179『雨降って地固まる』
ベティーの研究は正しかったと視覚的に証明された。
実際に、ムクロギの根を数時間、汚水に浸しておくだけで、浄化の効果が得られたのだ。
しかし、ムクロギのどういった成分が汚水を浄化させしめるのか、これから更に研究を進めなければならない。
成分を特定し、抽出に成功すれば、次には安全性の試験が待っている。人体に悪影響はないのか、抗菌薬として活用できるのか、途方もない試験が幾度も繰り返され、そこを潜り抜けたものだけがようやく薬として日の目を見ることができる。
長い年月がかかることは間違いない。
それに研究機材の質の向上も合わせて行わなければならない。
製薬会社開設と共に運び込まれた機材の数々は、現段階では最高峰のものばかりだが、それも数年経てば物足りなくなるだろう。
顕微鏡一つとったって、倍率二百倍程度ではウイルスすら見ることができない。
現状の技術、魔法という摩訶不思議な力、異世界特有の環境、各地の魔女の知識。
これらを集約することで、フィーナは近い将来、大流行するであろう疫病に対抗しようと模索していた。
始まりは辺鄙な村で起きたインフルエンザらしき流行り病だ。
対処はできたが、少なくない死人が出たことは記憶に新しい。
あの時、フィーナは初めて自分の手に余るのでは、と恐怖した。
同時に、いつか自分も抗いきれない病に倒れるかもしれない、と戦慄した。
この世界では「この薬を飲んで二、三日安静にしていれば治りますよ」といった軽い病気でも、人を簡単に殺す。
いつの時代も、人の死因は病によるものが最も多く、この世界でも比較的軽い症状でも死ぬという以外は変わらない。
魔女がいくら平均的より長命だといっても、年若い内に死ぬことなんてざらである。
フィーナもそんな弱い人間の一人で、なまじ医療に通じていた為、病に対する恐怖は人一倍強かった。
おまけに、ヒカリであった頃の死因は病死である。病に対する恐怖に、拍車が掛かるのも当然だった。
そして、フィーナ自身も、病に苦しめられたという過去を持つ。祖曽の文字通り身を切る献身のおかげで救われたが、脳裏に刻まれた苦痛と孤独感は今でも鮮明に思い出せてしまう。
あの死が間近に迫る、底冷えするような感覚など、二度と味わいたくはない。
フィーナはぶるりと震えると、立ち止まっていた足を動かし、魔術ギルドに向かって再度歩き始めた。
「あ、フィーナ姉ちゃーん!」
視界外からの強烈なタックルに、フィーナは鳩尾を抉られ、濁った声と共に盛大に息を吐いた。
タックルの主はそんなフィーナの苦痛を感じ取れず、きょとんとした顔で首を傾げている。
フィーナが二人いるのかと間違うほど良く似たドラゴンの変身体、アメラである。
アメラはフィーナの双子の妹として、こちらが拍子抜けするほど村に解け込んだ。
勿論、今までどこで何をしていたかと理由を聞かれたが、前もって口裏合わせをしていた問答を二つ三つ交わすと、呆気なく詮索をやめてくれた。寧ろ、温かくアメラを向かい入れてくれたと言っていい。
家庭の事情、特に父親のことに関しては話題にすら出さない魔女の気質が功を奏したのだろう。アメラは子どもらしい子どもとして、村の一員になれたのだ。
これに歓喜したのは何もイーナやドナ、フィーナといった召喚主達だけではない。
キャスリーンもまた歓喜、もとい狂喜した。
何しろ、心服するフィーナと瓜二つであり、その上、くっついても手を握っても嫌な顔一つしないアメラである。
キャスリーンが狂喜乱舞するのも当然だったのだ。
フィーナも、これ幸いとばかりにアメラを矢面に立たせ、キャスリーンへの防波堤とした。
おかげで、今ではアメラとキャスリーンは大の仲良しと評判である。
「ごほ……アメラ、今日も元気だね」
「うん! 毎日キャシーが遊んでくれるの!」
アメラはそう言ってはにかんだ。
通常の仕事と、フィーナから依頼された魔道具なども作るキャスリーンははっきり言って村一番の働き者だ。
どうやって毎日アメラと遊ぶ時間を作っているのかは分からないが、フィーナも忙しい時分なので、非常に助かっている。
「フィーナさん! こんにちは、ですわ」
