146『レンツの危機に 8』
全身の血が沸騰しそうなほど熱を感じている。苛立ちや腹立たしい気持ちなどを通り越し、フィーナはひたすら激情に身を任せて魔法を放っていた。
火魔法と風魔法を複合した豪炎が視界を埋め尽くし、アレクサンドラの身を焼く。骨も残らないよう徹底的に焼却しても、フィーナは攻撃をやめなかった。
体内の魔力が底を尽きそうになり、ようやく攻撃を止めた。フィーナは呼吸を乱しながら周囲を見回し、アレクサンドラを消し去った事を確認すると、魔力回復水を取り出し、一息に呷った。
「はあはあ……」
額の汗を拭い、視界の端でイーナがこちらに向かって来ているのを確認すると、フィーナは少し落ち着きを取り戻した。
取り乱して燃費の悪い火魔法を連発するなんて、ヴィオが見ていれば「何を学んできたのか」と頭を叩かれた上で説教されていただろう。
「力の使い方を間違えるなって言われたっけ」
フィーナは自嘲気味に零し、大きく深呼吸した。草や土が焼け焦げた匂いを思いきり吸ってしまい、思わず咽てしまった。
軽く咳き込んだ事で頭の中がクリアになる。フィーナはその場にしゃがみ込み、背後のデイジーへの本格的な治療を開始した。
デイジーの傷は深く、背後からの一突きによって風穴が空いていたが、治癒魔法を継続してかけていたことで流血は止まっていた。
刺される直前でアレクサンドラの殺気を感じ取ったデイジーは咄嗟に回避しようとしたようで、ギリギリで致命傷を避けていた。
だが流れ出た血が多すぎる。イーナの再生魔法で血液の再生を行わなければ、この後どうなるかわからない。
デメトリアが見つかっていないことが気がかりだが、今はデイジーの生死が懸かっている。新たに気合を入れなおして、袖を捲り治癒魔法をかけようとした時―――
「ご主人! 危ないニャ!」
突然ミミが影から飛び出し、フィーナに体当りした。
「――――ッ!」
ミミから体当りされたフィーナは地面を二転三転と転がった。揺さぶられた脳が程よい酩酊状態を生み出し、フィーナは目をぱちくりとさせて靄がかった頭を振り払った。
「主の言葉も無く自ら影から飛び出すとは……躾がなってない使い魔じゃな」
「なんで……?」
声がした方に視線を向けると、そこには倒したはずのアレクサンドラがナイフを振り抜いた姿勢で立っていた。
立っている位置と振り抜いた姿勢から察すると、アレクサンドラはフィーナの首を斬りつけようとしていたようだ。ミミが自発的に影から出て体当たりしていなければ、今頃フィーナは首から噴水のように血を吐き出して死んでいただろう。
「ミミ!」
【黒影】モードによって黒豹の姿となったミミは背中を斜めに切られて地に倒れていた。赤子のように丸くなって倒れているミミを目にして、デイジーが刺された光景がフラッシュバックする。
再び頭が真っ白になりそうになるも、歯を食いしばって耐え、フィーナは思考を回し始めた。
「あれだけの炎をどうやって避けたんですか?」
質問の答えを得られないとは分かっていても、フィーナは疑問をぶつけざるを得なかった。答えよりも考える時間が欲しかったのだ。
現在の状況は切羽詰まっている。
デイジーは戦闘不能で、イーナは回復の要で戦闘に参加させるわけにはいかず、スージーは怪我が治っても魔力が足りない。マリーナは未だ意識が戻らず、ミミも攻撃を受けて動けずにいる。
そんな絶望的な状況下で、実態の分からない暗殺術を使うアレクサンドラを相手しないといけないのだ。
「青臭い炎を撒き散らしても儂には当たらん。ただそれだけのことよ」
「でめちゃんはいないようですね。逃げられましたか?」
フィーナは吐き出す言葉の裏で思考を重ねていた。頭の中が混乱しないように、極めて冷静に思考を重ねていく。
