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生ける屍達についての日記帖 : Data of the living dead   作者: 230
生ける屍達の日記帖 一冊目
39/90

三十七話 生ける屍のウィップ

20XX 7/15 ザ爆睡。二徹明けでさすがに疲れた。




 分厚く黒い塊がすっくと立ち上がり、その鼻が天を衝く。


 胸には眩しさを憶えるほどに白いV字のマークが輝いている。


「フホォォー……」


 やがて山の(ツキノワグマ)は四足体勢に戻り、俺とユキを真っ直ぐに見つめながら……まるでうんざりした人間が吐くため息にも似た、唸り声を吐いた。


 小川を挟んだ彼我の距離はおよそ10メートル。先程まで聞こえていた草を掻き分ける音がしていた地点から7、8メートルほどの距離を彼の王は音と気配を殺して移動した事になる。

 

 俺は王の黒い双眸から放たれる、太く真っ直ぐな視線を正面から受け止める。


 すると王の目の中には……戸惑い、怒り、苦しみ……そして、幾ばくかの好奇心、そんな複雑な感情が王の瞳の中で揺らめいているように感じとった。


 余人にこの感覚を証明する術はないが、彼の王もまた、俺たちと同じように感情や知性を持ち合わせているという(当たり前の)事を、俺は心で深く理解した。


 そして……今ならまだ逃げられる。王もまた今なら見逃してくれる……だろう、という予感もある。


 ━━━━だが。


 これからも俺たちはこの地に住み続ける以上、今、ここは、絶対に逃げてはいけない場面であると俺は悟っていた。


 俺はユキの背中に手を添えながら……ゆっくりとその場に座し、心構えを正す。


「(殺さない。殺されない)」


 そうするとユキにもまた俺の覚悟が伝わったようで、それまで何時でも飛び出せるように身構えていた筋肉の緊張が緩み、俺の隣で伏せの姿勢をとる。




 王はゆっくりとこちらに向かって歩き始めた。そして小川を挟んで俺と等間隔の距離を開けた地点で再び止まり……王もまた、その場にゆっくりと身を伏せた。


 ついに約5メートルもの近距離まで接近し対峙している王の目は「汝、何者なるや……」と、真っ直ぐに俺を観察し、俺に問うているようにしか思えなかった。


 しかし俺もまた王のその目を真っ直ぐに見つめ返しながら、王に対して同じ問いを視線に込めていた。


 そうしていて、ただひとつだけ分かったような気がした事は、俺たちはお互いに恨みも怒りも無いという事だけは間違いなさそうだと感じていた。


 この時の俺は自分でも少し疑わし程に落ちついていた。数年程前の俺だったならとっくに恐怖に呑まれて、破れかぶれな行動に出ていただろう。いや、正確に言えば今でも恐怖感はある。だが、心が恐怖感に「巻き込まれる」事が無くなっただけだ。


 少しは自分の心が進歩していたことに感謝しながら、俺は王との視線による対話を始めた。


 王の身長はおよそ160cm強。そして体重は多分100kgくらいは余裕で越えているだろう。丸い耳の二カ所に裂けた跡がある。そして、黒く、短く、硬そうな体毛は若干縮れていて、顔や身体中の所々に新旧入り混じった大小の傷跡も見てとれた。


 それらはここに辿り着くまでの道中の困難さや、これまでの人生(くませい)の過酷さを雄弁に物語っている。


 この威風堂々たる王にこれだけの手傷を追わせられる野生動物といえば……やはりそれは、同じツキノワグマぐらいしかいないだろう。


 そして彼の王の尊顔をマジマジと見ていて少し意外に思う事がひとつあった。それは「(クマの鼻って意外と長いんだなあ)」……というところだ。


 勿論、個体差もあるのだろうが、やはり実物を今までよく知らなかった俺などは……クマと言えば、丸い耳に、丸いお顔と、丸い身体……というような、マンガやアニメでデフォルメされたミスター・プーさん的なイメージが先入観として根深くある。


