181『悪霊憑き』
「こちらに怪我人がまとめられております」
「敷地内にこんな立派な建物があったんですね。知りませんでした」
ピボットに案内されて着いた先は、宮殿の裏手に建つ豪華な建物だった。
中は広いホールになっており、特別な式典などに利用するそうだ。
「今回は極秘の遠征だったので、治療場所としても、なるべく人目につかない場所が必要でした。ここならば理由なしに近づく者はそうはいませんから、都合が良かったのです」
ピボットは扉に手をかけ、ゆっくりと開くと、扉の隙間から、むっとするような血の臭いが漂ってきた。
頭上にはシャンデリアが爛々と煌き、壁には大きな絵画が何点も飾られている。
風光明媚な大ホールだったが、フィーナの目に入る光景は地獄そのものだった。
ホール内はおびただしい怪我人で溢れていた。
何十人もの騎士が、急遽備えられたであろう敷物の上で伏せっている。
白い包帯は血によって赤く染まり、洗面器に入った水も真っ赤に染まっていた。
伏せっている騎士の間を、これまた血に汚れた白衣姿の者たちが行き交い、治療にあたっていた。
遠征での損害は軽微だったと聞いていたフィーナは、この光景に面食らった。
「聞いていた情報より怪我人が多い気がします」
フィーナが嫌悪感を顕にしていると、ピボットは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「これでも前回の討伐作戦より怪我人も死者も少ないのですよ。前回は所属する騎士の半数以上が亡くなったと聞いておりますから」
ゴブリンとの戦闘の様子を詳しく知らないフィーナは、ピボットの言葉に何も返せなかった。
「少々お待ちください。医局長を呼んで参ります」
そう言ってピボットはフィーナたちの元を離れ、ホールの中央に向かって歩きだした。
しばらくして、ひょろりと背の高い男を連れてピボットが戻ってきた。
彼が医局長なのだろうか。
「お待たせしました。この方は宮廷医局長のクロップ・グスタフ侯爵様です。グスタフ様、こちらの方々がフィーナ様、イーナ様、デイジー様です」
ピボットは簡潔に両者を紹介すると、すっと身を引いた。あとはこちらで、ということなのだろう。
「医局長のグスタフだ。君たちの噂は息子から聞いているよ。こんな身なりで申し訳ないが、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
フィーナは握手しようとしたか、グスタフの手が血だらけであったので、気づかれないうちに手を引っ込めた。
どうやら治療の最中だったらしい。
グスタフの息子には製薬工場で働いてもらっている。名は確かフロエ・グスタフといったはずだ。レイクラウド公爵に紹介してもらった貴族の一人だ。
医者の家系なだけあって、機能形態学、生化学に詳しく、若年でありながら工場内で早くも頭角を現している。
「フロエは頭が良く、才能もあったのだが、末子でね。働き口が見つからなかったのだ。レイクラウド公爵にはいい話を持ってきてもらった。君の製薬工場には感謝しているよ」
「いえ、貴重な才能をお貸し頂き、とても助かっています」
「そう言ってくれると、親として鼻が高いな」
フィーナとグスタフは社交辞令を簡単に交わすと、すぐに本題へと移った。
原因不明の病の件である。
「これが例の彼の診療録だよ」
そう言ってグスタフが見せてきたのは、いわゆるカルテだった。
この世界でカルテを利用する医師は少ない。メモ書きの類はあるが、ここまで形式化された物はそう見られるものではない。
カルテには患者の名前、年齢、性別、身長、体重といった基本的な事項から始まり、既往歴、どんな治療を受けてきたか、などが書かれていた。
しかし、肝心の病名は『悪風』の文字を二重線で訂正されており、治療方針に至っては風邪薬の処方以降は空白になっていた。