(一度目も二度目も攻撃されるまで全く気付かなかった。考えられるのは恐ろしく高度な転移魔法……かな? だめ、もっと考える時間が欲しい)
「でめちゃん? ああ、あの小娘の事か。お主が気にする必要はない。どうせここで死ぬのじゃからな」
「若返りの秘術がそんなに羨ましいですか」
「ああ羨ましいな。憎いほどに。なんせこの歳じゃからな。若いお主には分かるまい。日々老いていく無情さが」
「そう……ですね。けど若返りの秘術を使ったとしても寿命は延びませんよ」
「……随分饒舌ではないか。まあいい。儂はただ若い肉体をあやかりたいだけじゃ。たとえ老い先短かかろうと、若い肉体を得られるなら恐悦至極この上ない」
「気持ちは分からないでもないですけどね……」
「フン……小娘が何を言う。お喋りは終わりじゃ。冥土の土産に儂の二つ名を教えてやろう。我が名は【沈黙】の魔女、アレクサンドラ。骸となりて静寂を受け入れるがよい」
【二つ名の名告】によってアレクサンドラの魔力が格段に引き出される。溢れ出る魔圧はフィーナがたじろぐ程強く、苛烈だった。
(なんとか予想はついたけど、思い違いをしてたらここで終わる……)
膝を屈しそうな威圧と殺気に耐え、導き出した推測に則って行動を開始する。
「マリーナの魔法、ちょっと借りるね」
フィーナは一人呟き、ステッキに魔力を送った。翠色と碧色の結晶魔分が煌めき、辺りに突風が巻き起こる。
突風は止むことなく、次第に風速を増し、集まった気流が集中的な豪雨をもたらした。
「マリンの豪雨の魔法か。魔女の切り札である魔法を教えあって仲良しこよしとは……レリエートの恥さらしめが」
アレクサンドラはマリーナに一瞬目を向けると、不愉快そうに眉を寄せた。
「この魔法はあなたにとって足枷となりますよ」
「世迷言を!」
アレクサンドラが激昂したと同時に閃光が放たれる。
アレクサンドラが放った眩い光には攻撃性は無く、あくまで目くらましの類のものだった。
フィーナは反射的に目を瞑ったが、閃光はフィーナの視界を焼き、一時的に盲目にさせた。
「くっ!」
フィーナはアマンダとデイジーの戦闘による余波で、四方に散らばった瓦礫を風魔法で巻き上げ、周囲に散弾のごとく放った。身を守るための咄嗟の行動だった。
同時に自身の目に対して治癒魔法を施し、視力の回復を図る。しかし―――
「う……」
体を抱きかかえるようにして防御していたフィーナの腕にナイフが突き刺さる。
直線的に刺さっている事から、アレクサンドラが持っていたナイフを投擲してきたと推測し、フィーナはまた投げられてはたまらない、と荒れ狂う風に乗るようにして動き回った。
移動の最中にナイフを抜き取り、治癒魔法を施す。
処置が終わったところでようやく視力が戻り、目を開けると―――
「やっぱりいない……か」
アレクサンドラの姿は忽然と消え、さっきまで感じていた圧力も消え失せていた。
「退いた…わけないよね」
まるで最初からいなかったかのように姿を消したアレクサンドラに、つい呟いてしまう。半ば願望混じりに聞こえるフィーナの言葉は降りしきる雨音に隠れて消えた。
(やっぱり転移魔法じゃなかったみたいだね。となると………)
転移魔法を使用した場合、少なからず空間の歪みのようなものが発生する。フィーナが雨を降らしたのは、その空間の歪みを確認する為であった。無論、それとは別の目的もあって雨を降らしているのだが……。
フィーナは地に手をつき、ある下準備をした。目論見が成功すれば、アレクサンドラに一撃をいれられるはずだ。
刹那、フィーナの背後から猛烈な殺気が襲いかかる。
「えい!」
フィーナが奮起した声を出すと、周囲一帯が泥の沼と化した。
「なっ!?」
背後からアレクサンドラの驚愕した声が聞こえ、フィーナの頭の上を振るわれたナイフが通り抜ける。三角帽が払われて泥沼に落ち、フィーナの艶がかった赤茶色い毛髪が露わになった。