「キャシー、いつもアメラと遊んでくれてありがとね」
「とんでもありませんわ! わたくしがアメラさんと遊びたいのですわ! わたくしの癒しですわ!」
「そ、そう? これからもアメラをよろしくね」
「もっちろんですわ!」
キャスリーンが鼻の下を伸ばしながら胸を叩く。
表情筋は緩みまくって、酔ったオヤジのようにデレデレとした顔をしている。
キャスリーンにとって、フィーナとアメラが一緒にいる、今この時が最大の幸福なのだ。
きっと、アメラのタックルを受けても、キャスリーンだけはデレデレとした表情を崩さないだろう。
フィーナはその後も気軽に挨拶してくれるサナと冷たい目でこちらを見てくるジャクリーン、すっかりレンツ色に染まったメイなどと話しながら魔術ギルドへ向かった。
着く頃には日が傾きかけており、フィーナは思ったより話し込んでしまった、と苦笑いを浮かべた。
「今日はもう来ないかと思っていたぞ」
腕を組んでツンとそっぽを向く小さなギルドマスターにフィーナは不承不承といった体で頭を下げた。
「こっちも色々と忙しくて。仕方がないんですよ」
「フン! 結構なことだな!」
デメトリアはぷりぷりと怒りながら「私だってギルドマスターの職務が忙しい」やら「窓から雑談にふけるフィーナの姿が見えておったわ」などと文句を言い、スージーが淹れてくれたお茶を音を立てて啜った。
そしてフィーナのお腹が夕食の催促を始めた頃、ようやくデメトリアが本題を話し始めた。
「レンツを襲った三人の内、最後の一人が先日、埋葬されたらしい」
レンツを襲った三人といえば、レリエートの魔女、アレクサンドラ、ベラドンナ、アマンダの三人だ。
非常に残忍で、持て余すほどの才を持っていた彼女らは、レンツに大きな傷跡を残した。
あの過酷なまでに緊迫した戦場で、ベラドンナはフィーナとの戦闘で死亡し、アレクサンドラもイーナの矢を受けて死んだ。
残ったアマンダも、フィーナには想像できないような拷問を受けた後、処刑されたそうだ。
国王が遠征から帰ってきてからになるが、その時アマンダから齎された情報を武器に、メルクオール王国はレイマン王国へ圧力をかけるつもりらしい。
そして、つい最近、三人の遺体が王都から遠く離れた地で埋葬された、とデメトリアは語った。
「そうですか……。吉報とは言えないですけど、ようやく終わったんですね」
「ああ。いくらレイマン王国の国王が白を切っても、メルクオール国王の事だ。簡単には言い逃れ出来ないくらい追い詰めるだろうな」
「外交に関しては百戦錬磨ですもんね。そういえば、でめちゃんは陛下の事をよく知っているみたいですけど、どこかで面識でもあるんですか?」
「昔な。私がこの姿になる、ずっと前に、王都で会ったことがある。その時はまだ可愛らしい王太子だったが、悪巧みに関しては卓越した頭脳を持っていた。人の嫌がる所をネチネチと突いてくる嫌な奴でな。しかも正論を武器にしてくるのだ」
「ハハハ。その頃から陛下は相変わらずだったんですね」
「今思えば、フィーナ、お前によく似ているな。腹黒いところとか、悪知恵の働くところとかそっくりだ」
「………やめてくれません? 不愉快です」
あの国王と一緒にされるとは心外だ。
確かにフィーナは自分でも性格はあまり宜しくないと思っているが、メルクオール国王のように真っ黒ではない。
不思議と話が合うし、嫌いではないが、あそこまで性格が悪いとは思っていない。断じて。
「あー、まあそんな話は置いといてだ。ウィッチ・ニア町の例の畑の件はどうなっている?」
フィーナの目つきが鋭かったのか、デメトリアはそっと視線を外すと、話を逸らした。
「どうもなにも、わかんないので放置ですよ。エリーの妖精の瞳で見ても魔分が通常の土壌より多いくらいしかわからなかったですし。まあ、土中に含まれる魔分が多いと作物が美味しく育つのは発見だとは思いますけどね」
「そうか……。いや、あの畑で作られた作物は美味しい。異常なまでにな。あれを新たな特産品にできればと思っていたのだがな。フィーナでもわからないのなら仕方ない。残念だが諦めるとしよう」
デメトリアは珍しく悲しそうにため息をついていた。
