十話 生ける屍の左肘関節
20××年 6/26 雨、降ったり止んだり
今朝は目を覚ましてすぐに懐かしい光景が目に入る。USBコードが刺さり充電が完了したスマホだ。ははっ、本当に久しぶりだな。
たかが一年、されど一年。ずいぶん永い間ご無沙汰していた文明の香りに俺は朝っぱらから酔いそうだった。
だがしかし!……それにしてもデイブだ!。くそぉぉ!あんニャろメ~。
俺もオタク・カルチャー自体は嫌いじゃあない。むしろ好きだ。だけど自給自足生活をはじめてからはそれどころじゃかったからな。
今朝はデイブが早速ナウシコの原作を貸してくれたことには正直感謝している。だが奴はよりにもよって俺が日記の続きを書かないと最終巻は見せません!。などと言い出しやがった!。
オマケに涼宮ハルオの優遇の最新刊とか、秋山瑞っ子の幻の短編とか……あーもう、俺が知らなかったお宝をチラッチラ、チラッチラ、チラッチラッと見せびらかしてくれやがりましてっっ!思わず「グヌヌ……」とかリアルで初めて口にしてしまった、この屈辱。
おのれぃぃ!おのれおのれおのれおのれおのれおのれ!おのれ!おのれ!おのれぃぃ!!控えおろおぉぉ!!デイブのクセに!デイブのクセに!デイブのクセにぃぃーー!!(笑)。
ふはははー。なんてな。
さて、まあ初めての読者様からのリクエストだ。頑張って一年前の続きを書こうかな。
結果から言えば美智子ちゃんの食事問題は、俺達が想像していたレベルを遥かに越えて……とても大人しかった。
しかし、その異様ともいえる大人しさは却ってこの事態の異常感を際立たせていた。
打ち合わせ通り俺が美智子ちゃんを背中から抑えている間に、藤本先生が点滴や食事の介護等の全てを行う。
目隠しは取らない。
美智子ちゃんの口元には乾いた血が固まっていた……。その口腔に藤本先生はスプーンを差し入れ、こぼれた分はタオルで丁寧に拭う。
そして有り難いことに美智子ちゃんの身体はスープを素直に受け付けているようだった。俺は医者ではないが、この事実はかなり重要な意味を持つような予感がしていた。
……そして、静かに淡々と作業が進む。
どれくらいの時間を要したものか……そうして恐ろしく濃密な雰囲気の中で全ての行程が滞りなく終わった。
食事が終われば美智子ちゃんを再度、拘束しなければならないのだが、キツく縛ったベルトに強く擦れてついた傷痕がとても痛々しかった。そこでベルトが当たる手首や足首に包帯を巻き、その上からベルトを締めて再拘束は完了した。
そして……とうとう、感極まった藤本先生が嗚咽を漏らしながら美智子ちゃんに抱きついた。
…………俺達は診察室から出た。
「……本当に、ありがとう」
そう言って藤本先生はキッチンに向かう。俺は軽く頷いて、もう一度屋上に上がった。
時は逢魔が時。
この事態が始まってまだ半日程度しか経っていないのだ。そう思って見上げた空は……。
青と黒が濃密に溶け合い所々に雲が赤い線となって走る。この紅蓮に輝く雲の線は……まるで空が流す血の色のように見えていた。
……そんな荘厳で陰惨な夕焼け空に、俺はしばらく気を取られていた。
するとユキがスルリと俺の脚に身体を擦りつけて前に出た。
「(何かあるのか?ここは屋上だぞ)」
という疑問などユキ・センサーの前では愚かな戯言に過ぎない。必ず前方に何かがあるのだ。
とりあえず首に巻いていたタオルの端を右手で握り締め、拳に強く巻きつける。さっきまで付けていたグローブは残念ながら今はダイニングテーブルの上だ。
いきなり壁伝いに人や仮称ゾンビが登って来たとしても即時対応出来るように心構えを正し、そっと幹線道路側の柵に近づいた。
……無い!。
とりあえず壁には何も無く、そして路上には有るべきモノが何も無いという決定的な現実がそこに有った。
あの、完全に死んでいると思われた死体が二体共消えていた。有るはずのものが無いという異変が今ここに有った。
もう、これで確定……なのだろうか。やはり仮称ゾンビに噛まれた人間は一度死した後に怪物として蘇るのだろうか。
「死んだものは生き返らない」
凛とした声が静かに断言した。
