188『フィーナ先生』
赤毛の少年、サムが白目を剥いて気絶する様を周囲は口をあんぐりと開けて見ていた。
「な、なんだ今のは!?」
「紙が割けるような音がして……サ、サム!?」
「おい、サムのやつ起き上がらないぞ! まさか死んだのか!?」
「きゃあああ!」
「先生がご乱心だぁ!」
もはや教室は阿鼻叫喚の渦である。気の強い生徒は憤慨し、フィーナを打倒せんと小さい拳を震わせながらいきり立ち、気の弱い生徒や女生徒は涙目でパニックになっていた。
「静かにしなさい」
しかし、フィーナがぽつりとそう呟くと、混乱の最中にあった生徒たちは嘘のように口をつぐみ、無人の教室かのように静まり返った。
「バ……サム君は気絶しているだけです。魔法を見せて欲しいと言っていたので要望に応えただけです。
さて、紹介が終わったので授業を始めますよ」
「え……あの、サムは……?」
「転がしておきなさい。直に目を覚ましますから」
フィーナはそう言うと箒に跨って教科書を広げた。
普通ならばこの辺りで黒板の上部分に手が届かなくて四苦八苦する、なんてシチュエーションが出来上がるのだが、フィーナの場合そんな事にはならない。
箒に乗っていれば体格の不利などあってないようなものなのだ。これならば容易に上部分にも手が届く。今回だけは乗り込み型の箒、リシアンサスではなく、通常の魔女箒を用意しておいたのだ。フィーナに抜かりはない。
「と、飛んだ!?」
「これが魔法か!」
「はいはい、静かに。まずは王都周辺の魔物について復習していきましょう。
王都の周辺には凶暴で強い魔物は少ないです。これは騎士団が定期的に間引いているからですが、一体で脅威ではなくても複数集まると油断ならない相手となる魔物も多く、決して安全ではありません。具体的な名称を挙げると―――」
唐突に始まった授業に、生徒は驚く隙もなく、慌てて教科書を開く。度肝を抜かれていたのは見学していた前担当のゲラルドである。
ゲラルドは今回の担当替えに不服だった。いくら王城からの勅命だと言っても、簡単に納得できるものではなかった。
さらに、新任としてやってきたのは年端もいかない少女である。ゲラルドの不満が募るのは当然だった。どうせ大した授業はできまいと食って掛かっていたゲラルドはフィーナが丁寧な授業を始めたことに驚いていた。
それもそのはずで、フィーナは魔物と実際に戦っているのだ。明確な弱点と習性を提示し、剣や槍で戦う場合はどうするか、を考察させる。時には失敗談を語り、どこが失敗だったかを事細かに教える。そのリアリティは書物だけでは得られない。実体験を交えられた授業は内容が濃く、かつ惹きつけられるものだった。
「ヒュージラットという魔物は屍肉を漁ることで有名ですが、彼らも屍肉だけで生活しているわけではありません。基本的には木の実や穀物を食べ、場合によっては雑草や木の根まで食べます。その為、どこにでも出現する可能性があり、かつ病原体でもあるので非常に危険な存在となり得ます。おまけにこの魔物は恐ろしく臭い上に、すばしっこい、私たち魔女であっても面倒な魔物に該当します。
ではこの危険な魔物を討伐するにはどうするか、どこにでも出現するのならどこを探せば良いのか、それはヒュージラットの習性を踏まえれば見えてきます」
ゲラルドも長い間教師を務めてきたベテランだが、フィーナのように本物の魔物を知らない。魔物の生態や弱点を知っていても、魔物の臭いや唸り声、食べ物の好き嫌いまでは知らない。
ゲラルドは目から鱗が落ちるのを繰り返し、気づいた時には熱心に授業の内容を書き写していた。
「他にもアーモンドアントという農繁期によく見かける魔物がいます。この魔物についてはエリオ殿下が詳しいでしょう。彼は自ら剣を持ち、この魔物を既に狩っています。騎士団を目指す人は彼に話を聞くと良いでしょう」
フィーナがそう言うと、周囲からは「おおー」と称賛する声が上がり、エリオはその声に顔を赤くして応えていた。
この世界に生きる上で、魔物は人類共通の敵である。昔からその脅威は大きく、例え村人であっても有事には自分たちの生活基盤を守るために武器を手に取ることがあった。故に、小さくても魔物を討伐したという実績は男性なら賞賛に値し、女性からも黄色い声が上がるという誉れ高いことなのだ。
だが、エリオ本人の心情としては複雑である。あの時は男としても騎士としても王族としても不甲斐なかったと自覚していたからだ。それなのに周囲からは褒め称えられるので、エリオは内心気まずい気持ちになっていた。
授業はその後も円滑に進んだ。
「今日はこれで終了です。次の『指揮統率論』では今習った魔物に対し、どう相対するかを自分たちで考えた対策を討議形式で学んでいきます。そして明日の『野外演習』では『指揮統率論』で考えた対策を、実際の魔物に通用するか試しますので、各自心構えをしておくように。生半可な対策を講じていると、怪我をするので注意してくださいね」
「え……?」
「魔物と…戦闘? 嘘だろ?」
「今日習った魔物だって、王都周辺の魔物とは言っても下手をすれば大怪我もあり得るぞ……」
「私、どちらの授業も取ってなくて本当に良かったわ」
生徒たちの泣き言を最後に、授業は締め括られた。
野外での演習には当然フィーナたち三人の他にも、騎士団から数人の助っ人が付くので危険はほとんど無いのだが、今まで生きた魔物を見たことがない生徒たちは明日の『野外演習』への不安に顔色を曇らせていた。
そしてそれらの授業を選択していない女生徒などは心底安堵し、明日の『行儀作法』なる授業に期待を膨らませていた。
しかし、ゲラルドは知っている。今回の配置転換で、『行儀作法』の授業も担当が変わっていることを。
そして新たな担当が文官派閥トップのレイクラウド公爵だということを。『行儀作法』の授業には外部から選りすぐりの人物たちを招待するつもりだ、とレイクラウド公爵から聞いていたゲラルドは、額に手を当てて今後の生徒たちの行く末と苦労を憂いた。
そして気絶していたサムは授業を丸々受けられなかった為、居残りとなった。