 それだけに彼の王のシャープで精悍な面構えを初めて直に見た俺は、正直とても意外に思ったのだ。そして……王もまた俺を見て、一体何を思い、考えているのだろう。




 山の東斜面に位置するこの場所は、平地よりも夜が一足早目にやって来る。そして原始人ハウスではもうそろそろ夕食が出来上がる頃合いだった。


 そう考えた途端、俺の心には新たに良くない可能性が閃いた。


 それは……もう後10分か20分もすれば、おそらくイトか藤本先生が俺の名をを呼ばわりながらここまで探しに来るかも知れないという、高い可能性だ。


 ここに人間が増える事で王が素直に逃げ出してくれればいいのだが、もし王を下手に刺激して戦闘状態になった場合……そこまで考えが回ったところで、俺はゆっくりとウェストポーチから日記帖と鉛筆を取り出した。


『クマ!』


『静かに!』


『川には来るな!』


 と、俺は王から目を離さないまま(おそらくはミミズがのたくったような文字……と、思ったら意外としっかり書けていた)メモを書き、そのページを静かに破る。そしてメモを縦に折り、ユキの首輪に挟み込んだ。そして。


「ユキ……藤本先生、行け」


 そう小さく囁きながら背中を軽く叩くと、ユキはその場でクルリと身を翻し原始人ハウスへと向かって走り出してくれた。




 青い光が微かに残り、影が闇へとなだれ込む逢魔が時。


 ついに……俺と王は二人きりになった。


 ユキが走り去ろうとも一瞥だにせず、相変わらず王の視線は俺にのみひたと注がれている。


 事がここまで至れば……この王が俺に何か用事がある事ぐらいは、さすがに分かる。だが具体的にどのような用事があるのかまでは……さすがにサッパリ分からない。


 そんな王が時折軽く身じろぎすると共に、その眉間には深い皺が刻まれていた。最初の内は王が俺に苛立っているのか、又は俺を軽く威嚇しているものかとも思っていたのだが……どうもそういう訳では無さそうだ。


 濃い獣臭の中、微かに血の匂いも混ざって……え?。


 これは、病……いや、怪我か?!と、気づきかけたところで、原始人ハウスから投光機の灯りが射した。


 王がぬらりと立ち上がり、こちらに向かって一歩を踏み出す。


 同時に背後から素早い足音が二つ近づいて来た。一つはユキの足音だ。……だが、もう一つの足音の主が誰だか分からない間に、足音は俺の頭上を飛び越える黒い流星となり、流星は王と正面から激突した!!。


 「(ユキ!?……じゃない?!。ミコちゃんか?!!)」


 王の顔面に神速の一撃を叩き込んだミコちゃんは王の足下に両手を着いて着地した。


 ミコちゃんの突撃をまともに食らった王は二、三歩たたらを踏むと……その視線をミコちゃんにぐるりと向ける。俺もまた弾けるように踏み込み、ミコちゃんに向かって一歩を踏み出した王の鼻っ面に向けて’新装備’を振るっていた。


「パァーン!!」


 俺はブル・ウィップ(牛追い鞭)の一撃を王に目掛けて打ち込んでいた。この派手なクラッキング音はブル・ウィップの先端が音速の壁を超えて空気を叩き割って発生する一種のソニックブームの音だ。


 眼前でソニックブームの衝撃をまともに受けた彼の王は魂消たように尻餅をついた。


「!!!……ブフアァァー!!」


 尻餅をついた王が一拍置いて悲鳴とも思しき咆哮を上げながら、その巨体を地に踊らせ反転した。俺はその間にミコちゃんを抱きかかえ、王から距離をとる。


 更に二つの足音が後方からこちらに向かって駆けて来る。イトと藤本先生だ。


「藤本先生!ミコちゃんをしっかり抑えていて下さい!」


「分かった!」


 そう言いながらミコちゃんを藤本先生に渡し、彼の王に視線を戻す。




 苦しげに呻き声を上げながら地に臥せる王の臀部には、鈍い光を放つ大きな金属板が突き刺さっていた。




 やっと……王が俺に求めていた〈用件〉に得心がいった。おそらく王は俺にこの金属板を取り除いて欲しかったのだろう。


 藤本先生が持って来たマグライトを借りて王を照らしながら細部を詳しく観察する。


 さっきまで王の内側から溢れ出るように輝いて見えたその目も今や苦しげに細められている。呼吸も荒い。更に落ちついてよく観察すると、王の毛皮が「ダブついて」いる事に気がついた。


