210『国王の役割』
「森の影に沿うようにして敵が布陣しております!」
始まりは唐突だった。
昨日までは緊張感を高めつつも静まり返っていたポルサ砦だったが、今は蜂の巣をついたように騒然としていた。
初めは斥候を放っても異常なしとの報告がされていた。このような報告がされたのは三度目の斥候を放ってからだった。
四度目の斥候からは敵勢力の規模を、五度目の斥候からは指揮官の有無の情報がもたらされた。
続々と集まる情報によってもたらされたのは安心ではなく、次第に膨れ上がっていく敵勢力の脅威からくる不安だった。
指令室には国王、ヨハン・レーベン・メルクオールがいた。騎士団団長ゼノン、副団長のブラウン、そして皇太子であるバーネッティの姿もある。
彼らは敵勢力が確認できてから一刻、この部屋に篭っている。
「いったい奴らは何を考えているんだ?」
メルクオール国王は皆に聞こえるように呟く。誰でもいい、自身の疑問を解消させるような意見を欲しているのだ。
「もう一刻も動きがありませんね。何か機を待っているのか……」
「魔物は夜目が効くからな。夜更けと同時に進軍してくるのかもしれん」
これに応えたのブラウンとゼノンだ。
実戦経験の豊富な彼らは各々の意見を口にする。それらは納得できるものであり、機知に富んだものであった。
「我らが作戦立案者殿はどこに行ったのだ?」
「それが……今朝方、件の魔女王と空から偵察すると出て行ってから戻ってきておりません」
「あのバカ……」
国王は頭を抱えて悪態をつくと、冷めきった紅茶を舐めるようにして飲んだ。
「魔女王の力を宛にできないとなると、当初の予定通りに事を進めねばならん」
当初の予定とは騎士や兵士が前線を受け持ち、魔女が後方から火力支援を行うというもの。
騎士の負担は大きいが、理にかなった作戦である。
ヴィオの力を借りられるまではこの作戦が主軸であった。
作戦の発案はゼノン。ただし、永らく平穏無事を保ってきたメルクオールの兵士たちは歴戦の勇士とは言えず、到底戦えるものではないという判断から廃案になったものだ。
ゼノンもこの作戦には不透明な点が多くあったため発案した当人も不安だった。
「敵が沈黙している間に打って出るのはいかがでしょう。騎士団は第一から第十まで全て出撃可能です」
ブラウンが好戦的な意見を出す。一方、国王やゼノンは苦々しい表情を浮かべた。
砦を最大限に活かすならばこちらから打って出るのは一つの案でもあるが、あまりにも戦力差があるため躊躇しているのだ。
「敵は魑魅魍魎の類。“惨断”と称されるブラウン副長ならばまだしも、私のような矮小な人間では太刀打ちできないでしょう。砦に篭り、一迅の風が来るのを待つべきでは?」
いつになく真剣なバーネッティに国王が目を瞠る。
いつもなら飄々とした態度で難しい言葉を羅列する男だが、今日は一味違うようだ。まだわからない部分はあるが。
「バーネッティは自身を卑下しすぎだ。お前も隊長を務める身なのだから相応の実力はあるはずだ。まぁ、それはいい。して、一迅の風というのは?」
気恥ずかしさから早口で話す国王に、バーネッティは肩をすくめておどけた様な表情をとった。
「一迅の風というのは魔女王のことですよ。彼女はまさに冬を終わらせる春の風。その暖かい風は心胆を寒からしめる魔物共を一掃するでしょう」
「まったく、初めからそう言えばいいのだがな……。ともあれバーネッティの意見は我も最もだと思う。……少女のような外見の魔女を頼るのは心許ないと思うがな」
国王が最後の言葉を苦笑混じりに出すと、指令室内に苦笑いが伝播した。
「厳しい戦いになる。ゼノン騎士団長、兵の指揮を頼む。兵糧の管理も忘れるな。ブラウン副長、場合によっては敵がこの地を無視して国内に入る恐れがある。その場合、騎兵を用いて敵の後背を突け。魔女王が戻るまで敵を砦に張り付かせるのだ」
「「はっ!」」
二人は簡単な敬礼をとると指令室を出て足早に去っていった。
「バーネッティは……」
「父上、私も出ます」
本来、王族が兵を率いて前線に立つことはない。
メルクオールでは王位を継ぐ者は騎士団に所属するという慣例があるが、余程のことが無い限り戦闘には参加しない。それは昔の戦時であってもそうだった。
今の平和であるメルクオールでは戦争すら遠い過去の出来事であり、風化している。国王もせいぜい魔物を狩るくらいで、戦場に立ったこともない。
「しかしお前は……」
「私は第三騎士団の隊長です。私でなければ誰が第三騎士団を率いるのですか? それに私が死んでも代わりはいますから」
「うむむ……」
「……では父上、ご健勝で」
言い淀んだ国王にバーネッティは微笑みで返すと、部屋を出た。
一人となった国王は装飾の凝った椅子に腰掛けると深いため息をついた。
バーネッティの代わりがいるという発言に面食らったのだ。
高貴な血を尊ぶのならバーネッティが最善の選択肢だが、こんな時勢だ。多少の貴賎は問われないだろう。
「どう転ぶかはこの戦争次第か……」
世継ぎの問題も国が残らなければ始まらない。
国王は視線を上げると、椅子から立ち上がった。
「息子だけに無理させるわけにはいかぬからな」
ぽつりと呟き、部屋を後にする。
国王が前線に赴くと、歓声で迎えられた。バーネッティは少し嬉しそうにしながらも呆れた表情を浮かべた。
指令室に誰もいないという異常な事態となったが、兵の士気は格段に上がっていた。
その半刻後、キマイラの軍勢が動き出した。
地響きと共に行軍してくる軍勢に砦内は騒然とし、色めきだった。そこにフィーナとヴィオの姿はまだなかった。