144『レンツの危機に 6』
ひんやりと伝わる地面の冷たさ。
青くさい草の匂いと土の匂いが鼻孔をくすぐる。
いつから地面で寝ていたのだろうか。
体は鉛のように重く、力も入らない。
寝転んだお腹のあたりに尖った石の破片が当たっており、居心地の悪さと鈍い痛みを感じる。取り除こうにも体を起こすことも手を動かすこともできない。
周囲の音が遠く、うまく聞きとれない。なにやら耳障りな高笑いが聴こえ、うるささと嫌悪感から耳を塞ぎたくなる衝動にかられる。当然それも実行できない。
耳障りな高笑い以外にも、声が聞こえてくる。つらそうで悲しそうな声。けれど誰かを想う気持ちに溢れた温かい優しい声だ。
意識が混濁する。
視界から光が失われていく気がする。一体何が起きているのだろう。意識が薄れていくまでに、何が起こったのかを考えることにする。
「お名前、教えてくれる?」
初めに確かそう聞いた気がする。
言った相手はよく思い出せない。考えるだけで胸糞悪くなるような相容れない相手だったはずだ。
名前を聞かれて、私はなんと答えたのか。
「いや」
そんな拒絶の言葉だった気がする。ああ、そうだ。相手はとにかく受け入れ難い性格だった。初対面から嫌悪感が働くような、そんな相手だったはずだ。
私の返答に相手はどんな反応を示したのだろう。もう少し考えることにする。
「キャハハ。そっかぁ…残念。じゃあ“死んで”?」
相手はあっさりと私の死を希望した。なんて無礼な人なんだろう。要求が通らないだけで最大級の誹りを言い放つなんて、まともな人間じゃない。
そうだ。相手はまともじゃなかった。
狂っている。そう判断していたではないか。なぜ忘れていたのだろう。
狂人の言葉を受けて私はどう反応した?
どういう対応をした?
どんな事が起こった?
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
「――――ッ」
苦しい。息が詰まる。息ができない。呼吸が出来ない。
そう、そうだ。あの狂人の言葉を受けてから私は呼吸ができなくなったのだ。
不安と恐怖でパニックに陥り、地に倒れたのだ。
その後も相手は「“死んで”“死んで”」と繰り返し、とうとう私は身動き一つすることが出来なくなったのだ。
体のあちこちから筋肉が奪い取られるような感覚。
苦しいのにもがくことすら叶わない苦痛。
木霊する相手の高笑い。
私を思う誰かの悲痛な叫び。
腹が立つ。高笑いする相手にも、身動きすることもできないこの体にも、耐え難い苦しさにも、誰かの悲痛な叫びを上げさせてしまった状況にも心底腹が立つ。
何故私は何もせずのうのうと寝ているのか。体は動かずとも頭は働く。考えろ。目の前で高笑いする相手を駆逐する方法を考えろ。
けどいい方法が思いつかない。思考力が低下している。集中力がおぼつかない。誰かの助言を聞きたい。この状況を打破する信頼できる助言を。
『――――負けないで』
声が聞こえた気がした。負ける気はない。現にこうやって知恵を絞っているのだから。
『――――諦めないで』
諦めるつもりもない。こんなところでは終われない。最近せっかく深い絆を確かめ合ったのだから。
『――――頑張って』
言われるまでもない。私の声で語りかけてもらわなくても分かっている。
というより、この声はどこから聞こえてくるのだろう?
