208『魔女王と空』
現在、フィーナとヴィオはレイマン王国東部上空を飛んでいる。
眼下では可視化できるほど魔分が霧状となって漂っている。地表に近くなるほど濃くなっているようだ。上空にはほとんど魔分が届いてないことから、魔分は酸素や窒素といった空気中の成分と同様に質量があるらしい。
フィーナ達はあまりに濃い魔分のせいで偵察はおろか近づくことすらできないでいる。霧の見た目も体に良さそうには見えないので、突っ込む勇気も出ない。
隣のヴィオも心なしか厳しい表情を浮かべていた。
「これは……環境破壊という言葉すら生易しいのう」
「魔人を撃退したとしても魔分によって変質した環境はどうにもなりませんからね」
フィーナとヴィオはおぞましい程に変貌を遂げたレイマン王国の植生を前にしてため息をついた。
魔分の影響を受けるのはなにも動物や人間だけではない。
水や植物、土壌にも多大な影響を与える。
多量に魔分を含んだ水は常人には毒そのものであり、一口でも飲もうものなら魔人化は避けられない。
植物に至ってはまともなものが一つとしてない。
畑の作物は自分の脚で好き勝手に闊歩し、木々はトレントとなって談笑にふけっている。
まるで魔の巣窟だ。魔女にとっては素材の宝庫ではあるが、一般人からしたらとても人が住める土地ではない。こんなところに住むくらいなら荒野に住んだ方がマシだと考えるかもしれない。
それほどまでにレイマン王国は変わり果てていた。
「あ、何か飛んできますよ!」
フィーナはこちらに向かってくる影を指差し、注意を促した。
影は鳥の群れのように見えたが、近づくうちにそれは間違いだと気づく。
「キマイラの群れか……。あの大きな翼を見るに空を飛ぶことに適した個体ということじゃの。山脈は越えられそうにないが、街道に向かわれると厄介じゃのう」
「何を暢気に解析してるんですか! 来ますよ!」
キマイラの群れは物凄い速さでこちらに向かってきている。獅子が大口を開けて威嚇しているので、フィーナたちは敵とみなされていると判別できる。
迎え討つしか方法はないのだが敵の数は百に近く、一筋縄にはいきそうにない。
頼みの綱のヴィオは「ほうほう」などと暢気に観察しているだけなので、フィーナは顔を蒼白させてステッキを手にして戦闘態勢をとった。
リシアンサスに乗りながらの戦闘は久しぶりである。
フィーナは飛行中の戦闘が得意ではない。飛行に注意を払わなければならない分、使える魔法が限られてくるからだ。
フィーナが得意とする土魔法は土がない時点で使い道はないし、風魔法や雷魔法は使い方を誤ると自爆する危険性もある。
空を飛びながら適切な魔法を使うには経験が必要であり、フィーナはその経験が足りていなかった。
箒レースでフィーナがリシアンサスという有利な面を持ち合わせていながらレンツのベテラン勢に苦戦した理由がこれだ。
「く…乗り込みながらのステッキは……取り回しづらい!」
フィーナのステッキは分割させることで結晶魔分の恩恵を最大限に受けることができるのだが、リシアンサスという狭い空間ではかえってそれが欠点になっていた。
「火魔法を……ってこれ水魔法の結晶魔分だ! あーもう!」
珍しくわちゃわちゃしているフィーナを見て、ヴィオは腹を抱えて笑っていた。
そのヴィオは器用に手放しで箒に跨っているのでなんとも憎たらしい。
「まったく、フィーナもまだまだじゃのー。ま、ここは妾に任せよ」
ヴィオがニシシと白い歯を見せて笑う。
フィーナは頬を風船のように膨らませながらも、ヴィオの言うとおり退いた。
「空中戦の基本は機動力と単純火力、そして命中力。弟子に見せてやるとするかの」
ヴィオはそう呟くと箒に張り付くようにして姿勢を倒し、高速飛行を開始した。
キマイラの群れの間を縫うように飛行し、すれ違いざまに圧縮させた空気弾を当ててキマイラを地上に叩きつけていく。
まるで地に吸い寄せられるように落ちていくキマイラたちは、地に打ち付けられると自重によって呆気なく潰れた。
キマイラ一体一体は決して弱くない。魔法を絶えず使用してくるし、爪や牙も健在だ。空を飛ぶためなのか筋量は目減りしているが、しなやかな体から放たれる刺突攻撃は背筋が寒くなるほど鋭い。
