109『壁』
レーナの閃光魔法の後、突如としてフィーナ達の前に現れた白い壁。
フィーナは直ぐにこの壁の正体が分かった。
濃霧のようにすべてを包み込まんとする、この白い壁の正体は、コースの外枠、つまり雲だ。
レーナと言えども、射程距離の長いムチを扱うドナには、そう簡単には近づけない。そこでレーナが考えたのは、近づけないならば、ドナから近づいてもらおうと考えたのだ。
鱗粉入りの雲に入ってしまえば、ほぼリタイアは確実である。仕方無しに、ドナはスピードを落として、白い壁を避けた。
ドナやフィーナには、レーナの閃光魔法によって隙が生じていた。コンマ一秒、気を逸らされた間に、レーナはコース自体を気流操作で捻じ曲げ、白い壁として出現させたのだ。
地上から見れば、円状のコースの一部が歪み、シンメトリーを崩しているだろう。
しかし、レーナの発想力は凄い。フィーナはコースを捻じ曲げるなんて、考えつきもしなかった。フィーナは、レーナが自分の母親であることに誇りを持つほど感心していた。それと同時に、レーナやドナ、リリィを破って優勝するには、レーナのような発想力が必要だと感じた。
フィーナ、ドナ、レーナの三人が並んだ。そしてすぐ後ろにリリィがついている。
ドナの白い壁の対処は完璧だったが、先頭にいた為、白い壁との距離が近く、速度を緩めて曲がるしかなかった。フィーナとレーナ、そしてリリィは、多少の距離があったので、速度を緩めることもなく、遠心力で体がふっ飛ばされそうになりながらも、なんとか急カーブを曲がった。
残りの距離はあと僅か、レーナによって作られたこの急カーブを曲がれば、後は緩やかなカーブのみである。
フィーナ達は互いに横一列で並んでるとは言え、一番いいポジションにいるのはレーナだっだ。このままレースが続けられれば、レーナの勝利は固いだろう。
どうにかして、レーナから有利ポジションを奪わなければならない。
フィーナは頭の中を整理し、現在の状況を細かく分析した。ぐるぐると思考を巡らせた結果、ある一つの作戦を思いついた。フィーナが考えついた、この秘策ならば、レーナ達の度肝を抜くことが出来るはずだ。
フィーナが考えついた秘策は、二度も使えない、一度きりの作戦である。さらに、作戦自体、成功する可能性も低い。土壇場になって、こんな作戦に頼ることになるのなら、もっと準備をしてくれば良かったと、フィーナは後悔した。
フィーナが乗っている【リシアンサス】も、大会の為に準備したわけではなく、ただ「長時間乗ると股が痛い」という問題をクリアする為生まれたものである。それに改良したのは殆どキャスリーンで、フィーナはあまり手を出していない。
その点、レーナやリリィ、ドナといった面々はしっかりと準備をしていたように思える。
リリィのやたらと頑丈な箒、ドナは優れたムチの扱い、レーナはこちらの予想を遥かに上回る戦略と、どれも一朝一夕には成し得ないものだ。
そもそも、キャスリーンが改良してくれた、この【リシアンサス】が無ければ、フィーナはこの三人に手も足も出なかった。【リシアンサス】に乗り始めてから、「もしかして、国内で一番速いのでは?」と自惚れていたが、実際のところ、レンツというフィーナの身近にいる人物達に、既に負けていた。
フィーナはこれまで、何事も優秀な成績を収めてきた。フィーナ自身、それを誇らしく思っていたし、誰にも真似出来ないだろうと思っていた。
だが、今になってようやく気付かされた、「自分は優秀であっても、最優秀ではない」のだと。
錬金術の知識は、殆どがレーナの資料から得たもので、フィーナ自身の知識は少ない。魔法の分野でも、ヘーゼルという天才には及ばない。体力もデイジーに劣るし、頼りの治癒魔法だって、再生魔法を有したイーナに負ける。
唯一、フィーナが自慢できる【転移魔法】だが、転移の魔結晶の下位互換みたいなものであり、便利ではあるが、コレ!といったものではない。
どんな事にも、上には上がいるものだが、フィーナはどうしても「最優秀」の一つが欲しくなった。フィーナは自分でしか、自分でないと出来ないと思えるような事を考えたが、一向に答えは出なかった。
転生というアドバンテージを得ながらも、何も思いつかない自分に、フィーナは腹がたった。それも当然である。ここはヒカリの世界とは文字通り異なる世界、異世界である。ヒカリの世界では通用しないような事など、いくらでもある。
フィーナはこの時初めて【壁】というものにぶち当たったのである。フィーナには、この【壁】が、レーナの作った雲の壁よりも大きく、そして厚く感じられた。
とは言え、今はレースの最中である。
フィーナは気を取り直して、二、三度深呼吸をした。そして覚悟を決める。
この【秘策】が、自分にとっての【壁】を破る一つにでもなればと、フィーナは少しばかりの期待をした。
フィーナが飛んでいる位置は、内側から一番離れた位置である。内側の近くを飛んでいるのがレーナで、その横にドナと続く。リリィはレーナのすぐ後ろについていて、機会を伺っている。
既にゴールは目と鼻の先である。このまま緩やかなカーブを曲がっていけば、レーナが僅かな差で勝利するだろう。フィーナは「仕掛けるならここしかない」と思い、行動を起こす。
隣のドナが警戒を強めるが、フィーナは止まらない。風魔法で自分の『リシアンサス』を跳ね上げ、フィーナはドナの頭上、そしてレーナの頭上を越え、きりもみ状に回転しながら、コース内側である雲の中に突っ込んだ。
「へっ!?」
雲の中に突っ込んだフィーナの耳に、一部始終を見ていたリリィから、呆けたような声が届く。たが、フィーナには応対するような余裕はない。この雲の中は【サイケデリック・バタフライ】の鱗粉だらけである。濃度は薄いが、それでも頭が混乱するぐらいならば充分なほど跋扈している。
フィーナも考えなしに突っ込んだ訳ではない。風魔法を使用して突っ込んだのは、同時に気流操作で鱗粉の影響を最小限に留める為でもある。と言っても、ほとんど気持ち程度なのだが。
『なななぁー!? フィーナ選手、魔法の扱いを誤ったか!? 幻惑の雲海へ突っ込んでしまいました! これは大丈夫なのでしょうか!? 大丈夫ですよね?』
『儂にはわざと雲の中へ突っ込んだ様に見えたが……あの娘は何考えてか分からんさね』
この大会ルールでは、雲の外へ出なければ失格とならない。つまり、雲の中は飛行可能域である。しかし、進んで飛ぶ者はいない。
ペントは心配そうに八の字眉毛を作り、グリゼルダは不安そうに顔を顰めた。
フィーナが雲に入ってから十秒ほど経った頃だろうか、救助向かおうとしていた審判は唖然とすることになる。
「っとぉーーー!」
フィーナが雲の中から雄叫びと共に現れたのだ。紺の見習い魔女服には【サイケデリック・バタフライ】の鱗粉がついていたようで、それが日に当たって、まるで万華鏡のように輝いている。
そしてフィーナが現れた先はレーナ達より、箒一つ分ほどの前方である。
『ええええ! 信じられません! フィーナ選手、なんと幻惑の雲海を泳ぎきりました! しかも他の選手を抜いて一位! そしてそのまま―――――』
フィーナは満面の笑みでゴールテープを切った。その笑みは鱗粉の影響によるものか、はたまたメルクオール王国最速の称号に対する喜びか、当の本人であるフィーナでさえわからなかった。
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