第一話
「エルー、起きる」
「……リシィ?」
頬を引っ張られた。何事かと思って目を開けると、そこには我が愛しの妹リシィがちょこんと座っていた。丁度、俺の膝の上に、その小さな身体を預けるように。
「今日、何日目?」
リシィは長い睫毛を蓄えた、つぶらな二つの丸い目で俺を睨んだ。
妹は言葉少なで主語が抜ける事が多々あるが長年の経験から推察すると質問の意味は恐らく、この世界に来て今日で何日経ったのだと聞きたいのだろう。
「一ヶ月?」
正確には数えていないけど、そんなもんだろう。リシィは首を縦に振った。
「正解。反して、一文無し、私達」
そんな事言われても妹よ。そもそも働いていないのだから仕方無い。ついでに言えばその気も無い。
「ソレガ、ドウシタ」
独特の区切り方でリシィの喋り方を真似した。平手打ち食らった。
「ギルド、入る」
俺はつい吹き出してしまった。妹の言葉に耳を疑う。
「ごめん、お兄ちゃんよく聞こえなかった」
「エルー、これ見る」
どこでそんなもの手に入れてきたのか、リシィは俺にギルドメンバー募集中と銘打たれたビラを見せてきた。
「まさか……リシィ」
「その、まさか」
「俺に、働けと……?」
リシィがうんうんと頷いたので、俺は真剣な顔で、さらさらとした絹糸のような黒髪の生えた妹の頭を撫でてやる。
「妹よ。お兄ちゃんに死ねと言うのか」
「死ね」
「おまっ……」
言いやがったこいつ。
そうなのだ。リシィは可愛らしい外見に反してとんでもない毒舌だ。毒を吐きながら懐いてくる、毒デレなのだ。
「何故、ギルド、嫌?」
鈴を転がしたような幼さの残る声でリシィは言う。なんでかってそりゃ、
「生まれてこの方、人生ソロプレイで通してきた孤高の俺が今更他人と慣れ合えるか!」
「コミュ症、ぼっち、童貞」
うるせぇ!俺はぼっちだがコミュ症ではない!それはどちらかと言えばお前だ妹。つーか、ど、童貞関係無いやろ!
「大体、せっかくゲームの世界に来て働く必要が無いのに、何故にギルドなんぞ」
俺が言いかけると、リシィは首を傾げた。
「エルー、帰る、嫌?」
元の世界に帰るのが嫌か、という話だろう。答えはもちろん、
「嫌だ!」
だって帰ったらまた無職童貞ヒキニートの二十歳に逆戻りだ。社会と不仲になってしまった俺に、あの世界での居場所なんて無いのだ。だったらこの安住の地に骨を埋める事に何の躊躇いも無い。ここでなら何もしなくても誰にも迷惑をかけないで済むのだから。
「むぅ」
俺の気を知ってか知らないでか、リシィは頬を膨らませてプイッとそっぽを向いた。不貞腐れたつもりか上等だ。いくら可愛い妹の頼みでもギルドにだけは絶対に入らないぞ。そう、絶対にだ。俺にもプライドその他諸々がある。
「……お兄、ちゃん」
「卑怯だぞ貴様ァあああ!!」
俺の意地とか覚悟とかを寄せ集めた牙城がいとも簡単に音を立てて崩れていく。
だ、だって!いきなり涙目の上目遣いでお兄ちゃんとかンなもん反則以外の何だと言うのだ!
「……ダメ?」
「やめろ萌え死ぬ!!何が望みだ!?一体どうしてこんな酷い事を出来る!?」
「ギルド、入る?」
「入る入ります入りますからもうやめてぇ!!」
「分かった」
……え?
いきなり現実に引き戻される俺。リシィは立ち上がり、自分の着ているローブを手でポンポン叩いて埃を落としている。
「変わり身早っ!」
「エルー、早く行く」
嵌められた。俺は自分の不甲斐なさに涙を流しながらリシィに引き摺られるのだった。せめてだ、せめて、
「もう一回お兄ちゃんって呼んで?」
「ハエ」
鬱だ死のう。
☆ ☆ ☆
20XX年。とある日本の電器メーカーの大手がVR技術を完成させた事をきっかけに、もう進化は望まれないだろうと思われていた映像技術は著しい躍進を遂げた。
その波及効果は国内に留まらず、全世界のあらゆる企業がノウハウを競って市場は目覚ましいほどに進歩した。
そのうち視覚だけではなく、嗅覚、聴覚、味覚、触覚といった五感の再現が可能になる頃には、VR技術は医療、科学、教育等――あらゆる分野に浸透していた。
VR技術による社会、『VR社会』の訪れを招いたこの世紀の発明を、後の人々は『理想の現実化』と呼んだ。
前置きはこの辺にして。ここからが本題なのだが、これはそんな日本社会に生まれたちょっと面倒臭がりな平々凡々普通の俺の話である。
VRがクソも珍しくない当たり前になった時代、ゲーム大国日本は当然その技術を転用してこれまでに何本ものVRゲームを発表していた。
そんなある日の事だ。高校を卒業してから地元を離れ、浪人二年目人生灰色真っ只中な俺の所に一本のVRММОが届いたのは。
予備校から帰ると、玄関に置かれていた一メートル四方のダンボール。差出人の名前は無かった。
死体とか入っていたらどうしようとビビりながらも中を開けると出て来たのはフルフェイスのヘルメットのような物に数本コードの付いた機械だった。
新手のイタズラかと思ってさらに中を探ると、白い封筒が一緒に入っていた。表には達筆な文字で“Candidate.”と書かれている。
封を切ると出てきたのは一枚の手紙だった。
「親愛なる77人の選ばれし方々、おめでとうございます。あなたはβテスターの抽選に見事当選いたしました。後はマシンを起動するだけで“World Keeper On-line”の世界の仲間入りです。注意書き、個体識別認証登録を行なっておりますので、第三者に権利の譲渡は出来ません。なお、ゲーム中に発生したいかなる事故の責任も負いません……か」
全く身に覚えの無い話だった。
まぁいいかと、ほんのちょっぴり芽生えた好奇心でVRマシンを頭に装着する。何も、ただ未発売のゲームを試すだけだ。そもそも送り先が間違っているなら起動出来ないだろうし。
耳の辺りに付いているスイッチに触れると、マシンが認証を開始した。文字の羅列が眼前を横切って行く。
IDチェック中……心拍、脳波一致。ログイン完了。アバターアドレス取得中。取得完了。アバター生成中、アバターネームを入力して下さい。入力完了。
『閉ざされた世界へようこそ、エルド様』
電子メッセージが脳内に直接語りかけてくる。どうやら本当に起動に成功してしまったらしい。
ものすごい勢いで高所から落ちて行くような感覚に晒される。同時に、強い光が俺の視界を覆った。それらに耐え切れず、俺は目を瞑った。
やがて地に足のつく感触があり、恐る恐る目を開けると、そこには見渡す限りの青空と草原が広がっていた。
「すげぇ」
あまりにも壮大な光景に俺は思わず息を呑んだ。
それが、これから始まる、俺達兄妹にとって一生忘れる事の出来ない長いゲーム生活の始まりだった。