それでもヴィオとの力量差は歴然だった。
フィーナはその光景を見て思わず「おおー」と声を上げた。
ヴィオが使う魔法は風魔法一つだけである。だが空気を高密度に圧縮させる制御能力や的確にキマイラの攻撃を避ける飛行能力は流石であった。
アルテミシアの系譜をなぞるヴィオなので、実際はもっと簡単に殲滅できるのだろう。
フィーナも自分に見せるためにこういった戦い方をしていると気づいていた。
数分後、全てのキマイラを叩き落としたヴィオは「終いじゃ」と火魔法を地上に向けて放った。
なんの変哲のない至って普通の火魔法だったが、高濃度の魔分の影響を受けた火魔法は、可燃ガスに引火するように燃焼範囲を広げ、地上はあっという間に火の海に包まれた。
地面に叩きつけられて虫の息だったキマイラたちが炎に巻かれ、炭化していく。
時間にして十分も経っていないだろう。ヴィオがこの戦いに使用した魔力はかなり少ないことは明白だった。
「ざっとこんなものなのじゃー」
手を払ってドヤ顔を決め込むヴィオに、フィーナは苛立ちながらも「お疲れ様でした……」と素っ気なく労った。
「原生物を真似たといっても所詮は紛い物じゃの。大したことないわ。数だけは豊富なようじゃがの」
「ヴィオはそうかもしれないですけど、普通の人にとっては厄介極まりないですよ。騎士団でも相手できるかどうか……」
「そうじゃのう……。しかし騎士にはお主が対抗手段を与えたのじゃろう? それでなんとかならんのかや?」
「対抗手段と言っても何分急ごしらえだったので……」
「効果は実戦にて推して知るべしか」
「はい」
フィーナはメルクオール騎士団にキマイラ相手でも対抗できるような手段を施していた。
キマイラを倒すのに剣や槍だけでは心もとないという国王の意見に、それならばとフィーナが助言したことで作られた産物。
“新しい兵器”とも言えるそれは、これからの戦争の在り方すら変えかねないものだった。
この戦争で日の目を見ることになるだろうそれが配備される様を、フィーナは見たくないようなどこか気にかかるような、そんな複雑な思いで見送った。
「正直、あれを作って良かったのか、今でも気になっています。この戦争が終わっても、どこかであれを使って別の戦争が行われるかもしれないと、嫌でも考えてしまいます」
フィーナが憂鬱な心境を吐露すると、ヴィオはハンと鼻を鳴らしてそれを振り払った。
「魔女は国家間の戦争には不干渉を貫く。その教えを守っていれば、そんなことにはならんじゃろう。あれは魔女の力なくては使い物にならんからのう」
「でももしものことがあります。魔女がその教えを必ず守るとは限らないじゃないですか」
「いらぬ杞憂じゃの。魔女に教えを守らせるために魔女王である妾がいる。人間を王が統率するように、魔女も根っこでは妾に統率されておるのじゃ」
ヴィオの言葉にフィーナは首を傾げた。今までヴィオにああしろこうしろとは言われたことがなかったので、ヴィオが魔女を統率しているということに疑問を感じたのだ。
「ま、お主らには分からんでも不思議ではない。歴代の魔女王が流布させた教えは、もはや魔女の中で生活の一部になっておったり、道徳や仕来りとなっておるからのう。これは食事の挨拶を母から学ぶ事と同義じゃ。じゃから教えを破るということは母にすら背くということじゃ。フィーナも母親には弱いじゃろう?」
フィーナは苦笑しながら頷いた。頭の中ではドラゴンに頬をすり寄せながら崩れた顔をしたレーナの顔が浮かんだが、そんな一面ですら許せる気になってしまった。それが母親だからかと、フィーナは納得した。
「母の教えすら守れぬ悪子は誰かが叱らねばならん。その誰かが魔女王であり、妾なのじゃ。フィーナも魔女の教えを無闇に破るでないぞ。妾に叱られたくなかったらな」
ヴィオはニヤリと笑いながら指を鳴らした。
直後、地面から間欠泉のように水が噴き出し、炎の海を鎮火させていく。
炎の海があった場所はあっという間に湖となり、炭化したキマイラの死体は水中へと沈んだ。
腕の一振りで海を裂き、山を割る魔女の王アルテミシア。
フィーナはその力の一端を感じ取り、ぞくりと背筋を震わせながら頷いた。