176『マリエッタとの話し合い』
コンコンと分野長の部屋をノックする。
すると直ぐ様、上品な返事が返ってきた。
扉を開けて中に入ると、ふわりとした甘い香りが鼻をついた。
「いい香りですね」
「うふふ、そうでしょう? 新しい香水を試作中なの。きつい香りにならない様にと調整していたのですけれど、あなたの反応を見る限り、いい具合に仕上がったみたいですわ」
そう言って、マリエッタは大小様々な瓶が置かれたテーブルに目を向けた。
どうやらそこが香りの発生源らしい。何種類もの植物が所狭しと並べられ、テーブルの中央には成分を抽出する器具がどんと置かれていた。
魔道具分野は基本的に魔法陣や結晶魔分を使った魔道具を作るのが専門だが、偶にこういった他分野に類する物も作ったりする。
香水の場合は専門的に作っているのは錬金術分野だ。
別に錬金術分野の作る香水の出来が悪いわけではなく、こういった嗜好品には個人の好き嫌いが如実に現れるため、人によっては自ら調製する者もいるという話だ。
それはほとんどが趣味レベルの物であって、本職の錬金術分野の魔女には叶わない。
マリエッタは少し趣味レベルから逸脱するくらいの職人のようだが、ここまで凝る理由はただ香水が好きなだけ、というのは周知の事実である。
「そうですね。個人的には商品化できるくらいだと思います」
「嬉しい話ですけど、わたくしは香水師ではありません。ですから、商品化はしませんの」
マリエッタはお茶の用意をしながら頭を振った。
フィーナとしてもマリエッタは断るだろうと思っていた。
これまでにマリエッタが作った香水を商品化したという話は聞かない。商品化すれば一財産を築けるくらい、収入も増えるのだろうが、マリエッタは頑なに商品化を断ってきた。
断る理由については深く聞いていない。が、香水を購入するメインの層は貴族の女性達だ。
これは推測にすぎないが、レイクラウド公爵と恋仲であったマリエッタは、身を引いた今、貴族を敬遠する為に自身の香水の商品化を拒んでいるのではないか、とフィーナは考えている。
もしそうだとすると、今回の騒動の行く末によっては、王都でマリエッタ考案の香水が売られる日もくるのかもしれない。
そんな物語を考えながら、フィーナはレイクラウド公爵の話を切り出した。
「そう………ベンが近くに……」
話を聞いたマリエッタはいつもの優雅な微笑みではなく、憂いを帯びた表情を浮かべていた。
極端に表情を崩すことのないマリエッタだが、さすがにレイクラウド公爵の事になると色々と思うところがあるらしい。
「マリエッタさんはレイクラウド公爵の誘いを何度も断っている、と聞いています。それに、いつかはレイクラウド公爵本人が来るであろうと予想していたことも」
「あら、詳しいですわね。概ね正しいですわ。あの人なら、いつか来るだろうと思っておりました。それだけ愛を感じさせるお方でしたわ」
マリエッタは遠い目で思いふける。十年前の日々を思い出しているのだろうか。その郷愁を感じさせる表情は、同性のフィーナであっても美しいと思えた。
「けど、わたくしの過去を知っている人は少なくてよ? 誰から聞いたか、それだけは教えて下さる?」
「はい。シンディから聞きました。他人の事情に首を突っ込むようなことをして申し訳ありません」
国が乱れるのを見過ごせなかったとは言え、本来ならば他人が深く関わってはいけないことだ。
マリエッタとは同じ機関の教官としてや、結晶魔分の件で何度も顔を合わせているので、他人以上の関係だと自負しているフィーナだが、だからこそプライベートな内容には触れないできた。
特に魔女の恋愛というのはデリケートであり、対応を誤れば、今までの絆に溝を作る可能性もあるからだ。
しかし、そんなフィーナの謝罪に対して、マリエッタは微笑みを返してくれた。
「他人だなんて、そんな悲しいことは言わないで。あなたはキャシーにとって大事な友人ですもの。少なくとも、わたくしは家族のように思ってますわ」
「あ、ありがとうございます」
真っ向からの好意は嬉しい反面、気恥ずかしいものだ。現に、フィーナの頬は赤く染まっていた。
フィーナは嬉しさに沸き立つ気持ちを落ち着けながら、マリエッタが入れてくれたお茶を口にした。
温かく優しい味わいだった。
「マリエッタ様、申し訳ありません。仕えている身でありながら、勝手に奥様の情報を話してしまいました」
