三十三話 生ける屍の艱難辛苦
20XX 7/9 前項と同日
王姉弟は俺と出会う十日程前にこのスーパー界隈まで辿り着いていたそうだ。
しかし辿り着いたは良いものの、ここから俺の原始人ハウスへと続く入山口がどうしても見つからなかった事と、全くの初対面の人間がいきなりズケズケと押しかけるのもどうかと思案した末に、地図上では俺の山から最も近いこのスーパーならいずれ俺が必ず姿を見せるものと期待してここを見張っていたそうだ。
俺もこの一年間で長時間に及ぶ監視を何度も経験しているからこそ思うのだが、意外と体力や神経を使うこの仕事において、頼れる相棒がいるのといないのとでは雲泥の差があることは身に染みている。俺とてユキがいなければ今頃どうなっているものやら。
俺はそんな意味合いで「君たち姉弟は仲が良いんだね」と口にすると、姉弟は少し複雑な笑みを浮かべて詳しい自己紹介を語り始めた。
王姉弟はいわゆる「一人っ子政策」の直撃世代にあたるという。
故に彼らは大っぴらに普通の姉弟として育った訳ではなかったそうだ。
こうした一人っ子政策のおかげで長子以外、表沙汰に出来なくなった子供達を俗に「黒孩子」というらしい。そしてヘイハイジには戸籍が無い。
その他にも「小皇帝」と呼ばれる問題児が多数いろいろやらかして、最近の中国の世間を引っ掻き回していたそうだ。
小皇帝とは、一人っ子故に両親と双方の祖父母からよってたかって過剰な過保護と過干渉を一身に受けた子供達が、エゴの肥大化した理不尽で我が儘な暴君世代への俗称らしい。どうもこれは日本の「ニート」なんかよりも更に強力そうだ……などとつい余計なことを考えてしまう(笑)。
過保護、過干渉で子供を駄目にすることなら、この日本は中国よりもおよそ十年程先を行く彼らの国の先輩ということになるが……まあホントに余談だな(笑)。
しかしこの一人っ子政策も仮称ゾンビ・アポカリプス発生の数年前には廃止されているそうなのだが……そう聞かされると、その小皇帝達が今では仮称ゾンビ第一世代として地上も跋扈している光景がまざまざと脳裏に浮かぶ。
王家では弟のシゥインが生まれた当時、親戚筋と上手く工作してシゥインを内密に親戚家の長子とすることで、この政策の難を逃れていたという。それから王家とその親戚家は同じマンションに住まう事にして、姉弟の仲が引き裂かれる事も回避されたそうだ。
そして彼らの場合はそのことが却って姉弟の絆をより深め、良い方に転がった稀有な例なのだろうと俺は納得した。
それからも姉弟は紆余曲折を経ながらネット関連で非凡な才能を顕すが、そのせいで姉は共産党本部へと、そして弟は人民解放軍へと別々に「引っ張られた」そうだ。その後姉弟ははじめて離れ離れになる。それでも姉弟は各機関で即戦力として様々な技術を駆使し学びながらも、内密に連絡を取り合っていた。
そんな姉弟曰わく、対外的には一党独裁が長期間安定しているように見える彼の国も、内状は決して一枚岩などではなく、お偉方は下らないメンツに拘った権力闘争ばかりに日夜血道を上げているそうだ。
そのおかげで日本におけるスパイ活動の最大の障害と言えば、日本の防諜組織よりもむしろ自国の他部署からの妨害や、自部署内における密告や裏切りの方がよほど厄介らしい。
当初の姉弟は中国からの政治的な亡命を秘密裏に計画していたという。そのためのステップとして姉弟は同時期に日本への出向という難事を成し遂げていた。
ちょうどその頃「スモーデン」というアメリカのNSA(国家安全保障局)の一職員が、一個人としての責任と信念に準じて、ホワイトハウスが自国内のみならず全世界の通信端末から情報を盗み見るという暴挙を、大量の証拠文書付きで暴露するという大事件が起きた。
これには姉弟も大きなショックを受けたそうだ。そしてこの事件を切っ掛けに、姉弟は政治的な亡命という考えを根本から見直すことにした。ちょうどそんな折りに中野孝一郎議員との出会いを果たす。
姉弟から見ても北京オリンピック以降の中国共産党は、目に見えて慢性的な衰退と誤魔化しのジリ貧状態にあったという。こういう状態の時に一番怖いのが「一部のバカによる暴走」だと、かねてから憂慮した姉弟は、件の「繋がり」を介して具体的な暴走の事例や数々の極秘計画を各国と共有した。
