里山の子供たちの学校7
里山の子供たちの学校7
子供たちは「あだ名」ニックネームを付ける名人なのです。先生や子供たちの顔や体の特徴からや、名字、名前の呼び方をもじったものや、顔が動物に似ているなどのたわいもないことがらをあだ名のヒントにするのです。なかには面白半分に付けるひどい「あだ名」もあるのです。里山の子供たちも世の中も、まだ個人に対しては結構と無神経で無頓着なのです。しかし、あだ名は愛称なので子供たちの同士が仲が良い親友の関係だからこそ使うのです。本名よりも「あだ名」の方は通りが良いのが、子供たちの世界なのです。陰で言うのではなく、本人の前でも言うから、本人も認めているのです。仲間のなかで一人だけが「あだ名」で呼ばれないと子供たちが同士の心に隙間が出来て、お互いの間に距離感が出てしまうのです。一人だけがみんなと違う言動をすることは罪悪に近く、友達からすごく嫌われるのです。それなので、子供たちは親しみを込めてあだ名で呼びあうのです。
子供たちのなかには、男と女の二人だけの秘密で公然でない「あだ名」もあるのです。子供たちは男の子と女の子の仲に意識的に隔たりがあって、女の子に意識をすればするほど周りの眼を自然と気にしなければいけないのです。大人の言葉や友達からは未だ子供なのに「オマセ」な子供と批判される嫌な気持ちを持っているのです。そんな空気のなかで秘密の「あだ名」付け合って仲良くなった男と女の二人が居るのです。男の子は、その女の子に自分たちだけが分かる「あだ名」をお互いに付けて、誰にも知られないように自分たちが二人の間だけで使うのです。その「あだ名」がみんなに公然となったのは、あと何日かで卒業式を迎えようとした卒業記念の寄せ書き帳に、それぞれが自分なりに学び舎での思い出や将来の夢などを友達がお互いに書きあって交換するのです。その女の子からまわってきた寄せ書き帳に、何か意味の不明な言葉が書いてあることに気づいたのです。それが彼の付けたあだ名なのです。二人でしか使わないあだ名の存在もその音の並びも知っていたけど、初めて公表されて改めて意味を考えるのです。暗号のようで、自分たちだけしか分からない仲が良い二人の秘密めいたところに意味が深々なのです。卒業してから何年もたって、時代は流れて懐かしい仲間と再会したときに、その女の子はいまだに彼の付けたあだ名で呼ばれているという事を聞くのです。卒業後は二人とも別の学校へ行き、別れ別れになるのですが、その女の子は「あだ名」を彼が普通に使って呼んでいるのです。何か時空をこえた素晴らしく美しい「あだ名」なのです。
学校給食の開始が遅れている里山の子供たちは、アルミ製の大きな四角い弁当箱にご飯を詰めてもらって登校するのです。育ち盛りでおなかの空いたお昼の時間は楽しみのはずなのですが、いろいろと複雑な思いをする子供たちがいるのです。里山には、今の飽食の時代からは想像がつかないくらいに物や食品が不足していて、朝につくる弁当へ入れるオカズがなくて母親は苦労するのです。オカズが入っていない白米のご飯だけの子供もいれば、米の消費を防ぐのに麦が多く入っているためにご飯が黒っぽくなっている子供や、ご飯に梅干だけがのっている日の丸弁当が梅の酸でフタが溶けてボロボロになっている子供や、タクアンの漬物だけがオカズだったりする子供も居るのです。まだ悲惨な子供は米もオカズもなくて弁当を作ってもらえない子供は、お昼になると教室を抜け出して校庭の蛇口から水だけ飲んで遊んでいる子供さえいるのです。
そんな貧しい弁当を造ってもらう教室では昼食の時間を知らせる用務員さんが鳴らす大きなベルの音を聴くと、古新聞紙で包んだ弁当をひろげるのです。それぞれ自分が持ってきた弁当を包んでいる古新聞紙や、弁当のフタを片手で立て中身を隠すようにして食べるのです。ある子供は質素な弁当が恥ずかしいと思って卑屈になっている傷口に塩を塗るかのように、裕福な子供はぜいたくな弁当を他の子供に見せびらかすのです。冬になると弁当をダルマストーブの近くで暖めると、タクアンの入っている弁当はタクアンの臭いが周り一面にたちこめて、教室のどこからかクスクスと笑い声が聞こえてくるのでそれぞれの子供が自分の弁当からだと思い誰ともつかず恥ずかしくなるのです。弁当を勢いよくいざ食べ始まると、厚切りのタクアンをかむ音がボリボリとするのです。家では何の意識もなくボリボリと食べているのですが、学校ではちょっと気が引けてしまい、そのかみ方も少しずつ少しずつ、ボリ・・・・ボリ・・・と音をさせないように食べるのです。それでも音を目ざとく聞きつけた前の席のかわいい女の子が、わざわざ振り返って意味の不明なふくみ笑いをするのです。思わず顔が真っ赤になり、途中でかむことをやめて慌ててのみ込んでしまい食べることをやめるのです。
長雨の降り続いた梅雨も明けて夏になるにしたがって、里山の全体が障子を取り外したように開放的になると、子供たちは夏休みと言うとその言葉を耳にするだけでなんとなく幸せを感じるのです。夏休みは子供たちにとって一年のなかで最も楽しみな時間で、朝から夜まで友達と自然のなかで遊べる冒険の日々なのです。野山を駆け回り、川で泳ぎ、川魚を獲り、真っ黒に日焼けし、夏祭りを楽しみ、神社の森で遊び、ギラギラと輝く真夏の太陽、青い空、入道雲、むっとする夏草の匂い、うるさく鳴くセミの声、里山の子供たちにとって里山はとにかくよく外で遊べるパラダイスなのです。
朝起きるとすぐに鶏小屋に行って、小屋のあちこちに産んである卵を集めるのが子供の夏休みの役目なのです。朝ごはんの白米に産み立ての卵をかけた卵ごはんをかみながら、集合場所の農家の広場へラジオ体操に集まるのです。「新しい朝が来た、希望の朝だ、喜びに胸を開け大空あおげ」の歌で始まるラジオ体操第一第二をするのです。「全国のみなさ~ん、おはようございます~」というNHKアナウンサーの声に合わせて、子供たちも「おはようございます~」とラジオに向って元気に応えるのです。首から体操カードをぶら下げて、終わると地区少年団の年長の子供がカードにスタンプを押してくれるのです。皆勤すると夏休み明けに学校に体操カードを持って行くと、鉛筆やノートの賞がもらえるのです。大勢の子供たちが集うラジオ体操は、子供たちと鳥の声しか聞こえない里山の夏の静かな朝の風物詩なのです。晩夏になってセミのツクツクホウシが鳴き始めるお盆が過ぎると、夏休みの宿題を思い出して慌ててたまりにたまった夏休み帳の宿題に苦しんで取り組むのです。子供たちのなかには、「時すでにおそし」と悟って残りわずかな夏休みをもっと楽しむという悪い考えの方向に向かう子供もいるのです。もちろん夏休み明けには、先生にこっぴどく説教される事になるのですが、それは覚悟を承知の上なのです。先生の前に正座をして、しんみょうな顔つきをして黙って下を向き小一時間も説教されれば嵐も過ぎて終わりなのだと思うのです。