「ここまで詳しい診療録をとっているなんて、宮廷医局は流石ですね」
実はフィーナが普段扱うカルテは、この診療録より遥かに機能性が高い。
SOAP形式で形成された問題指向型診療録というものだ。第三者が見ても分かりやすいという利点がある。
村の薬屋、フィーナの実家であるが、そこには村の魔女全体をカバーする診療録が保管されている。
そんな診療録を普段から扱っているためか、フィーナは少しばかり上から目線になっていた。
言ってから気づいたのか、フィーナは社会科見学に赴いた小学生のように「すごいすごい」と連呼し、体裁を直した。
「しかし、この診療録を見る限り、ただの風邪のように思いますね。ですけど……」
主要症状の欄に書かれた事柄は微熱、全身の倦怠感、頭痛、肩こりなどであった。
これだけ見れば、そう重くない風邪だと判断するだろう。
だが、つい最近になって部分的な筋肉のけいれんが現れ、次第にそれが全身に広がった。宮廷医局が首を傾げるのも頷ける。
しかしフィーナは一点を見つめて言葉を濁した。
「何か気になるのか?」
診療録を穴が開くほど見つめても、病の原因がつきとめられなかったグスタフは、一目見て何かに気づいたフィーナに注目した。
「ここです。治療欄に『大腿部、創傷の外科的手術』とありますよね? これは何の傷だったんですか?」
「ああ。確かこれは戦地で受けた矢の傷だったはずだよ。戦闘中だった為、自ら矢を引き抜いたらしく、傷口の荒れ方が酷かった。幸い重要な血管は傷ついていなかったので、縫合して処理したはずだ。手術をしたのは私ではないがね」
「……私はここから細菌に感染した可能性が高いと予想しています」
「ふむ。その可能性は私も考えた。だが、傷口の洗浄も行ったし、縫合も綺麗な処置だった。この傷から感染することは難しいはずだ」
「……まだわかりませんね。患者の容態を確認していいですか?」
「もちろん。こっちだ」
病を患った騎士は別室へと移されていた。
未知の伝染病だったことを考慮しての措置だ、とグスタフは説明した。
「クラウス君、病気に詳しい魔女が来てくれたよ」
グスタフと共に入室すると、一人の騎士がベッドに横たわっていた。
クラウスという名の若手騎士だ。
「これで僕の病気も治るんですね? 日に日に体が張って、起き上がるのも困難なのです。どうにかしてくださいますか」
クラウスの願いは切実だった。
「まずは病名を特定しますね。姉さん、エリーを出してくれる?」
「うん。エリー、お仕事だよ」
使い魔のフェアリーは体内の魔力分布を見ることができる。
基本的に、一般人にはほとんど魔力は備わっていないが、僅かながらに存在し、フェアリーの目はそれを精彩に視ることが可能だ。
体内の魔力は病巣や創傷部に蓄積しやすい。
フィーナはかねてからこの方法で病巣を判断してきた。
今回もこの方法は有効だった。
「うーん……所々濃い部分があるけど、一番濃い場所は……ここかな」
エリーはクラウスの太股を指差した。
フィーナが太股の包帯を取る間、グスタフは「これが魔女の診療か……」と息を巻いていた。
「やっぱり……」
「どうした? ……な、これは!」
包帯の下には黒ずんだ施術跡があった。
明らかに細胞壊死が引き起こされている。
細胞壊死にはいくつかの原因が挙げられるが、創傷部からの壊死となると、細菌性とみて間違いないだろう。
「洗浄が甘かったのか?」
グスタフが原因を口にする。
グスタフは知っていたようだが、細菌の存在は一部でしか周知されていない。
しかし、宮廷医局は膨大な診療録の元、経験則で創傷部は洗浄しなければならないと決めていた。
顕微鏡が普及し、微生物が次々に確認されていき、最近になって、ようやくこの経験則が裏付けられた。
しかし、この手術を行った医師は洗浄の仕方が悪かったようだ。