フィーナは即座に身を翻し、腕に受けたナイフをお返しするべく、未だ目を見開いて慄いているアレクサンドラの胸にナイフを突き立てた。
「舐めるな! 小娘が!」
アレクサンドラは泥に嵌って不安定な体を物ともせず、年齢からは考えられないような身のこなしとナイフ捌きでフィーナの渾身の一撃を弾く。
「くっ……これで!」
既にフィーナの残り魔力も心許ない。
フィーナはなけなしの魔力を振り絞って氷の剣を作ると、弾かれたナイフを捨て去って、それを手に取った。
長く雨に打たれたせいで指先が悴み、氷の剣を持っているというのに冷たいという感覚さえない。しかし、体の内側から溢れる闘争心がイタチの最後っ屁を成就させよとフィーナを奮い立たせる。
「小娘がぁ……!」
フィーナの立つ足場だけは泥沼ではなく、雨に濡れていてもしっかりとした地面がそこにある。だがアレクサンドラは踏ん張りの効かない泥沼に足を取られている。そんな状況の違いが刃を届かせるに至った原因となっていた。この時、この為の下準備だった。
尖った剣先がアレクサンドラの腹部に達し、皮膚を、腹膜を、そして腸を貫いていく。
「ぐっ……」
腹部の異物感と激痛にアレクサンドラがうめき声を上げる。
「姿を消す……いや、見えなくなると言ったほうが正しいですかね。暗殺に特化したいやらしい特殊魔法……です!」
卑劣な特殊魔法を暴いたフィーナが言葉に合わせてアレクサンドラの腹部を抉る。
「ぐわあああ! こ、小娘ぇ……いつから気づいて……」
「ついさっきですよ!」
さらに奥深くへと氷の剣を突き立てる。フィーナの手に生暖かい血がかかり、嫌悪感と不快感で胃の中がせり上がった。
アレクサンドラの特殊魔法はカメレオンのように環境に溶け込む魔法だった。ただその度合い半端ではなく、洗練され過ぎていて、まるで姿を消したかのように見えるのだ。さらにアレクサンドラは暗殺術を習熟していたので、足音による感知も出来なかった。当然雨水を撥ねさせるような愚行もすること無く、巧みに背後へと忍び寄り、急所を一突きする技術は並々ならぬ研鑽があってのことだろう。
感の鋭いデイジーでさえ欺く技術は、さながら手練の暗殺者のようであった。
フィーナがこの事に気づいたのは身を呈してフィーナを庇ったミミの貢献が大きかった。
ミミは隠れ潜む魔物や見つかりにくい植物などを見分けられる“目”を有しており、今回も周囲の環境に擬態したアレクサンドラを影から見つけたことで、主人を救うことができた。それでもミミはフィーナの身を守ることが精一杯であった。
「フ、フフフ……一手読み違えたな小娘よ。お主には剣を振るえるほどの腕力が無い。儂に一太刀入れたのは褒めてやるが、これで死ぬわけではないぞ?」
アレクサンドラの言う通り、フィーナには既に剣を抜き、再び突き立てるほどの力は残っていない。現に今も唇を噛んで強引に魔力枯渇から来る意識消失から身を守っているのだ。
「このアレクサンドラに深手を負わせたのは褒めてやる。じゃが所詮小娘ではここまでじゃな」
アレクサンドラが不敵に笑う。青い顔をしたフィーナを下等に、下劣に見下す。
「いいえ―――」
絶望の色に染まったかと思われたフィーナの瞳にはまだ光があった。
フィーナは穏やかに微笑み、アレクサンドラの言葉を否定した。
「終わりですよ」
「な、に?」
アレクサンドラは困惑した。
自身の胸から光の矢が突き出ていたからだ。
淡い瞬きを放っていた光の矢は徐々に輝きを失い、歪んだ木の枝へと変わった。木の枝はアレクサンドラの心臓を射抜いていた。ここまで正確に矢を放てる人物をフィーナは二人しか思いつかない。
「姉さん、流石だね」
倒れるアレクサンドラの遥か後方に、毅然とした表情のイーナがクロスボウを構えて立っていた。