二十二話 生ける屍の顔面崩壊
20××年 6/29
流石にあれほどまでに大量の映像作品を全て鑑賞する時間は無い。(無くは無いけど……やっぱり、無い)
そこでデイブのオススメを二人で一本だけ(腐乱ダースの犬 最終回)鑑賞し、そして以前の平和な社会だった頃のように作品について熱く語り合い、俺は明日何も無ければここから出発することを告げた。
そして今、俺はついさっき手渡されたデイブの日記を読み終えたところだった。
俺はいつか、近い将来デイブと藤本先生親子が対面する機会が得られるように力を尽くす事を、明日デイブに約束しようと思う。
以下本題
「どすん!」
と、ビックリしたイトが俺の背後で尻餅をついたようだ。その傍らにいるユキも何か困惑している様子に見える。そして診察室のドアは開いたまま動きがない。
向こうにいるのは美智子ちゃん……だろうか、……だろうな。
とりあえずユキの反応を見る限り扉の向こうにいるであろう存在は敵対的では無いさそうだ。だからといって見えてもいないものを決めつける訳にもいかない。じれる……。
長い……長い、三分程の時間が経過した。
俺はポケットに詰め込んでいた最後のタオルを引き抜く。覚悟を決めて一歩を踏み出した、その時。
「ヌルリ」とした……滑らかと言えばとても滑らかと言える動き方で、美智子ちゃんが姿を見せた。
顔に巻かれたタオルはそのままだったが、ちょっとした衝撃ですぐほどけそうにも見える。
「(やはり手足を拘束しなかったのは失敗だったか……)」と、後悔の念が心に流れる。しかし俺が今後悔中だからといっても時間は待ってくれない。
俺がそんな逡巡を巡らせている間にも、まるでしなやかな猫科の大きな獣が見せるような動き方で、ゆっくり、ゆっくりと、美智子ちゃんは俺に向かって近づいてくる。俺は後ろにいるイトに即席のハンドサインを送り後退するように促した。
イトはすぐに俺の意図を察したようで移動をはじめる。そして美智子ちゃんもまたイトの気配に気づいたような素振りを見せた時、俺は反射的に軽く床を蹴った。
美智子ちゃんの注意は再び俺に向いたようだ。
今の美智子ちゃんが音や振動を頼りに動いている事はどうやらこれで確定だろう。そう判断した俺は再び後ろのイトにそのまま動かないようハンドサインを送る。
再び美智子ちゃんが俺の方に近づいて来る。あと3m。俺は腰を落として万ヶ一の突進に備える。そして──。
俺の目の前スレスレで美智子ちゃんは止まった。
美智子ちゃん、の…………微かな息遣いが伝わってくる。
……!!!。
呼吸しているのだ!。やはり仮称ゾンビ達は死者では無いのだと、この時俺は確信した。俺は思わず美智子ちゃんの二の腕に軽く触れていた……が、反応が無い。……何か引っかかる。試しにほっぺや太ももにも軽く触れてみたが、やはり反応が無い。
前に美智子ちゃんとこんな風に指先でお互いを突っつき合って遊んだ事が何度もある。美智子ちゃんの弱点は脇腹だ。以前の美智子ちゃんなら「きゃあきゃあー!」と、楽しそうに大騒ぎする位の力加減で突いてみたが……やはり無反応だ。
「(熱かっ?!)」
閃いたその考えのままに、俺は美智子ちゃんを抱きしめていた。
外れてしまうタオルにも構わず、今俺が露出している唯一の素肌、ほっぺたを美智子ちゃんのほっぺに擦りつけた。
美智子ちゃんの腕に、ほんの少し力が籠もる。俺が美智子ちゃんを抱きしめていた力を緩めると、彼女の腕が上がって俺の肩に回された。
「………ん、…………………ん…ま…………………」
俺の耳元で美智子ちゃんの小さな呻き声……いや、もしくは何か意味のある言葉を話そうとしているのかも知れないという考えが再び俺の脳内に閃く。
すると美智子ちゃんの方からも力を込めて俺のほっぺたにほっぺを擦りつけて来た。そしていつの間にかユキも側に来て美智子ちゃんの足元に纏わりつき、更にイトまでもが俺と挟み込むようにして美智子ちゃんを抱きしめていた。
そして……嗚咽とも呻きともつかない微かな声を上げながら……美智子ちゃんは俺達の真ん中で……小さく震えながら俺にしがみついていた。
……美智子ちゃんの身体から震えが止んだところで、ゆっくり俺が立ち上がり皆が一旦離れると……。
美智子ちゃんの小さな手が俺のジャケットの端をキュッと掴む。
タオルがとれた美智子ちゃんの目は依然閉じられたままだが、時々うっすらと瞬きもしていた。
