二十九話 生ける屍の主人公組
20XX 7/6 梅雨明けかな、晴れ。
久しぶりの山の夜はとても静かで……もない時が時々ある。
慣れればそれほど気にならないが山の夜は時々夜行性の生きもの達の鳴き声が結構やかましかったりする時もある。
昨夜もやはり全てのランタンに明かりを灯し、日没後も遅くまで皆と他愛もない話に興じていた。俺の方からも偵察で得た情報の共有を早く済ませたかったが、女性陣から俺の不在時の話が怒涛の勢いで話されて、俺は首を縦にしか振れない人形の如く聞き役に徹する事態となっていた。
おそらくこの時の賑やかな話し声が、ご近所のタヌキ家やイタチ家のみなさんを刺激してしまったようではあるが……これも彼らなりの「おかえんなさーい」の挨拶と思い直し、皆が寝静まったところを見計らって日記をつけはじめる。
ランタンの灯りを一つだけ残し他を全て消してから、前回7/3の続きを書き終えたところで……日記の存在が皆にバレた。
元々隠すつもりもなかったけれど、俺から一本取った事にとても喜んでいる二人にそんなことは言えない。それに……ええ、二人のタヌキ寝入りにはすっかり騙されていましたとも。
それから再び全てのランタンに火が灯され、俺の手から強奪された日記の読書会という名の二日連続になる更なる夜更かしが始まる。
「ボ、ボクのおっぱいは化け物じゃないよおぉぉぉぉ!!」
とか。
「そそそ、そんなー!ユキ様ー!あれは決してマーキングなどでばばば!!」
などと言う一部混乱もあったものの、期せずして今回の遠征の報告がようやく済んだ形となった。そして二人からのたっての希望により、俺は日記の記述を優先して進めることになった。
という訳で今俺は山の頂上(標高はほんの200m)まで登り、朝の瞑想を終え、そして背中にミコ(美智子)ちゃんというヒッツキ餅をへばり付けながらこうして記述している。
では久々に一年前の話の続き、仮称ゾンビ・アポカリプス発生三日目からの話を始めよう。
「だ……だめ、だぁ……ボ、ク…の………おっ……ぱ、いは…タッち、ゃん………が……いいぃ……」
などと言う……大変残念な世迷い事と共に藤本先生は復活した。
彼女が意識を失ってから三日目の今朝……とうとう電気が止まり、改めて気を引き締めたイトが藤本先生の汗を拭く為に先生の服を脱がせにかかったその瞬間に……この言い草である。
こっちはもしかしたら、藤本先生が仮称ゾンビ化するかもしれないという懸念をずっと抱えていただけに、全身の力が一気に抜けるという貴重な体験を俺はこの時生まれて初めて味わった(笑)。
後日聞いた話によると、藤本先生は少し前から時々ボンヤリと途切れ途切れではあるが意識が戻っていたらしい。
そして時折自分のおっぱいを荒々しく揉みしだいていたのは、てっきり俺だと思っていたのだそうだ(大汗)。
そしてようやく意識がハッキリし始めた時に、また胸を揉まれて……よく見たらそれが見知らぬ女の子だった!、と。そして思わず上記のセリフが口をついたそうだ。
尚、藤本先生的には目覚めの際の演出として自分が仮称ゾンビ化した小芝居を打ちながら、俺に抱きついてえろえろ……もとい、いろいろと俺をからかうつもりだったそうだ(汗笑)。
その後、まだまだ沢山の問題を抱えながらも……ちゃんと自分の足で歩けているミコちゃんを、回復後はじめて見た藤本先生は、喉の奥を鳴らしながら……とめどなく静かな涙を流し続けていた。
ともあれ藤本先生が無事意識を回復してくれた事により、俺達全員の心と時間に大きな余裕が生まれた。そしてこの日からイトの瞑想修行の実践と座学もスタートする。
まずはイト自身に「何も考えない」という事が果たして出来るかどうか自分自身の身を持ってたっぷり確認してもらった。その後、以前に瞑想に関して記載したような実践と質疑応答を行う。
「師匠、質問よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「心を無にすることって……寝ている時や、ボーっとしている時のことと同じじゃあないんですよね」
「勿論全然違うよ」
「はあ……もうぜんぜんワケがわかりません……」
「イト、分からないのは当たり前だ。まだまだ出来もしない事を無理やり頭でっかちに分かろうとするから余計なところで引っかかるんだ」
「うーん……それすらもよくわかんないですぅ」
「それが余計なんだ。何故分かる筈もないことをいつまでも引きずっているんだ?。君は今、生まれて初めて自分の心を意図して見つめ始めたばかりだろう」
「だから分からないのは当然の事だ。だったら分かっていることから確認すればいいじゃないか」
「分かっていること……ですか?」
「そうだ。イトはさっき俺の教えた通りにまずは自分の呼吸に意識を集中していた筈。それなのにいつの間にかに何かを感じて他の事に意識を奪われていただろう?」
「はい、最初は足がかゆくなって……ガマンしていたら、いろいろ考えはじめちゃって……気がついたらユキちゃんのことを考えていて、ハッとして目を開いちゃいました」
「そうだな。さっき俺が出した課題はほんの10分だけでも自分の鼻から出入りする息に集中して実況中継しろってことだったよな」
「はい」
「そのたった10分の集中ですらなかなか出来ない事が今、イトは分かった訳だ」
「あっ!はい……そうか…………集中を妨げる考えに気づくことが……えっと……考えに振り回されないように気づいていればいいんです、よ……ね?」
「そうそう。その辺りの感覚は言葉にしにくいだろうけれど、大体そんな感じだな。正確には先ず心が感覚を受けて、そして考えが生まれ、感情が起きる。本当はもっといろいろ細かいんだが、これで一回転だ」