突然、後ろから発せられた声に、フィーナは「ひゃあ!」と飛び跳ねた。
カップに入ったお茶が勢い良く揺らいだが、零さなかった自分を褒めたい。
「シンディ……いたんだ」
「はい。最初から」
シンディはにべ無く答えた。
完全にシンディの存在を失念していた。デメトリアの部屋を出た辺りから存在を忘れていた気がする。
自分から同行を頼んでおいて、途中から存在を忘れるなんて、シンディに対して失礼すぎる話だ。
しかし、シンディは全く気にしていないように見える。寧ろ、さも当然といった表情だ。
視界に入っていたはずのマリエッタまで目を丸くしていたので、マリエッタも気付いていなかったはずだ。現に、シンディにはお茶の用意をされていない。
シンディの影の薄さは霊的なまでに達しているのでは、とフィーナは恐ろしくなった。
「シンディはどこにでもいるけれど、どこにもいない。キャシーが言っていた通りね」
と、マリエッタが怖いことを言う。
フィーナは試しにシンディのお腹を突いて、幽霊でないかを確かめた。
温かいし、感触がある。どうやら幽霊ではないらしい。
くすぐったそうに耐えるシンディは少し可愛かった。
「気にしなくていいのよシンディ。あなたももう家族のようなものですわ。わたくしは忙しい身ですから、キャシーのことをあまり見てあげられません。シンディがいてくれて、とても助かってますのよ」
と言い、姿に気付かないときも多いですけどね、とマリエッタは微笑みながら付け足した。
「勿体無いお言葉ですマリエッタ様。私はお嬢様のお側にいられるだけで幸せです」
フィーナはシンディの言葉を聞いて、思いの深さを味わった。キャスリーンになぜこんなに思い入れがあるのかは知らないが、主従の間柄としては完璧のようだ。
「ですが……一つ訂正してもらいことがあります」
「ん?」
「私の名前はシンディではなく、サンディです」
「「あ………」」
フィーナとマリエッタはサンディに直ぐ様頭を下げた。
フィーナならまだしも、マリエッタにまで間違えられるのは悲しい。
間違いを告げるサンディは気づかれない事以上に悲しそうだった。
サンディのそんな表情を見て、マリエッタとフィーナが心を痛めたのは言うまでもない。
話が脱線してしまったが、サンディのせいではない。
その後、マリエッタとの話し合いは順調に行われ、後日、レイクラウド公爵と直接話し合うことが決定した。
といっても、レイクラウド公爵の詳しい所在は掴めていないため、暫定的な予定である。
マリエッタが現在、レイクラウド公爵をどう思っているかは、まだ聞いていない。割と重要な話なのだが、何となく聞きそびれてしまった。
レイクラウド公爵との話し合いには立ち会い人として、フィーナも参加することになっているので、その時に聞かせてもらえるかもしれない。
ちなみに、この話し合いにはキャスリーンも同席することになった。
他ならぬ、マリエッタの主張によるもので、サンディもそれに同意した。
二人が薦めるのならば、フィーナに断る術はない。
寧ろ、フィーナの方が部外者であり、参加の必要性もないのだが、国を思うエリオの憂いもあり、マリエッタからも「一緒にいて欲しい」と頼まれたからには参加せざるを得ないだろう。
けっして野次馬根性が働いたわけではない。面白そうだとも思ってはいない。
ただちょっとだけ楽しみではあった。
マリエッタとの話が終わった後、フィーナが薬草園へと赴くと、マリーナが疲れた顔をしてフィーナを出迎えた。
なにやら魔道具のランタンに頬ずりしてキスをするような変態客に遭遇したらしく、不快さを覚えつつも、なんとか耐えて乗り切ったらしい。
「もう魔道具店で働くのは辞めようかと思いました……」
そう言うマリーナの瞳には光がない。そうとう神経をすり減らしたのだろう。声にもいつもの覇気がない。
何もそこまでと聞けば、口づけでベタベタのランタンを包装させられたらしい。
フィーナはそれを聞いて、何も言わずにマリーナの肩を優しく叩いた。
「けど、変な人もいるもんだね。ランタンにキスするなんて、ランタン愛好家かな?」
「そういうわけでもなかったですよ。ランタンの商品名を聞いた瞬間、人が変わったようになりまして……」
「へぇ。その商品名はなんて言うの?」
「『マリエッタランタン』でした」
フィーナは思い当たる人物に辟易し、ため息を漏らした。