2『死神の契約』
私は黒川ヒカリ。二十六歳。小中高と、大人しく地味な女の子として生活してきた。大学はそれなりに頑張って六年制の薬学部を卒業し、薬剤師となった。仕事に慣れはじめて、さあここから頑張るぞ!と思っていた。
それなのに、それなのに私は今、病院のベッドの上で寝ている。
どうやら私は不治の病らしい。さらに余命も幾ばくかもないと言う。
医者の宣告は案外あっさりしていた。ドラマで見たような光景に、私はなんとなく実感が持てず呆けていたような気がする。
かわりに両親はともに泣き崩れ、私に対して何度も何度も繰り返し謝った。当の私はというと、なんとなくそうなんだろうな、といった感じで、あまり悲観しなかった。それを見て両親はさらに謝罪を繰り返した。いや、懺悔だったかもしれない。
両親の目には娘がすでに生を諦めているように写ったらしく、それからというもの普段以上に優しい両親に甘えっぱなしで月日が経っていった。至れり尽くせりだし、既に末期ということで辛い闘病生活もなかったため、死ぬことは理解していても全然実感が湧かなかった。
しかし病状が悪化すると、徐々に不安が募っていった。まる一日、目を覚まさなかった時は『次眠ったら、もう二度と目が覚めないかもしれない。』といった恐怖で、朝まで涙を流しながら震えた。
「えーと‥‥こんなもんかなあ‥‥ あ! 同期のマキちゃんにも書かなきゃ!」
私は家族や友人、お世話になった人に向けて手紙を書いていた。自分が生きていたという証明として、思い出せる限り手紙に残した。
この一年で見舞いに来る人もかなり減った。薄情だとは思わないが、やはり人に忘れられて死ぬのは怖い。もう自分に残された時間は少ないことはわかっている。何かしら行動してないと、お腹に重石を詰めたように身動き出来なくなる気がする。
最後の手紙を書き終わると、凄まじい脱力感と眠気が私を襲った。長いこと書物をしたせいで疲れてしまったらしい。ベッドに潜り、目を閉じる。頬に涙がつたったのは気のせいではないと思う。
「‥‥‥‥?」
目覚めると部屋の違和感に気づく。まるで時が止まったかのように、シンと静まりかえっていて、身体もピクリとも動かせない。
ふと、枕元に人の気配がするのに気づいて、視線だけを送る。
そこには右手に大鎌を持ち、黒いローブで身を包んだ骸骨がいた。イメージ通りの死神だ。骸骨の瞳の奥は吸い込まれるような漆黒で、白い骨の左手は所在無さげに閉じたり開いたりしている。
「!!!」
声を上げようとすると死神は左手の人差し指を口に当て、シーッ、と息を吐いた。その動作がなんだか滑稽で、恐怖が和らいだ。
「落ち着きなさい。私は死神のザハテ、あなたの命は今日ここで終わることが確定しています。理解出来ますか?」
教師のような紳士的な話し方で尋ねる死神に、私は軽く頷くと、死神は満足そうに大鎌の柄を指でトントン、と叩いた。
「理解が早くて結構。何か言いたいことや質問はありませんか?」
本当に教師のようだ。大学の研究室にいた伍島教授にそっくりだ。声を出すことに集中して、顎や舌を動かして見る。問題無さそうだ。
「死神さん」
「ザハテ様と呼びなさい。私は短期で死神役をやっているのです。普段はもっと高名な神様をやっているんですよ」
死神は神様のバイトみたいなものなのだろうか。ザハテは死神と呼ばれるのが嫌いらしい。心外な、と言わんばかりにふんぞり返っていたが、見た目は骸骨なのでまったく偉そうには見えない。神というよりも、どちらかというとチープなお化け屋敷の置物だ。
「ザハテ様、私、やりたいこといっぱいあるの! どうにかならない?」
私はとりあえず死から逃れられないかお願いしてみた。
まだ結婚もしていないし、夢だった全国温泉巡りも達成していない。近所にできたイタリアンレストランにも行ってみたかった。やり残したことは色々とあるのだ。
「無理です。と言いたいことところですが、先日契約を交わされた人が居ましてね。一応こちらの規定にも反しませんし、仕事もすぐに片付けられるので、あなたの要望には答えたいと思います」
まったく要領を得ない話をされているが、要はなんとかなるってことだ。ただ聞いてみただけなので、意外に簡単そうで拍子抜けしてしまう。
「契約?」
「はい。こことは別世界での転生体として生きていくことが出来ます。」
ザハテは契約によって死者の魂を返すことになっているらしい。ただ肝心の魂の半分がすでに消失しているため、残りの半分をどこかで補う必要があると説明した。
「あなたの魂とその死者の魂を同期させ、一人前の魂として転生体に定着させることが可能です。」
「それって私が私で無くなるってことじゃない?」
「まあ、そうですね。あなたの記憶とその死者の記憶を引き継ぎ、その死者の身体があなたの身体になりますね」
なんだかよくわからないけど、記憶を引き継げるなんてお伽噺やゲームみたいで面白いかも。
でもそうなると結婚はまだしも温泉巡りやイタリアンレストランには行けないかもしれない。異世界にも温泉……あるのかな。
「無論、気が乗らないのならば辞退することも可能ですよ。その場合は規定通り、黄泉のループへ旅立ってもらいますが」
決めかねて悩んでいると、ザハテは肩を竦めるようにして提案してくる。
黄泉のループってなんだろうという気持ちはあるけど、響き的になんだか無限ループに通じるところがあって怖いので、私は慌てて了承した。
「いえ、お願いします!ちょっと怖いけど……やってください!」
「はい。では暫しの眠りを―――」
ザハテは大鎌を軽く地面に打ち付け、胸元から鈴を取り出し、鳴らした。瞼が重くなっていき、闇に包まれた。そのまま闇のなかに深く沈んでいく。闇のなかに小さく弱々しい光が感じられ、その光が自分の体内に吸い込まれるような感覚を持った。
早まったかなあと思いつつも、次第にふわふわと気持ちのいい空間がやって来て、今度は全身に針を刺されたように痛み出し、私は悲鳴を上げた。
こんなに痛いなんて聞いてない、と叫ぼうとしたが、声に乗せることができない。
私は痛みが消えるまで、ただじっと待つことしかできなかった。