デメトリアもあの畑の野菜にはご執心で、できれば毎日でも食べたいと思っていたが、あの大きさの畑では土台無理な話だ。需要に供給が全く追いついていない。
村で野菜を作る魔女として、エマがいる。あの畑に負けないよう試行錯誤して頑張っているが、結果は芳しくない。
フィーナも、エマには可愛がってもらっているし、何か恩返しがしたいとも思っている。
ウィッチ・ニア町に立ち寄った時は住民達の剣幕に驚いて、ろくに考えもせず帰ってきてしまったが、確かにデメトリアの言う通り、特産品になるような野菜なのだ。ここは一度熟考するべきかな、とフィーナは目を閉じて考え耽った。
考えるフィーナをデメトリアとスージーは黙って見つめている。
部屋にはデメトリアがお茶を啜る音と、一定のリズムを刻む時計の音だけが木霊していた。
「………やっぱり、あの畑には何か特別な事情が以前からあったと思うんです。肥料を混ぜ込んで土魔法で耕すって行動はエマさんもやっていますし、熟練のエマさんの畑が素人の私たちの耕した畑に劣るなんて考えられません」
目を開いたフィーナが眉間に皺を寄せながら語る。
脳を働かせたことで不足した糖分を飴玉で補い、お茶にまで砂糖を入れていく。
「そうだな。種が違うからではないか? 偶々、ウィッチ・ニア町の畑で撒いた種が奇跡を産んだとか」
デメトリアは真面目な顔で奇跡ではないか、と口走った。
フィーナはそれを首を振って否定した。
奇跡などという言葉で片付けられては、農家の皆さんは怒るだろう。物作りにおいて、経験と研鑽と努力は欠かせないファクターだ。それは植物が相手でも変わらない。奇跡なんて謎現象で済ませてはいけないのだ。
「エマさんならウィッチ・ニア町で使われている種も仕入れてますよ。でも結果は駄目だった。やっぱり、あの畑には何かあるんです」
「とは言ってもな。畑になる前は普通の空き地だったぞ? 広さだけはあったから、魔法の練習場として重宝していたが……」
懐かしそうにデメトリアが呟く。
その尻拭いをさせられたのはフィーナたちである。まるで忘れたかのようにのたまうデメトリアに、フィーナは白い目を向けた。
しかし、ここでフィーナの脳内に電流が走る。
メガネをかけた少年探偵ならば、コテリンという奇怪な音ともに閃く場面だ。
「もしかして、でめちゃんの魔法の影響……?」
「私か?」
「でめちゃんの度重なる魔法の実験によって、土壌に魔分が少しずつ蓄積されたんですよ」
あの辺りはフィーナも魔法を使って一から開墾している。
単なる偶然だが、あの地においての魔法使用量は他と比べると群を抜いて高い。
これが鍵になっているのでは、とフィーナは推測した。
「なるほどな。通常、魔法を使用すれば空気中に魔分が飛散し、散り散りになる。だが、土中に含まれた分はそうでは無いということか」
魔法とは不可思議なものだ。
空気中の魔分濃度によって何倍もの威力が出たり、魔法自体も魔分を散らす要因となる。
昔から、魔女と魔法、魔力と魔分は密接な関係がある、として研究されているが、肝心の魔分が人の目には写らないのでイマイチ進歩せずに滞っている。
イーナのように、使い魔のフェアリーに見てもらうことはできるが、フェアリーが見たもの全てを言葉で説明してもらうのも難しい話だ。
故に、今では『そういうもの』として割り切られている。
「しかしな。その仮説を確かめようにも、素材となる場所がないな。そう都合良く同じ場所で魔法をバカスカ撃つ魔女などおらんからな」
「姉さん以外ね」
デメトリアの言葉に、スージーが肩を竦めてツッコんだ。
「いや、待ってください。あるじゃないですか! バカスカ魔法を撃った場所が!」
「あるのか? 私は思い当たらんが……」
「ほら、レリエートの魔女と戦った、あの戦場ですよ」
激しい戦闘の余波で、現在は荒れ地同然だが、思わぬ副産物の可能性が出てきた。
次の日、エリーを伴ったイーナの報告で、あの戦場がウィッチ・ニア町の畑と同じくらい土壌に魔分を含んでいることがわかった。
精神を削るような戦いの場であったあの場所は、デメトリアの発案により大農園へと変貌することになる。