211『奇妙な偶然』
「練りに練った作戦ほど、躓くと気分が悪くなるわねえ」
ひんやりとした空気が漂う暗い森の中で、意地の悪い目つきをした女が鼻を鳴らしながら呟く。その言葉とは裏腹に口元に携えた笑みは崩れない。
一際背の高い大木の枝上で砦を眺めるのはレイニー・ショー。キマイラを造った魔人にして、それらを統括する人物である。
血に染められたような赤いローブを身に纏い、不健康そうに見えるほど青い顔をした彼女は予想とは違った展開に頭を悩ませていた。
「予定ではあの砦は飛行型百体で落とせるはずだったのだけれど……」
困ったわ、と言いたげに首を傾げるレイニーの隣に立つアマンダが舌を鳴らす。
「フン。砦は平穏無事。飛行型は一匹も見当たらねえ。大した予定だな」
「ちょっとアマンダ。随分辛辣じゃない? そんなに愛しのデイジーちゃんに会えないのが辛いのかしら?」
レイニーがアマンダを茶化す。
アマンダは会話すること自体煩わしいと言わんばかりに口を閉じ、枝から飛び降りると木の幹に背を預けた。
そんなアマンダの仕草にレイニーはつまらなさそうに舌唇を突き出す。
「もう通常型だけで砦に向かわせたらどうかなー? レティ、つまんなーい」
レティと名乗る少女はおぞましいほどの刺激臭を発する犬型の魔物を撫でながらハイトーンボイスで不満を現す。
彼女は少し離れた草むらの上に座っている。刺激臭を発する犬型の魔物は微動だにせず彼女の傍らに寝そべっている。
「そうねえ。今更戻るなんて格好がつかないし、あんなちっぽけな砦だけで私の作品達を止めるなんて出来ないだろうし…いいかもしれないわね。でも、改良を重ねた飛行型を先んじて潰した手段だけが気がかりだわ」
「先輩、何をそんなに気にしてるの? お空を飛ぶだけの魔物なら簡単に倒せるよ?」
レティは空を掴むような仕草をしながら首を傾げて言った。
「あなたには言ってなかったけど、あの飛行型には魔妖樹の種を植え付けていたのよ。飛行型が死ぬと、体内の魔力を媒介にして魔妖樹が発芽する仕組みなの。飛行型が負けようが勝とうが、死体は残るでしょ? それで砦は魔分にどっぷり浸かるってわけ」
「なーるほどー。それだと人間や力の弱い魔女は生きていけないね。すごい! ……あれ? でもあの砦、普通に兵士が見張りしてるんでしょ?」
「そこよ。あの様子だと砦内で戦闘が起こった可能性は低いわ。となると砦の外。それもレイマン王国寄りの場所で潰されたということになるわ。あそこは騎士や兵士が活動できる環境じゃないし、生半可な魔女じゃ百体以上の飛行型を落とすなんてまず不可能だわ。そんなことを成せる魔女はただ一人」
レイニーはそこで溜めを作ると、レティに答えを言うよう顔で催促した。
「それってアルテミシア?」
「そう。だから気がかりなのよ。あの砦に今もアルテミシアがいるのかどうかがね」
「それは厄介だねぇ」
「ええ。それでも戦闘時間を考慮すれば、いない可能性の方が高いわ。だから今攻めるべきか悩んでいるの。わかったかしら?」
「そーだったのかー」
腕を組んでうんうんと頷くレティは満足げな表情になると今度は地面に絵を描き始めた。
(くだらねえ……)
二人の先生と出来の悪い教え子のような会話をアマンダはつまらなさそうに聞いていた。
レイニーは悩んでいると言っているが、全くそのようには見えなかった。レティに関しては言うに及ばずだ。このやり取りも茶番に過ぎない。
長い時を生きてきた彼女たちにとって、現状は通り雨に降られたようなものでしかなく、寧ろ退屈な日常に変化がついて楽しいとすら感じている。
その感情はアマンダにとっては全く理解できないものだった。
魔人となってからアマンダは人間であった頃の差異に苦しんでいた。食物を欲さず、睡眠も排泄も必要としない体はアマンダからすればあまりに歪で面白みのないものであり、時折体の内側から溢れ出してくる魔分への強い執着も、御しきれない程ではないが、自分が自分でなくなるような感覚になるので嫌いだった。
レイニーやレティは長い年月を過ごす中で人間であった頃の記憶を殆ど忘れてしまったらしく、アマンダの抱えた悩みを理解することはできない。魔分への執着も「これが無いと生きていけないから」という理由で前面に出していた。
故にアマンダは孤独感の中で自身が最も楽しめる戦いだけを心待ちにしていた。
しかし、ポルサ砦を魔分で埋めるというレイニーの作戦は不発に終わり、作戦自体を変更せざるを得なくなった。メルクオール王国の領土は現在のレイマン王国と比べると魔分が少ない。魔人には活動しにくい場所である。
地上型のキマイラに植え付けられた魔妖樹の種が発芽するまで、魔人たちの戦いも延期となった。
キマイラの軍勢と共に砦に乗り込む気でいたアマンダは酷く不満を重ねた。
「レイニー。お前、たらたら理屈並べたところで、本当はアルテミシアとか言う奴が怖くて手をこまねいているだけじゃねえのか?」
苛立っていたアマンダは険のある言葉を放った。
樹上のレイニーがアマンダの方へ顔を向ける。
「言ってくれるわね。まあ、当たらずといえども遠からずってとこかしら」
レイニーは涼しい顔で受け流すと、聞き分けの悪い子供に対して諭すように言った。
「戦いたくないのは確かだわ。でも怖いなんて思ってないわよ? ただ単に面倒なだけ。それに戦っても利益がないもの。殺したって死なないから。ある意味魔人よりしぶといのよね」
「フン。どうだか」
「言っておくけど、アルテミシアの力を甘く見ない方がいいわよ? まあ、それもそのうち分かるわよ」
言っても聞かないと思ったのか、レイニーは肩をすくめて説明を打ち切った。
アマンダにとって、アルテミシアは所謂おとぎ話の中の登場人物だった。
代を重ねて未だ最強の座に君臨することに尊敬の念すら抱いていたが、【二つ名】を受ける際、実際に会った時はただの嗄れた声を発する呆けた年寄りにしか見えなかった。その時点で尊敬の念も消え失せ、アルテミシアは空想上の人物と成り果てたのだ。
レイニーが言っている人物も人違いなのだろう、とアマンダは疑っていた。
魔人であっても魔分の欠乏や修復不可能な破壊で死ぬ時は死ぬのだ。ましてや人間で死なないなんてあるはずがない。
アマンダは小さく鼻で笑うと、立ち上がる。
それはレイニーが「色々と考えるのも面倒になってきたし、進みましょうか」と言うのと同時だった。