「そのようですね。恐らく汚染された異物が残っていたのでしょう」
「なんてことだ……」
グスタフは額に手を当てて項垂れた。
ショックを受ける気持ちもわかる。というのも、これは人為的なミスによるものだからだ。
慣れない場所で大量の患者を診なければならず、宮廷医局の医師団も疲れていたのだろう。
だが、宮廷医局という国内トップの医師団がミスをしたという事実は想像以上に重い。
「どうしたんですか……? 僕の脚はどうなっているんですか?」
「申し訳ない。君の症状も我々のミスが原因だったようだ。本当にすまない」
「ち、ちょっと待ってください! どういうことですか? 治るんですよね?」
「………ここまで壊死が進んでいるとなると、切断もあり得る」
「そんな!」
クラウスは泣き崩れ、グスタフも沈痛な面持ちだ。
しかしフィーナ達は治療の準備を進めていた。
単レンズ式から複式へとアップグレードした顕微鏡で菌を調べ、試作品の薬剤を数種類併せて浸し、その場で有効性を確認した。
フィーナが抗生物質になり得るだろうと思って持ってきた試作品、二十本のうち、四本がこの菌への有効性を確認できた。
安全性はマウス実験しかしていないため、不安はあるが、背に腹は変えられない。治療を受けるかどうかはクラウスに決めてもらおうと考えていた。
「クラウスさん」
「……はい?」
咽び泣いていたクラウスが目を赤くしてこちらを見る。
「あなたの病気の名前がわかりました。『悪霊憑き』です」
「な、なんだと!?」
グスタフが驚きの声を上げる。
だがクラウスはよくわかってないらしく、首を傾げていた。
「ま、待て。『悪霊憑き』ならもっと顕著な症状が出るはずだ。デタラメではないのか?」
「グスタフ侯爵がお考えになっている症状は発症から二週間から三週間経った場合に起こるものですね。クラウスさんは発症して一週間と少し……初期段階といえるものです」
この世界で言う『悪霊憑き』とは破傷風のことだ。
微熱や倦怠感といった軽微な症状から始まり、口が開きにくくなる牙関緊急、こわばりから笑っているように見える痙笑が現れ始め、二週間から三週間経つと、強烈な全身性けいれん、背中が弓のように反り返る後弓反張、呼吸困難が現れる。
破傷風は非常に致死率の高い感染症だが、ワクチンの普及によって先進国での発症は稀だった。
しかし、この世界にワクチン接種という概念は存在せず、破傷風は死の病として恐れられていた。
おまけに最近まで微生物の概念すらなかった世界である。
顕微鏡の登場で、徐々に周知されているが、まだ根は浅い。宮廷医局でさえ破傷風が細菌によるものだと知らなかったのだ。
破傷風の怖いところは、絶命するまで意識混濁が無く、鮮明であるところだ。『悪霊憑き』などと呼び名が付けられているのも、まるで悪霊に取り憑かれたかのような症状と、苦痛を伴うからだ。
「『悪霊憑き』は恐ろしい感染症です。しかし、治す方法はあります」
「なに!? 『悪霊憑き』が治るだと?」
「はい。製薬工場内の研究部門から新薬を持ってきました。有効性はたった今確認できました」
「なんと……そんな薬が……」
グスタフは魔女の技術力の高さに舌を巻いた。
同時に、製薬工場で勤務している末息子を羨ましく思った。
「しかし、これだけでは不十分で、胸を張って安全と言えるものでもありません。治癒の可能性も百パーセントではありません」
フィーナの説明に、グスタフとクラウスは肩を落とす。
破傷風菌に有効な薬は用意できたが、抗毒素血清は用意できなかった。体内の毒素の中和には治癒魔法で行うことになる。繊細な作業を長時間求められるはずだ。長時間の治癒魔法は患者にも負担をかけるが、背に腹は変えられない。
それにここまでしても万全とは言い切れない。
破傷風とはそれほど恐ろしい病気なのだ。
「それでも治療を受けますか? クラウスさん、あなたが決めてください」