これはもともと亡命時の取引材料として考えていた最大の交渉カードだったのだが、姉弟はスモーデンに倣ってそれを一国にではなく各国に拡散する道を選んだ。
それからの彼ら姉弟は日本で初めて知り得た上座仏教が語るブッダの教えに傾倒するにつれて、政治だの亡命だと言った煩わしい世間のしがらみの全てを捨て、解脱だけを目的にした修行生活を渇望するようになっていったそうだ。
そして、仮称ゾンビ・アポカリプス発生当日。
彼ら姉弟はグンテと俺の通話を傍受した後、中国国家安全部が秘密裏に確保していたとある作戦室内に、二日間立て籠もっていたそうだ。
俺がアポカリプス発生に気づいたのは去年の6/25の昼過ぎになるが、東京ではその前日25日の深夜から既に事態は始まっていたそうだ。
ジンさん(姉)が所属する作戦室は信濃町の雑居ビルの一室にあり、普段なら車も人も途絶える真夜中の外苑通りや首都高から救急車や消防車、そして警察のパトカーがひっきりなしに走っていたそうだ。
時折どこからか微かな叫び声も聞こえる不穏な街から姉弟が帰り着いた時……既に、所員の二名が第一世代として発症していたらしく、残る数名が全員噛み傷を受けながらも、発症者の二名を撲殺していたらしい。
この時点で生き残っていたのは姉弟を含め五名のみ。しかし彼らは皆「小皇帝」の例え通り、利己的で有能だった人材ばかりだったそうだ。生き残りの所員二名は一難を避けた途端、今度はこの事態の責任を姉弟に……特に、弟の所属機関への更なる怒りを撒き散らす修羅場が続いた。
その二名が怒り狂い初めてからほんの二、三時間も経たない内に……彼らはほんの数分意識を失っただけで、第二世代としての症状を発症させる。これを姉弟は俺の意見に従ってタオルでの無料化に成功。そして全ての発症者と遺体をまとめて一室に隔離したそうだ。
これで生き残りは姉弟を含んだ三名のみとなった。しかし残る一名は既に肩を噛まれている。彼らはお互いに交わす言葉もないまま時間だけが過ぎて行く。
そうして数時間が無為に過ぎ去った頃……噛まれている男が口を開いた。
「……何故、君たちはそんなに冷静でいられるんだ?」と。
姉弟はその問いに答えるべく、彼らの生い立ちや、俺からの報告、そしてブッダが語る真理の話等々を男に丁寧になかなか話したそうだ。
そして話を聞き終えた男は……。
「……ほんの昨日までの俺なら、君たちの話なんて頭からバカにして……耳を貸さなかっただろうな……」
「だけど今なら……自分の死がもう目の前に迫ってる……今なら、君たちの話は……本当に、とても大切な話だと……身に染みて理解できる……」
「…………死の前では……金や権力や……愛なんか、何の価値も無いことが……こんな俺にも、はっきりと理解でき、る……」
「……そうか……君たちは…………本当に、生きているんだな…………」
それがその男の最期の言葉だったそうだ。
翌日姉弟は東京からの脱出計画を練り上げながら出来る限りの準備を整えた後、作戦室を後にした。
姉弟は基本的に鉄道の線路を伝って東京からここまで歩いて来たという。
なるほどそれは確かにいいアイデアだと俺も感心した。例えば新幹線の線路ならそもそも道に迷う心配もないし、何しろ見晴らしがいい。きちんと警戒しながら進めば、いつの間にか「群れ」に取り囲まれるという事態もまず回避出来るだろう。
だがしかし、なんといっても日本一の人口密集地である東京からの脱出は困難を極めたそうだ。
アポカリプス発生から三日目ということもあって仮称ゾンビ化した人の数などとても数えきれるものではなく、各駅前等を遠目に見れば普段と何ら変わらない大量の人ごみが”いつも通り”に埋め尽くしていた。
そんな東京の街中を突破するに当たって、いかに彼ら姉弟が元スパイだとは言っても、映画のスパイのような超人的な体力や技術など当然姉弟にあるはずもない。本質的には単なる技術屋に過ぎない彼ら姉弟は、只々愚直に仮称ゾンビは勿論、生きている人間をも徹底的に避けながらおよそ五日をかけて、信濃町から品川駅の新幹線ホームにまで辿り着いたらしい。
山手線圏内の線路上では無秩序に停止していた電車も、新幹線の線路内に入ってからはそのほとんどが各駅のホームで大人しく停車していたそうだ。
