104『天使と悪魔』
【レンツの湯】、フィーナ達がサナと共にラ・スパーダを倒し、その素材を使って作られた浴槽を備えたレンツ唯一、そして初の浴場である。
フィーナは度々この【レンツの湯】を利用していたが、利用する際に、気をつけていることがあった。
それはキャスリーンの存在である。
キャスリーンは、ことあるごとにフィーナの入浴時間を狙って【レンツの湯】に来ていた。ある時は偶然を装って先に湯船に浸かり、のぼせ上がるまでフィーナを待っていたり、またある時はフィーナがそろそろ風呂に入るだろうと、一日に数回【レンツの湯】に行ったりなどなど……。
その度に、フィーナはキャスリーンを躱し、撃退し、罠に嵌めて回避した。
しかし、フィーナはレンツを離れ、ようやく気兼ねすることなく湯に浸かれるようになると、今度はフィーナの危機意識が低下してしまった。
機関にいる時は、分野毎に浴場が分かれているため、キャスリーンの襲撃を警戒することは無かった。それが返ってフィーナの危機意識を更に希薄にさせてしまっていた。
「フィーナさぁーん! お待ちしていましたわぁー!」
「キャ、キャシー!」
「うふふ、そろそろ浴場が恋しくなるのではと思い、待っていたのですわ」
「ひっ……」
「さぁフィーナさん。お背中をお流ししますわ。そこにお座りになって……?」
キャスリーンはのぼせる一歩手前というくらいに顔を蒸気させ、息荒くフィーナに迫った。フィーナは頭の中の警報が、けたたましく鳴り響くのを幻聴し、にじり寄るキャスリーンから後ずさるようにして距離をとった。
フィーナならばキャスリーンを水魔法や風魔法で吹き飛ばすことなど容易い。しかし、何故か今はそんな事を考える余裕すらなかった。
フィーナは蛇に睨まれた蛙のように、体を震わせて後ずさることしか出来なかった。
ヘーゼルの特殊魔法、あの闘争心が湧き立つ魔法を、今この時こそ羨ましく思ったことはない。フィーナは今までで一番と言っていい程、恐怖していた。ベヒーモスやグリフォンリーダーすら生温い。今、目の前にいるキャスリーンは、間違いなくゴル・スパーダよりも恐ろしいだろうと、フィーナは確信していた。
しかし、そこに救世主、現る。
「ちょっと、フィーナ恐がってるじゃない。今日は私の相談に乗ってくれるんだから、後にしてくれる?」
フィーナの目には、小柄なメイがとてつもなく大きく見えた。
熱い息を吐き、うわ言のように「フィーナさんの白い肌、フィーナさんの白い肌」と連呼するキャスリーンに対して、勇敢に立ちはだかるメイは、尊敬する母レーナよりも、魔法の天才ヘーゼルよりも頼もしく見えた。
思えば、メイと初めて会った時も、メイはこうやってフィーナを助けようとしていた。あの時はただのゴロツキ相手だったので、フィーナは微塵の恐怖さえ感じていなかったが、今は違う。
相手はあのキャスリーンである。
キャスリーンの目は血走り、既にフィーナしか目に入っていない。獰猛なホワイトウルフが乗り移ったかのような気迫、舌なめずりする様は貪欲なグラトニーマンティスのようだ。
しかし、その恐ろしきキャスリーンに立ちはだかるメイは、救世のアルテミシアの如く、勇敢な出で立ちである。白いバスタオルで身を包んでいることから、天使か、果ては女神にさえも見えてしまう。まるで弱い者虐めをするいじめっ子から、身を呈して庇うように、腰に手を当て、仁王立ちするメイ。
キャスリーンはメイによって視界を妨げられたことにより、不機嫌さを顕にした。
「あなた……誰ですの?」
熱い息を吐くキャスリーンから、凍てつくような冷たい声が放たれる。
「フィーナの友達よ。あなたこそ誰よ。フィーナを虐めないでよね」
「虐める……? わたくしが? フィーナさんを? そんなことありませんわ!」
「現にフィーナは怯えてるじゃない。あなた、はっきり言って異常よ。狂気にふれてるのかと思ったわ」
既にフィーナは尻餅をついて壁際で縮こまっている。キャスリーンはそれを見て、酷く狼狽えた。そして、鏡に映る自分の顔を見て、目を見開き、がっくりと膝を折り、手をついた。
「わたくしは……わたくしはただ、フィーナさんと一緒にお風呂に入りたかっただけですわ……」
「それならちゃんとフィーナにちゃんと連絡しなさいよ。いきなり現れて、魔物のように襲いかかろうとするなんて、恐いだけよ」
キャスリーンはだいぶ落ち着いたのか、意気消沈したのか、酷く落ち込んだ様子で浴室を後にしようとした。
「待ちなさいよ。あなたもフィーナとお風呂に入りたいんでしょ。私の相談は後にするから、一緒に入っていきなさいよ」
「え」
反論しようにも、言葉を発することが出来ないフィーナである。
「よろしいんですの……?」
「私は構わないわ。今のあなたなら、フィーナも恐がらないと思うし」
フィーナはこの時、メイが天使から悪魔に変わるのが見えた。結局メイは、ただ正義感に溢れるだけの使いっぱしり魔女なのだ。いや、寧ろ絶望へと誘う所業、これが悪しき魔女の本質と言うべきなのかもしれないが。この世界の魔女はいたってホワイトで、善良なはずである。
やはり、フィーナの気持ちをわかってくれるのは家族であるイーナや、親友であるデイジー以外にいない。
そう、イーナやデイジーとは、かけがえの無い絆がある。きっとフィーナを助けてくれるに違いないのだ。
「姉さん、デイ―――」
「いくよ、イーナ。えい! 第二級複合魔法〜」
「きゃ! もう、ただ水をかけて来ただけじゃない! お返し〜!」
わいわいと、はしゃぐ二人を見て、フィーナはがっくりと項垂れた。フィーナは何とも言えない気持ちを感じつつ、涙を流した。