十七話 生ける屍の百鬼昼行
同日
「いいか、まだハッキリせんが何かヤバい。絶対に声も音も出すなよ」
マズい。絶対にマズい。ここにいたら駄目だ。
幹線道路の先にはまだ異常らしきものは見当たらない。しかし微かではあるが確かな異常が風に乗って俺にも少しずつ「臭い」はじめていた。
平坦な所から見える水平線や地平線というものはずいぶん遠くに思えるものだが、実際はせいぜい4~5Km程度の距離しかないという。そしてここから見通せる幹線道路の先はせいぜい1Km強と言ったところか。
だが、まだそれだけの距離的な余裕があるにも関わらず、例の臭いが微かにここまで届いている。
近くで倒れている人体の臭いとは別物だ。
だったらコレはかなりの質量がこっちに近づいて来ていると考えて間違いないだろう。やっぱりマズいな。マズ過ぎるな。
病院に戻る事も一瞬考えたが何かひとつでもアクシデントが起これば即アウトだ。最悪、藤本先生親子まで巻き込んでの全滅まである。却下だ却下。
こうなったら一旦身を隠すには廃屋じみたこの倉庫しかない。そう感じて辺りを詳細に見渡すと、出入口はゴツイ南京錠で施錠されている。通用口を見ると……ツイてる!。あれは四桁の数字を合わせる自転車用のチェーン鍵だった。あれなら開けられる。
皆で静かに通用口に向かう。
さて、この手の鍵だが大抵の場合左右どちらが一方の端の数字がほんのひとつかふたつ回されいる事がほとんどだ。
右端をひとつ手前に回す。いきなり当たりだ。
ドアを開ける前にユキを見る。
『だいじょーぶだワン』
よし。この時もまたユキと俺のテレパシーは絶好調だった(笑)。ともあれ静かにユキ、彼女、俺の順番で中に入る。
かなり広い空間だが、かなり埃っぽくもある。そのせいで息苦しい圧迫感も感じるが、あのまま外にいるよりもかなりマシだ。
そして均等に降り積もった埃の海原がここには誰も出入りしていない事を証明している。俺達はとりあえず幹線道路の様子が見渡せる窓の近くに陣取る事にした。
『闇を見つめる者は闇からもまた見られる』という言葉は俺も結構好きな言葉だが、実際にはそのような光学的条件は日常ではあまり成立しない。
今のように明るい外から見る暗い建物の中はかなり見えにくい。強い光は影をも濃くして、窓ガラスは外光を鏡のように強く反射する。だからよほど窓に顔を近づき過ぎない限りはまず外からは見え難い筈だ。
あとはよく映画などのゾンビだと感覚や身体能力が向上するという設定があるが、おそらくそれは無い。但しそう誤認するだけの原因にはひとつ心当たりがある。
藤本先生は傷口から感覚が無くなっていると言いながら親指でグリグリとやって見せた。
麻酔とは別物の気がするが効果は麻酔と同じなのだろう。多分仮称ゾンビは全身の神経が鈍くなっているのだろう。だからヤツらは痛みに鈍く多少の”大”怪我では止まらないと考えられる。初見でこんなものを目の当たりにすれば映画のゾンビと同じだと誤認するのも仕方ない。仕方ないでは済まないが、やはり仕方ない。
もとい、もし神経系の鈍化が原因のひとつと仮定するなら最も警戒するべきは視覚と聴覚だろう。五感の中で考えれば視覚と聴覚が最も神経の鈍化に対して影響が低いと予想する。
だが俺の知る限りでは、耳や鼻は顔面上で出っ張ったいるせいなのか、とにかく欠損している個体が多い。ならばやはり視覚に一番気をつけるべきだろう。
しかしまあ、こんなのはタラレバもいいところだ。もし本当に映画のように感覚も底上げされていたり、それほど鈍化していなければ、そもそも打てる手など無いのだ。
今は暗がりでジッと静かに身を潜める以外に出来る事はない。
今この窓から見渡せるのは幹線道路方向に半径50m位の範囲だ。
まだ今は何もない。まだしばらくは何もないだろう。
「なあ、君」
この少しの余裕は彼女の為に使うことにする。
「静かにしろとは言ったが息を止めることはないからな」
彼女は目を見開いて驚いているようだ。
「鼻に意識を集中して丁寧に呼吸するといい。鼻の穴の縁に集中して出る息、入る息を常に皮膚感覚で観察するんだ」
「集中が上手く行く程にだんだんと少しずつ少しずつ息が細く微かになる。そして心も深く落ち着く」
これは仏教、と言っても日本の大乗仏教ではなく、お釈迦様ゴータマシッダールタの教えを2560年間守り伝えた上座仏教が教えるヴィパッサナー瞑想の基本だ。
