197『デイジーの本気』
フィーナはリシアンサスから飛び降りると、ステッキに魔力を込めた。茶色の結晶魔分が強い輝きを放ち、巨人の手が蛇の頭を握りつぶす。グシャッと果物が破裂しような音が鳴り、巨人の手の隙間からポタポタと血が垂れる。
尻尾を握りつぶされた未知の魔物は怒りの咆哮を上げた。大翼を羽ばたかせ、前足を上げて威嚇する。
「獅子の頭に大鷲の翼、背中にはヤギの頭がついていて、尻尾には蛇ね……。まんまキマイラの見た目だけど、ゴル・スパーダではないんだよね」
フィーナはキマイラと名付けた魔物を注視しつつ、魔力を回復させる水の入った瓶を護衛の魔女のもとに投げてよこした。護衛の魔女が瓶に口をつけるのを見て、フィーナは息を吐く。
ここに来るまでにエリーから聞いた話によると、弱い者を優先的に狙ったり、応援を呼ばせないよう使い魔を潰したりと魔物にしては高度な知能を持っているらしい。
フィーナはそれを聞いて、交配の結果に生まれたただのゴル・スパーダではないと考えていた。機関でもかなり優秀な魔女を護衛につけていたにも関わらず、ここまで苦戦するのは信じがたいことだ。デイジーのスパルタ訓練につき合わされた機関の魔女はそこらの魔女より実践経験が豊富で魔法の技術も高い。ラ・スパーダ、ジ・スパーダなら一人で倒せるし、相手がゴル・スパーダであっても魔力切れになるほど苦戦しないはずなのだ。
「この魔物がなんなのか調べる必要がある。デイジー、逃がさないように注意してね」
「ほーい」
デイジーは暢気な声を上げると、一陣の風を身に纏い、キマイラのもとへと走った。
「デイジーあぱかっ!」
身体強化を発動させたデイジーはキマイラの懐へと潜り込み、真上へと強烈なアッパーカットを繰り出した。一瞬消えたかと思うほどの速さだ。キマイラもデイジーの姿を見失っていた。
キマイラの体躯がくの字に折れ曲がり、巨体が宙へと浮く。キマイラの全体重を受けたデイジーの足は地面を抉らせ、音速を超えるような拳の一撃は木々が靡くような風圧を起こした。
宙に浮いたキマイラは獅子の口から血反吐をまき散らしながらも空中で一回転し地に降りた。確実にダメージは入っているようだが致命傷には威力が足りないらしい。
「かったーい!」
デイジーが下唇を出しながら手をプラプラとさせる。キマイラの硬さにご不満のようだ。
「デイジー、サム君を治療するから、その間は任せたよ」
「ほーい」
一先ずキマイラの相手はデイジーにお任せだ。フィーナはステッキを仕舞うとサムのもとに歩み寄る。
「サム君、他の班員はどうしたの?」
「僕が蛇を引き付けている間に先に逃げてもらいました」
「そっか。ほかに怪我人は?」
「いえ、僕以外は……。あ、護衛の魔女が魔力切れで倒れて―――」
「それなら大丈夫。すぐに回復するから。よし、これでサム君の怪我も元通り」
「え? うわ! 本当に治ってる!」
「あとはこの薬を飲んでね。毒がまだ残っているから」
フィーナが差し出した薬を手に取ると、サムはぐいっと一息にのみ、苦そうに顔を歪めた。死にそうな目にあったからか、サムは少し精悍な顔つきになっていた。
「フィーナ先生、助けてくれてありがとうございます。先生が来ていなければ僕は……」
「お礼は後で。まだ終わってないんだから油断しないで。それにどうも一筋縄ではいかない相手みたいだしね」
フィーナはキマイラに目を向けると、観察するように目を細めた。
キマイラはデイジーの攻撃を受けつつもかろうじて致命傷を避け続けている。デイジーの消耗を狙っているのか、かなり消極的な戦い方である。だが岩をも砕くデイジーの拳撃をもらっているのに、まったく動きを乱さないのは脅威だ。これでは並大抵の魔女では傷つけることすらできないだろう。
「デイジーパンチ! デイジーキック! デイジートルネードアタック!」
吹き出してしまいそうになるデイジーの連撃だが、威力は折り紙付きである。その証拠にデイジーの攻撃の余波によって、地面は隆起し、木々は吹き飛んでいる。まるでデイジーそのものが嵐のようだ。
「こ、これがデイジー教官の本気……」