「心ってものは実際のところ誰だって訓練無しには全く制御出来ないものだ。心はいつも勝手に瞬間瞬間に何重にも回転し、様々な感覚や考えや感情を生んでは消えて行く。止まることは無い」
「その生滅をそのまま見つめる事でいろいろな気づきから発見があるんだ」
「何か、分かったような気にはなっちゃいましたけど……わたし、出来るでしようか」
「出来る出来ないではない。出来るようになるまで訓練をするか、しないかだ」
「やります!」
それからのイトはずいぶん熱心に暇をみては屋上で「座る」ようになり、俺への質問もほとんどなくなってから一週間程が過ぎたある日。
「……やっぱり家族が気になるか」
「…………はぃ、ぃ…」
イトが瞑想中にポロポロ涙を流していた。
「イト……」
と、俺が話をしようとした時、ユキが道路方面に向けて警戒反応を見せた。
この一週間は目の前の幹線道路で動くものなど何も無く、藤本先生もまだ若干の不安は残るもののかなり回復していて……いつしか俺の心も知らぬ間に気が緩んでいた事に気がついて……思わず背中から冷や水をかけられたような思いをした。
それはイトも同じだったようで、途端に顔が引き締まり俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。俺は小さく頷いて中腰になり、道路側からは視認出来ないように偽装を施した監視ポイントに移動した。
どうやら生存者らしい。
その男二名女二名の高校生達は……まるで安っぽいマンガかアニメでよく見る主人公グループのようだった。
更に、果たしてどこから持ち出して来たものやら……先頭を歩く一人の少年の手には抜き身の日本刀が握られていた。そして女生徒が着ている制服はイトが着ていたセーラー服と同じ物だ。
そして、それより何より異様だったのが彼らの動き方だ。彼らの動き方は仮称ゾンビを恐れて避ける為に警戒するような動き方ではなく、狩る為の獲物を探して回るソレだった事だ。
俺は彼らから目を離さないまま、イトをも視界に収めつつ小声で話しかける。
「イト、君と同じ学校のようだが知っているやつらか?」
「……いいえ……多分、あのコらは二年生です」
「助けたいか?」
イトは縦に首を振る。
「イト、君一人で彼らを助けられるか?」
イトは一拍間を置いて首を横に振る。
「俺なら彼らを助けられると思うか?」
イトはしばし固まった後、ゆっくりと首を縦に振った。
「イト、本当に人を助けるってことは、助けた相手から刺されるリスクをも覚悟して助けなければならない」
「え?!、ど、……どうして……そんな……」
「君はアルコール中毒者や麻薬中毒者と会ったことはあるか?」
「い、いいえ」
「彼らを本当に助けるってことは、彼らから麻薬や酒を取り上げるってことだ。それは彼らにとって〈敵〉が自分の幸せを邪魔をしている、という意味になる」
「…………」
「あいつらを瞑想的によく観るんだ」
さっきまで目一杯見開かれていたイトの目がスッと半眼にそばまり、この一週間で鍛えられた理性の目で真っ直ぐにあいつらを見すえ始めた。
「あいつらは今、本当の意味での助けなど少しも望んではいない」
「だから、あいつらを助けることなど誰にも出来ない」
「……はい……分かり、ます…」
すると不意に日本刀の少年が小走りに車の陰へと走り出し、地を穿つように日本刀を下へと突き刺す。二度、三度と。するともう一人の少年も同じ所へ金属バットを振り下ろし始めた。
どうやらあそこに四肢の欠損が著しい仮称ゾンビがいるらしい。そして彼らは今引きつれた笑みと奇声を上げながら、悪の巨大モンスターを圧倒的な力で狩る勇者のような気分を存分に味わっているように見える。
……大した反撃など絶対に出来ない仮称ゾンビを、いたぶることで。
やがて手元が滑ったのか、日本刀の少年の二の腕を、金属バットが掠めた。その瞬間空気が凍る。日本刀の少年が黒板を爪で引っ掻くような奇声を上げながら、もう一人の少年に蹴りを入れた。何度も何度も。
その時少し後ろにいた女生徒の一人がいきなり崩れ落ち、残りの三人が一斉に鼻と口を、手で覆い隠した。
────「ガス」か。
その三人も次々に道路に跪き、その場でゲエゲエとえづき出す。皆どうやらあのガスをまともに吸い込んだらしい。
そして……いつの間にか立ち上がっていた女生徒は日本刀の少年の背中に覆い被さっていた。残りの二人はそれに気づかないまま……今度は!金属バットの少年がもう一人の女生徒の首筋に……いつの間にか噛みついていた。
恐らくこれは第一世代発生の瞬間だったのだろう。
それまで人間だった筈の生きものが俺達の目の前で、いきなり人間の範疇から逸脱した。その原因が何なのか今は分かる筈もないが、その切っ掛けは「怒り」だと俺は直感し、確信した。
イトが崩れ落ちる。俺はイトを支えながら極力静かに屋内へと連れて行った。
一階のトイレで込み上げて来たモノを全部吐き出させて背中をさすってやる。イトの吐き気が治まるまでしばらくかかった。
さっきのは流石に十八歳の娘が見るにはあまり酷な場面だった。しかし見てしまったものはどうしようもない。しかもイトは俺に立てた誓いを守るべく、今も声を漏らさないように必死で堪えていた。
「イト……俺は大声を出すなとは言ったが、全てを押し殺してガマンしろとは言っていない」
「だから無理に押し殺して溜め込む事はない。今ここなら外に声は漏れない。いいから全部吐き出しちまえ!」
イトは俺の胸に顔を力一杯押しつけながら、それでも必死に声を押し殺しつつ……聞くもの全ての胸が押しつぶされるような嗚咽を、漏らし続けた。