「もしかしたら一時間後には俺達も全滅しているかもしれん。生き残りたかったら命懸けでやってみるといい」
それまで大きく見開かれていた目がスッと狭まり意志の光がその目に宿る。そして彼女は無言で鋭く頷いた。
いきなり彼女はセーラー服のスカーフを抜き取り、自分の口へ猿ぐつわのように巻きつけはじめる。もう絶対に意地でも大きな音なんか出すもんかという彼女の意地だけはビンビン伝わってくる……けどなぁ。
「おい、気持ちは分かるが止めとけ。口の中が乾いてすぐに苦しくなるだけだ。どうせならマスクのように覆うだけにしておけ」
鋭い目はそのままに再度小さく鋭く頷いた彼女はスカーフを巻き直す。西部劇の銀行強盗スタイルの出来上がりだ。
待つ。
まだ変化は無い。
まだだ。
来た。
女がひとり歩いてくる。
ただ、その歩き方には目標とか目的(あそこに行ってコレをしよう)というような意志が全く感じられない。
あまりに虚ろだった。
そして見える限りでは目立った外傷も無い。
その女の青白い肌には口から胸元にかけて鮮やかな紅い一筋の線が流れていた。
朧気で儚気で、まるで妖精じみた女だった。
彼女だけを単体で見れば気を病んだ只の人間にも見えるし、第一世代の仮称ゾンビにも見える。判断はつかない。
二人目が来た。
クソッ!アイツだ。間違い無い。
昨日俺がホムセンから逃げる時に見かけた(走って飛び回れる)ヤツだ。
ゴロリとした丸太のように図太い腕と首。まだ朝夕は肌寒いのに黄色の布地が血まみれになったタンクトップ一枚を着たブ厚い身体。
そして身長はおよそ150cmという矮躯ながらも体重はもしかしたら100kgを超えているのかもしれないという、それくらい物凄く圧縮された高密度な筋肉鎧の身体はまるで小型のミサイルのような雰囲気を纏う。
アイツはただうすらデカいだけの筋肉ダルマよりも、いざという時には圧倒的に剣呑な気配を放つ。
間違えようもなくあの時に見たアイツだった。
しかしそのアイツもまた今はその存在感が薄かった。
アイツは人間なのか仮称ゾンビ第一世代なのかも分からない。
そして徐々に本隊がまかり出でて来た。
魑魅魍魎が連なる百鬼夜行が太陽の下を堂々と行進していた。
いや、百鬼昼行か。
今度はまだ分かり易い第二世代以降の仮称ゾンビ達だった。
あっちこっちについている裂傷の痕からは見えてはいけないモノをブラブラ見せながらフラフラ歩いている。
そして、あくまで比較的にではあるが、やはり顔面に噛み傷と思われる損壊をつけている個体が大半だった。頭部というか脳髄に近い程感染スピードが速かったという仮説の証拠のオンパレードにも思えるが、これは少し恣意的過ぎる解釈だろうか。
突然、彼女が強い力で俺の左腕にしがみつく。
マスクの下で歯を食いしばっていることが容易に分かる。見開かれた大きな目からはボロボロと滝のような涙がこぼれ落ち、全身が震えていた。
俺は空いている右手で彼女の肩を掴みながら「無理に見る必要はない。呼吸に集中だ」と、耳元で小さく囁いた。
改めて視線を外に向ける。やはり彼らを見ていると頭部の損壊に比して、首から下の損壊はほとんど見当たらない個体が多いようだ。恐らくは運動能力もそれなりに高いのかもしれない。
すると、一体の腹の辺りから……ずるり…………べちゃり……と、内臓らしいモノが滑り落ちた。
ソイツはそれにも構わず歩き続ける。
流石に俺も気分が悪くなってきた。
先のWW2(第二次世界大戦)でも腹部に致命的な大穴を開けながら敵陣を突破したとか、腕や脚を失いながらも奇跡的に生還したという日本兵の話には聞き憶えもあるけれど、まさかこんな形でそれ以上のこんな光景を目撃するとは思わなかった。
そして、路上に放置された先程のブツを踏んだ後続が、足を滑らせ、顔から地面に激突した。
……どんなドリフだよ。そう思うと同時に違和感が脳を走る。
確か、転びそうになって手を前につくとかの反射反応は……たぶん小脳の仕事だったよ、な?。
それが無かったという事は、意識的にワザとやっているか、或いは小脳もまた汚染されていると……いうような事でいいのだろうか?。
今更自分の勉強不足を嘆いたところで仕方ないが、今ここに龍子ちゃんがいないことに歯がゆさを憶える。
そんなことを考えていた時、不意に彼女の震えと力が、クタっと抜けて……
床には生暖かい液体の小さな池が出来……
彼女は気を失った。