フィーナの隣には魔力を回復した護衛の魔女がいつまにかやってきていて、デイジーの戦いを見てごくりと喉を鳴らしていた。
教官時代のデイジーしか知らない護衛の魔女はデイジーが本気を出した姿を見たことがない。特殊魔法を存分に使い、魔物を力でねじ伏せるデイジーの戦法も訓練中に少し見ただけである。
デイジーの戦い方は本来近づかれないようにいくつも予防線を張って戦う魔女の戦い方とは異質のものだ。ギリギリの攻防に息をのむのもわかる。だが―――
「デイジーの本気はこんなもんじゃないよ」
「え?」
フィーナがそう言うと、サムと護衛の魔女は驚いた様子でこちらを見てきた。レリエートの魔女が襲撃してきてから、デイジーは身体強化に拘った戦い方をヴィオに止められていたのだ。初めはそのことで燻っていたデイジーだったが、いつまでもそのままではなかった。
身体強化を使用せずとも、他の魔法で代用しつつ接近戦を行う努力をデイジーは続けていた。苦手だった魔法の操作も最近では随分と上手くなってきている。それにデイジーは戦闘訓練を欠かしたことがない。こと戦闘に関してはもはやフィーナとイーナのタッグでも及ばず、寧ろフィーナ達の戦闘訓練にデイジーが付き合ってくれているほどである。
そんなデイジーの本気があの程度なはずがない。身体強化を使ってはいるが、デイジーは全然本気ではない。フィーナがサムを治療する間の囮として動いているだけでこれなのだ。
「デイジー、治療は終わったよ!」
フィーナがそう声をかけると、デイジーは口元に笑みを浮かべた。
デイジーの纏う空気が変わる。キマイラの気を引くという目的が達せられ、高揚感とともにその目が獣のように赤く光る。グローブからは紫電が絶えず放出され始め、細い糸を纏うようにデイジーの体を取り巻く。デイジーを中心に風が荒れ狂い、細々としたものを吹き飛ばしていく。紫電によってデイジーの赤い髪は逆立ち、風によって右へ左へと靡く。剥き出しになった歯が陽光を反射し、白く輝いていた。
まるで触れるものは誰彼構わず排除するという獰猛さに、護衛の魔女とサムはガチガチと歯を鳴らした。キマイラに臆することのなかった護衛の魔女でも、本気を出したデイジーには本能的な恐怖を感じていた。
ドンという音とともに地が割れ、デイジーが走り出す。フィーナが瞬きするころにはデイジーは既にキマイラの真正面で拳を振り上げていた。もはや宙を飛んでいるような速さに、キマイラは目を見開く。すかさず前足を横なぎに払ったが、そこにデイジーはいない。敵を見失ったキマイラは狼狽えた。狼狽するキマイラの頭部にデイジーの拳が突き刺さる。デイジーは空中にいたのだ。グシャリとした異音とともにキマイラがの頭部が地に埋まる。
デイジーは返り血に赤く染まったグローブを一瞥すると、頭を埋めて動けないキマイラに雷魔法をお見舞いした。明滅する視界をもろともせず、デイジーはさらに拳を振り上げる。
「!!」
そこに尻尾の蛇がデイジーの首元に噛みつこうと体をしならせて迫った。デイジーはそれを掌底一つで叩き落とす。その衝撃で蛇の頭部は半分ほど陥没し、尻尾は力をなくしたかのようにだらんとして動かなくなった。
「あの蛇、さっき土魔法で潰したはずなのに、よく動けたね」
フィーナは一連の攻防を見て訝しそうに呟く。
「僕が目に刺したナイフの傷も見当たりませんでした。潰されたときにナイフは外れてしまったようですが、傷がないのはおかしいです」
サムの言葉に護衛の魔女も「そういえば…」と呟く。
「フィーナ教官、あの魔物は普通の魔物と違います。魔法を使うようなのです。なぜ魔法を使えるのかはわかりませんが、あの背中のヤギが目を開いたら注意するべきかと」
護衛の魔女はキマイラが魔法を使う際は背中のヤギの目が開くと教えてくれた。ヤギの目は今は閉じられている。エリーも普通の魔物と違うと言っていた。
(原生物……)
フィーナは心の中でそう呟くと、眉間に皺を寄せた。
魔法を使える魔物というとそれ以外にない。フィーナは想像以上に厄介な相手だったことに顔を曇らせた。
フィーナが顔を曇らせるのとヤギの目が薄く開かれるのは同時のことだった。