いつの間にか藤本先生も屋上に上がって来ていたようだ。ふう……と、目が覚める思いがして体もシャンとしてきた。
ユキもこっちを見上げて「もうしっかりしてよ、ご主人」と、俺にテレパシっている気がする(笑)。
「はあ……それにしても、こうしてこの目で見てもまだ、信じられないな……」
道路上を埋め尽くしている車。その端々で蠢く人影。街頭の明かりが夕闇の暗がりを返って濃くし、血まみれの異常事態が起こった光景を覆い隠し初めていた。その眺めがますます俺の暗い想像力を掻き立てていた。
真にアポカリプスの景色。
道路を埋め尽くしている停止した車の群れ。その隙間に倒れ伏している人影。よく見ると車内にはちらほらと蠢いている人影がいるようだ。果たしてアレは人間か否か。
助けに行くべきかどうか逡巡する。
────駄目だ。
そこでまた、ふと当たり前の事に気がづいた。
あの二体は確かに消えている。だが他にも倒れている人体はいくらでも転がっていた。
確かにあの女性とサラリーマンの身体の行方は分からない。だったら今度は他の倒れている身体を見張ればいいだけじゃないか。
その事を藤本先生に話そうとしたところで、藤本先生が先に口を開いた。
「決めた」
「……どうしたんですか?」
藤本先生はすぅー、っと一つ息を吐く。
「死んだものは生き返らない。これは絶対だ」
俺もしっかり藤本先生の目を見て頷き返す。
「だから、あの一見ゾンビとしか思えない人達も決して死者じゃあ無い」
「ボクの所見だと彼らは脳に何らかの障害を負った生者だと考えられる」
「死の定義。脳死問題の議論が始まってもう十年以上は経っているけれど、確か未だに確とした結論は出ていない筈だ」
「そしてどの生物の脳も脳幹、小脳、大脳から成り立っていて、違うのはそれぞれの大きさだ」
「そんな諸々を踏まえた上で、今までに事実だと確認出来た事だけを一度しっかり積み重ねてみようと思うんだ」
おそらく長い話になるとお互いに了解して一旦俺達はダイニングに降りることにして、その前に路上の車と人体の配置を簡単にメモした。
それから俺達は先ほどのお高いコーヒーを口にしながら話し合いを再開した。
「じゃあさ、悪いんだけど堀くんが今朝から見た事をもう一度全部聞かせてくれないかな。……恥ずかしいんだけど、電話で聞いた話は、堀くんの声を聞いた途端にホッとし過ぎちゃってさ……あんまり……」
「あは、分かりました。じゃあ……」
時系列に注意して、俺が気づいた事や気になった事情だけをを列挙する。
・今朝は鳥達の鳴き声が無かった事
・タヌキは平常運転中だった事
・仮称ゾンビ化した人達はその直前まで車の運転等、日常生活を送っていた事
・物理的な圧迫感を伴うほど強力な異臭の事
・仮称ゾンビ化する分かり易い共通点は見当たらない事
・仮称ゾンビ化した人達の運動能力は個体差がとても大きい事
・その個体差とは健常時の基礎体力に準していそうな事
そして、仮称ゾンビ化した人達に共通する大きな一点として、被捕食者から発せられる抵抗や反射などの反応が無くなると、その時点で仮称ゾンビ達はまるで、一切の興味を失ったかのようにして被捕食者を放棄している。
これはあのサラリーマンと、軽装の女性が食われている時の事をもう一度よく思い出していた今になって、初めて気がついた点だ。
そしてもう一つだけ、ちょっと言えなかった事もあった。それは個体差についてなのだが。
はっきりとした確証は無いのだが、あの混乱の中で「走り回って、飛び回って、襲いかかっていた」……らしき人影を、俺は一体見ていた。しかし、見たと言っても運転中に横目でチラッと見ただけなのだ。
恐らくアレは仮称ゾンビだとは思うのだが……もしかしたら、普通に頭に来てやらかしていた一般人だったかも知れない。どちらにしろ確証は無いのだが……さすがに走る仮称ゾンビはヤバいだろう。
藤本先生は俺の話を一所懸命に手書きでメモしていた。こんな事態だ、記録は紙に残す方が確実だ。
メモが話に追いついた藤本先生は静かにペンを置き、しばらく瞑目する。
「よし、切ろう」
「何を切るんですか?」
「ボクの左腕の肘関節から下を切り落とすんだよ。こう、スパッとね」
……やっぱりか。




