消失
僕はいつも通り目を醒ました。デジタル時計を見ると六時五八分だ。暫く布団の中でまどろんでいた。もう一度時計を見る、八時二分。僕はおかしいな、と思った。まだ七時位のはずだ。多分時計が壊れているのだろう。買ったばかりの電波時計なのに。僕は布団ベッドから出て顔を洗って着替えた。それから食パンにジャムを塗って口につっこみ、テレビを点けた。朝のニュースが流れる。僕は右下に表示された時刻を見て驚いた。八時一六分。テレビまで壊れているのか?いや、ひょっとしたら僕は寝過ごしてしまったのだろうか。そして次の瞬間八時一六分は八時一八分になった。変だ。八時一七分、のはずだ。僕は夢でも見ているのだろうか。とにかく大学に行かなければならない。僕は支度をして急いで家を出た。駅まで歩いて電車に乗った。電車は通勤途中の会社員で満杯だ。僕は痴漢に間違われないように鞄を抱きしめる。電車から降りて大学まで歩く。スマートフォンの時計を見ると九時五〇分だった。授業はもうとっくに始まっているだろう。
大学の構内は多くの学生が歩いていた。授業はまだ始まっていないのだろうか。スマートフォンまで壊れているのか。僕はとりあえず心理学の授業があるB講義室に向かった。講義室の椅子は学生で埋まっていた。僕は後ろの席に腰掛ける。しばらくすると教授が教壇に上がり講義が始まった。教授はかなり年寄だ。教授がミミズの這ったような字を黒板に殴り書く。ノートに写すのに苦労する。そのうち僕は板書をあきらめてぼんやりした。何かが変だ。時計がいっぺんに壊れるなんて普通じゃない。今は一体何時なのだ。僕は教室の時計を眺めた。一〇時五〇分。二コマ目が始まる時間じゃないか。時計の文字盤がおかしい。1、2、3、4、5、6、8、9、10、11、12…7が無い。文字盤は十一個の数字で十一に分割されていた。七はどこに行ったのか。僕は講義室を飛び出し他の時計を探した。隣の講義室のドアを開ける。学生と教授が怪訝な顔で僕を見た。この教室の時計もやはり七が抜けていた。僕何が何だか分からなくなり家に帰った。家中の物をひっくり返し僕は七を探した。定規の数字も、本のページも、ノートパソコンのキーからも七が無くなっていた。六の次は八になっていた。世界から七が消えたのだ。僕は大学の友達に電話を掛けた。
「もしもし、吉岡か?」
「あのさ、数字の六の次は何だ?」
「八に決まってんだろ。変なこと聞くなよ、疲れてんのか?」
「七はどこに行ったんだよ?」
「ナナってなんだよ?森岡菜々子ちゃんのナナ?」
「いや、なんでもない。それじゃ。」
僕は気が変になりそうだった。確実にこの世界から七が消えた。七が消えて六と八がぴったりとくっついてしまったのだ。もう七が入る隙間はない。僕は気が滅入ってしまった。夕方に香織とデートする予定だったがキャンセルしよう。彼女に電話を掛ける。お掛けになった電話番号は現在使われていません…どういうことだ。長谷川香織、の文字がスマートフォンの画面に映っていた。香織の控えめな優しい笑顔が頭に浮かぶ。僕は恐ろしいことに気付いた。彼女の住んでいたのはマンションの七階だった。
僕は電車を乗り継ぎ彼女のマンションに向かった。電車を降りると全力で走った。古びたコンクリートのマンションだ。この部屋で香織は母親と暮らしているはずだ。僕はマンションの階段を上った。1階、2階、3階、4階、5階、6階、次は?僕は祈るような気持ちで最後の一段を上った。そこは、8階だった。七〇三号室が香織の住んでいた部屋だ。ひょっとしたら八〇三号室に彼女がいるかもしれない。しかし八〇三号室のインターフォンを押すと男性が出てきた。男性は不審な表情を浮かべた。僕はすいません、間違えましたと言うと階段を駆け下りた。心臓がどくん、どくんと打つ。七階が無くなってしまった。ひょっとしたら香織も一緒に消失してしまったのか。めまいがする。
それから僕の世界から七は消えたままだ。六の次は八になっている。マンションの七階と一緒に香織も消えてしまった。友達の誰に聞いても香織のことを覚えているやつはいなか僕は七を忘れないために紙に七、7、seven、と書いて枕元の壁に貼った。僕は七を忘れたくない。七を忘れたら香織のことも一緒に忘れてしまいそうな気がした。