表面上は同じような状態に見える。
恐らく堀氏はこのビャーパーダにまで発展してしまった怒りこそが、肉体的変質にまで作用を及ぼす仮称ゾンビ化症状の発症条件だと想定したのだろう。
あの時のわたしの怒りは、何とかビャーパーダまでにはギリギリで届いていなかった。ウパナーハでなんとか止まっていた。いや、ドウッバチャも少し入っていただろう。まあとにかくギリギリだった。
しかし、もしもあの時ビャーパーダにまで届いてしまっていたらと思うと、心底ゾッとする。ウパナーハ、ドウッバチャですらひたすらにおぞましい苦しみだった。あんな狂気は二度と味わいたくない。更にその上の怒りなんて、もう、わたしの想像を絶している。
そして、もしも、エリカさんがビャーパーダに……という妄想がわたしをジワジワと苦しめていた。
堀氏も日記内で何度か繰り返していたけど、わたしもまた怒りを安直に肯定するような屁理屈には心底ウンザリしている(これもまた怒りなんだけどね)。正義の怒りとか、怒りのパワーとか、本当に冗談じゃない。怒りは滅することに最大の価値があるというブッダの教えを、わたしは全面的に支持し、実践する。
とは言え、エリカさんは果たしてどうなるのか。この時のわたしは、全身全霊で彼女の無事を信じる他なかった。
近くのホームセンターに到着しても、妄想が激しく回転してしまい、ついついエリカさんが最悪の事態に陥った場合を考えてしまう。その度に必死にサティを心掛けながら、なんとか必要物資の調達をおわらせる。
あと、ここで書いた感謝文はずいぶんと長文になってしまった。
図書館に戻る道すがら、わたしは仮称ゾンビ・ナンバー2さんのところに立ち寄った。目隠しだけはそのままに、四肢の拘束を取り外した。そうせずには居られなかった。
件の民家の塀に佇みながら、そんなわたしの様子をを見つめるカンちゃんもまた、何かをとても心配しているように思えた。
最早正確な時間は分からないけど、タイマーとしてならまだまだ充分使える手巻きの腕時計で時間を確認すると、もう3時間半程が経っていた。外出を終えて図書館に戻る。
「エリカさん、戻りましたよ」
そう声をかけてから静かな室内に入ると……額から血を流し、俯いて、膝を抱えながら震えているエリカさんが居た。バランスボールは2つに引き裂かれている。
「エリカ、さん……」
声に反応した彼女が面を上げてわたしを見る。するとその目から涙がこぼれ……そして、額から流れる血と涙が混ざり合っていた。
わたしはキレイなタオルを取り出して彼女の血と涙を拭うと、エリカさんがどもりながらも口を開く。
「ど……どど、う…………しょぅ……………ア、タシは、アタシ……は、ど、ど、し……………」
そしてわたし達はお互いにすがりつきながら一夜を過ごした。
※参考文献:アルボムッレ・スマナサーラ著/怒らない練習/(株)サンガ