 おそらくはしばらくの間、何も食べていないのだろう。そして何かの病気も併発しているのかもしれない。俺にやれる事をやるのなら早い方がいい。


「藤本先生、とりあえずこの金属板を抜こうと思います」


「うん、そうだね。でも素手ではやらない方がいい。イトちゃん、なるべくキレイな軍手とタオルとラップ、それから救急箱とお湯を沸かせて持って来てくれないか。あと、堀くんの剃刀とハサミ、石鹸もお願い」


「イト!それとランタンも頼む!」


「はいっ!」


 イトが小気味よい返事を返して走り出した。


「グシューゥゥ」


 と、王の喉と鼻から嗚咽が漏れる。


 そして再び、王の目には微かな光が灯り……その瞳はひたと、俺の目に視線を合わせてくる。


「凄い……このクマは痛みとショックを自制しているみたいだ。野生が理性を持って感情を制しているみたいだよ、堀くん!」


「ええ、ですね。藤本先生、ところで今何時ですか」


「え?あぁ、多分今、六時半くらいだよ」


「……ですか。俺と(くま)が出会ってからもう三時間以上経っています。その間ずっとこの王は俺を見つめ続けているだけでした」


「ふふっ、全く手強い商売敵だなぁ」


「えっ?!何でですか」


「いやね、ユキの母犬を初め、この山で深手を負った動物はみーんな、自分の意志で堀くんのところに助けを求めて来るみたいだなーって、そう思ってさ(微笑)」


「そ、そう言えば……確かに……そうかも、ですね。あはは(汗棒)」


「よし、じゃあ手順の確認だ、堀センセ(笑)」


「はい、お願いします、藤本センセ(笑)」


「まずは傷口の回りを剃毛。そして鉄板を抜いてから傷の洗浄と消毒、は……無理か。仕方ない。で、最後に縫合だ。以上を麻酔無しでやるしかない。出来る?」


「やるしかないです、ね。……あとはこの(くま)次第です」


 俺たちが王から視線を外す事なく話し合っていると、イトが荷物を抱えて戻って来た。


「はい、これです師匠。お湯は今沸かしてます。こっちはいつもの飲み水です。はい」


 そう言いながらペットボトル二つで3リットル分の水と、藤本先生が指示した道具を渡して来た。


「ありがとう、イト。じゃあ家に戻って火を見ていてくれ。お湯が沸いたらよろしく頼むな」


「はい!」


 実にいい返事を残してイトは家に向かって走り出す。そして藤本先生はランタンを掲げて俺の手元を上手く照らしてくれている。


 俺はその明かりを頼りにしながら、タオルに飲料水をたっぷり染み込ませて王の口元に置いた。


 すると王は、まるで母のお乳を必死で吸う子グマのような仕草でタオルから水を吸いはじめる。俺は「王よ、もう少しだけ辛抱してくれよ」と、声をかけながら剃毛をはじめた。


 傷口が露出する。


 金属板を引き抜く際に傷口をこれ以上広げないようによく観察してから角度と方向を定めて、一気に引き抜く。


 王の全身がビクリ!と強張る。


 そしていつの間にか口元から落ちていたタオルを川でゆすぎ、再び飲料水を染み込ませて王の口元に差し出すと、王はまた一所懸命に水を吸いはじめた。


 さて、次は傷口の洗浄と縫合をしたいのだが……王からしてみれば、消毒や縫合という概念そのものが想像もつかない事であろうし、こんな事は余計なお世話であると解釈される可能性が高い。


 とりあえずはイトが今沸かしているお湯を待ちながら、俺はもうしばらくの間だけ王が大人しくしてくれる事を心から祈っていた。


 そんな俺の傍らでユキとミコちゃんが、とても心配そうな面持ちで彼の王を見つめていた。






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