『――――私はここにいるよ。ヒカリ』
ヒカリ。そうだ。私はヒカリだ。そしてこの声は私であって私でない。
そう、この声は――――
「――フィーナ」
「キャハハハハ、ハ……あれぇ?」
思考が加速する。呼吸の代替は成った。体内の魔力はなみなみと溢れんばかり備わっている。私は魔女だ。魔法が使えるのだ。たとえ身体を動かせずとも、目の前の狂人を駆逐することもできるはずだ。
「おっかしいなあ。話せるはずないのに。気のせい? ベラの気のせいかなあ?」
恐れる必要はない。私には心強い味方がいるじゃないか。この世界に来てから、一度たりとも側から離れたことのない味方が、私の魂の中に。
「まあいっか。そろそろ心臓も止めちゃおっかな」
意識が覚醒する。
やはり相手、もといベラドンナは“死の魔法”なんて大層なものを持ってはいなかった。タネが分かれば、滑稽なほどに簡単なものだ。
だが、タネがわかっても、強力な魔法であることには変わりない。
この魔法がデイジーやイーナに向けて使われなかったことには心底ホッとする。
「……なーんか嫌な顔。安心した顔しちゃってさ。もういいよ。心臓も止めちゃうから」
「させないよ」
「―――え?」
私は土魔法でベラドンナの身体を貫く剣山を作り出した。得意な土魔法は私のイメージと寸分違わず再現され、即座にベラドンナの身体のあちこちを穿った。まるで初めからそこにあったかのように突き出た剣山は、深々とベラドンナの肉体を貫いている。
「ぎ………ゴホ」
肺を突き破ったのか、ベラドンナは悲鳴を上げることもできず、ただ血のあぶくを口からゴボゴボと溢れさせるだけだった。
ふと、私の体に力が戻る。どうやらベラドンナの魔法が解けたようだ。
私は体の調子を確かめるようにゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い、吐いた。そして私は思考を再開する。
ベラドンナの言う死の魔法とやらは、活性魔法系の特殊魔法だろう。恐ろしいところは殺しに特化したその性質だ。
おそらく、対象の筋肉を麻痺、あるいは強制的に弛緩させる類の魔法だ。私の体に力が入らなくなったのも、全身の筋肉の奪われるような感覚も、呼吸出来なくなったのも、特殊魔法の力なのだろう。
呼吸するには肋間筋や横隔膜といった筋肉を使用するし、体には骨格筋や平滑筋が至るところに存在する。最初に心筋を止められなかったのは運が良かったと言うべきか。私を侮ったと言うべきか。
呼吸に使われる筋肉を麻痺させれば、大抵の者が抗えずに死に至るだろう。だが、私の場合、機能形態の知識が備わっているし、魔法によって人工呼吸器の真似事だってできる。呼吸を止められたぐらいでは死なない……はずだ。
実際かなり危なかったけど。
「ゴホッ……どうじで……」
ベラドンナの口から大量の鮮血が飛び散る。
地面に縫い付けられたベラドンナは特徴的な高笑いもせず、畏怖した目で私を見つめつつも、理解できない状況に疑問の言葉を投げつけていた。
「二対一じゃ歩が悪かったね」
「キャハ…ガハッ…わけわっかんない」
私の意味深な言葉に、ベラドンナはますます疑問を募らせ、それが解消される前に意識を失った。このまま放置していれば遠からず失血死するだろう。
初めて人を殺したことになるのだろうが、それほど精神的にきつくはない。もちろん気持ちのいいものではないが、どことなく胸がすっとしたのは事実だ。
数え切れないほどの人間を殺してきた相手に、情けをかける必要はないだろう。
「フィーナ……大丈夫?」
私を心配したイーナが涙を浮かべながら尋ねてくる。
「ごめん……姉さん。もう大丈夫」
「良かった……。何が起きているのか見ててもわからなかったけど、なんだかとっても不安になっちゃって……」
「うん。危なかったけどフィーナに助けてもらっちゃった」
「……え?」
沈痛な面持ちで俯いていたイーナが弾かれたように顔を上げる。きょとんとした顔も我が姉ながら可愛いものだ。
「フィーナの魂は私の中にまだあるみたい」
弱々しいが微かに存在を感じられる。自分であって自分ではない。そんな曖昧な存在を。
「本当なの?」
「うん。外には出られないけどね。いつか姉さんにも会わせてあげたいな」
「……うん」
そう言って微笑んだ私に、イーナは泣きながら頷いてくれた。