「うはあぁぁ~♡……かぁいいです~。師匠!モテモテですね!(じゅるり)」
じゅるりって……全く、イトがいらん事を言うので無言で脳天チョップを入れておく。
そしてこの時、俺の心の中ではこの二日間で堆く積み重なった数々の……妄想、事実、疑問、仮定、仮説が有機的に連結を始め、何がしかの意味を持つ形を纏い始めるが……しかし、今は後回しだ。
今は手術室に向かう。
一見藤本先生は無事に見える。すぐに呼吸を確認する。次は切除跡を見る。出血はほとんど無さそうだ。体温も……っと!、流石にそろそろひっつき餅の美智子ちゃんが作業の邪魔になる。
確か……犬の方が人間よりも若干体温が高めだった事を思い出した俺は、美智子ちゃんの手をジャケットから外してユキの背中に置いてみる。
ユキも観念したようにその場に伏せり、その上から美智子ちゃんがペトーっと貼りついてしまった。
ユキが迷惑そうな視線を俺に向けるが、それには苦笑いを返すしかない。その横ではイトが顔面崩壊を起こしながら、口元を「じゅるじゅる」言わせてユキと美智子ちゃんを見つめていた。んー……特に問題ない、のかな(笑)。
それから俺の気が済むまで素人診察を繰り返した結果、やはり藤本先生は大丈夫そうだと納得しかけた所で……点滴のパックが空っぽな事に、今更気がついてしまった。
チューブの中が赤い液体で染まっている。あ、……頭が……クラッと、来る。
よく見ると藤本先生はまたしても寝汗がヒドい。水分補給が必要なのは間違いないだろう。だが今朝方一度点滴を交換した時はチューブに血が逆流などしてはいなかった。今の状態でそもそも交換していいのかも想像もつかない。しかし……今やれるのは俺しかいない……のか?。
……もしかして?、と一縷の望みを託しチラッとイトに顔を向けるが、そのイトもまた顔を青くしてブルブルと首を横に振る。……やはり俺がやるしか無いようだ。全く、仮称ゾンビ達のグロい顔面崩壊よりもコッチの方がよほどおっかない。
一旦落ちつく為に目を閉じる。そうして、出る息、入る息を丁寧に観る。
ゆっくり目を開くと……点滴から伸びるチューブのジョイント部分に小さなスイッチコックがついている事に気がつく。なるほどと納得した。ここでチューブの開閉を操作してから点滴本体を交換すれば良いようだ。今朝始めて交換した時はこの事に気づいてすらいなかったワケだが、今更だな。
交換を終えコックを開くとチューブを満たしていた血もゆっくりと元に戻って行く。これで今度こそ大丈夫だろう。
ようやく俺達は一息つけた。
俺は美智子ちゃんの手を引き、皆で二階のダイニングに上がった。流石に屋内の確認も、もう大丈夫だろうと……緩みかけた気を正し、美智子ちゃんをイトにまかせ、一人で手早く各部屋と屋上を見回った。これで異常なしだ。
水道水もまだ生きていた。俺は蛇口に口を伸ばしゴクゴクと心ゆくまで水を飲む。イトとユキ、そして美智子ちゃん達は床に座り込みながらそれぞれくつろいでいた。
「イト、すまんが水が出ている内に美智子ちゃんを連れてシャワーを済ませてくれ。湯船に貯めた水はなるべく汚さないようにな」
「はい!ありがとうございます!……あ、……でもっ」
「あー、着替えか……仕方ない。藤本先生のを借りるしかないな。今用意する」
どうやらイトは、自分が今どれだけ汚れているのかを改めて自覚して、恥ずかしそうに小さくなってしまった。
まあしゃーない、とっとと片付けよう。イトと美智子ちゃんの着替えを揃えてカゴに入れ、それを脱衣所に置いて二人にはシャワーに入ってもらった。
イトには美智子ちゃんが仮称ゾンビの第一世代である可能性が極めて高い事を告げているけれど、楽しそうに美智子ちゃんの世話を焼く彼女にその事を忘れていないか念を押してみる。
「大・丈・夫!デス!わたしちっちゃい子大好き星人なのでー!」
「それを心配している……いいか、美智子ちゃんを誰よりも愛している藤本先生が既に”噛まれて”いるんだぞ」
「あ!……はい、うかれてました。ごめんなさい……師匠、ありがとうございます」
「ああ。じゃあ頼む、何かあったら直ぐに呼べよ」
「はい!……まかせてください!」
良い言い方が思いつかなくて聞こえは悪いが、俺はこのシャワーの機会はひとつの重要な「実験」の機会にもなると、この時考えていた。