ここから彼ら姉弟は約800kmの道のりをおよそ五ヶ月かけて踏破することになる。これを単純計算すれば一日辺りほんの5kmしか前進していない計算になるが、その5kmを進むのに一週間を費やすこともあれば、一日で50kmもの距離を何事もなく進めた時もあったという。
暑い夏は線路上でその身を焼かれながらも前へ前へと進み続け、線路上で台風の直撃を受け、寒暖差の激しい秋には身を寄せ合い……そして時に「群れ」と出会えば何十kmにも及ぶ後退を余儀なくされ、生存者達に出会えば例外なく揉め事に巻き込まれ……凍える冬の手前になってようやくこの地に辿り着いたという姉弟の艱難辛苦に……。
「(俺ごときが彼らにどうやって報いてやれるものか……)」
と、少々絶望的な気持ちを味わっていると……ひとついい考えが心に浮かんだ。
彼らには「あけみおばあちゃん」の家を紹介するのはどうだろうか、と。
もちろん決定権はおばあちゃんの気持ちひとつだが、もしこの考えが実現すれば何かしら万が一の事態が起きた場合のメリットは大きい。何しろ元気なおばあちゃんではあるが、やはり歳が歳だ。
仮称ゾンビの事がなくとも日常生活における様々な面倒を彼ら姉弟がサポートしてくれれば、おばあちゃんの暮らしもかなり楽になるだろう。
そして何より彼ら姉弟の修行にとっても、おばあちゃんの微笑みと生き様は、何よりも得難い「慈悲」の教師となってくれるだろう。
誤解上等であえて言うなら、おばあちゃんの微笑みは薄っぺらな「愛」という類の微笑みではなく、遍く生きとし生けるものに向けられた「慈悲」の微笑みだ。
上座仏教ではヴィパッサナー瞑想と共にもう一つ、サマタ瞑想として「慈悲の瞑想」を強く推奨している。
「慈悲の冥想」とは……。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
これがブッダの説く「慈悲」である。
この文言は正しい。
ぐうの音も出ないほどに正しい。反論の余地なく正しい。どこからどうみても正しくて正しくてどうしようもないほどに正しい。
……だからこそ、俺の我が儘で凶暴な心は、この完全に正しい文言を心の中で念じることにすら……未だに、強い抵抗をおぼえている。
それでも最初の三段落まではまだいい。
理屈も納得出来る。まずは自分だ。まず自分自身が幸せでなければ、他人や生きとし生けるもの全ての幸せを願うことなど出来る訳がない。だから順番の問題としてまずは自分。そして自分の親しい人々。それから生きとし生けるもの全てへと、段階を踏む必要は充分理解出来るつもりだ。
だが、生きとし生けるものと念じる以上、そこには当然、俺が嫌いな人や、俺を嫌いな人の幸せも当然含まれる。更に仮称ゾンビ達だって例外ではない。
しかし俺は……未だに、ついつい、自分が(を)嫌いな人の「不幸」を願ってしまうような未熟者だ。
しかし、あけみおばあちゃんは違う。
おばあちゃんの微笑みの奥にはいつだって悲しみがある。それは本当の「幸せ」を知る人が、偽りの幸せを信じている全ての生きものたちに向けられた「憐れみ」の現れだと思う。
ならば、本当の幸せとは何か。
世間一般の幸せとは無智な心が望むままに、際限なく「欲」が満たされる事を幸せだと思い込んでいる。ブッダの説く幸せとは、自分の心から怒りと欲と無智を滅することで至れる境地……すなわち解脱こそが本当の幸せだと説く。
世間的な幸せとブッダの説く幸せは真逆である。
世間は欲張ることで幸せになれると思い込み、ブッダは欲を滅することで幸せになれると説く。
無論、俺にとってはどちらが正しいのかなど今更言うまでもないが……それでも怒りと欲と無智に三十年以上も中毒していた俺の心は……まだまだ汚れていて……実際、かなり苦しい時もある。
しかしこのあけみおばあちゃんは違う。おばあちゃんはこうした全ての生きものが根源的に抱えている「苦しみ」をどこかでもう乗り越えているように思う。
だからこそ俺達のような凡夫匹夫が本当の幸せ目指す困難さにまで思いが至り、その想いがおばあちゃんのお顔には「慈しみ」と「悲しみ」として混ざり合った……そんな微笑みになって現れているのだと……俺はそう思っている。
ワン姉弟の話を聞き終えた後、俺はミコちゃんの件をも全て打ち明けた上で、彼らをあけみおばあちゃんに紹介してみることにした。




