里山の子供たちの学校1
里山の子供たちの学校1
新学期になり、満開の桜で春の香りが漂うすがすがしい空気と優しい朝の光の中を、刈り取られた稲の切株が整然と並んでいる田んぼの道に続く石造りの門を通って、木造校舎へと子供たちは元気に通学するのです。土を平らに押し固めただけの校庭には、屋根より高い国旗掲揚塔がそびえ立っている脇に、松の枝の下でマキを背負って本を読む二宮金次郎(尊徳)の石像が子供たちの登下校を静かに見守ってくれているのです。校舎の右端の大きな入口は生徒用で、広い玄関に板で造った下足箱が何段も何列にわたって四角い箱が組み合わさって背中合わせに連なっているのです。子供たちは粗末な履物を扉のない下足箱に突っ込んで、裸足で教室へと急ぐのです。片側一列に並んだ教室の入り口には、何年の何組と黒塗りの板に白い文字で書かれた表札が廊下の奥まで整然とぶら下がっているのです。木枠のガラス窓が連なる長い廊下の奥の教室までの床板は、歩くとギシギシとなり長いあいだ踏みつけられて擦り減ってしまった床板の木目が浮き出てピカピカに磨きぬかれているのです。
大昔の人が、火の暖かさと煮炊きを知り、道具の便利さを覚え、雨つゆをしのぐことで安心ができる住居を建てたころから、木材は人にとって必需品になるのです。木に触れても人の体温が奪われることがなく感触がソフトで、コンクリートとは違うあたたかさを子供たちに感じさせてくれるのです。ぬくもりと落着きを感じる木造校舎の掃除は、子供たちの担当なのです。教室の床や廊下などを、母親から縫ってもらった縫い目の荒いゴツゴツの雑巾で、子供たちは横一列に並んでタッタッタと勢いをつけて水拭き掃除をするのです。廊下は年数がたっているので床から飛び出た古クギに雑巾がひっかかってしまい、四つんバイの格好で競争するように勢いをつけているところに急ブレーキがかかり背負い投げで投げられたように前方に一回転してひっくり返るのです。校舎は風や歩く振動でガタガタ震えるガラス窓の隙間から、風に運ばれる砂ぼこりが吹き込んでいて雑巾をゆすぐバケツの水は恐ろしいほど黒く汚れるのです。床板は所によって板の表面がささくれ立っていて、鋭いトゲが雑巾を突き抜けて手に刺さって慌てて保健室に駆け込む騒ぎもあって掃除当番の子供は大変なのです。木材は校舎だけではなく、先生の立つ黒板の前の一段が高くなっている教ダンはもちろん、子どもたちが使う板の下が物入れになっている小さな机や、角材を組み合わせた硬い椅子もすべて木材でできているのです。机や椅子には肥後守のナイフやコンパスの針の先で彫られた先輩の子供たちの落書きが残っていて、それらも昔からの遺産として今の子供たちに引き継がれているのです。授業で使う大きな黒板は、板の部分が黒く塗られた表面はツルツルした材質なので、日差しの光が反射して座る位置によっては白ボクで書かれた文字が大変見にくいのです。
里山の学校の休み時間は、とにかくたくさんの子供が運動場を走り回り場所取り合戦をするのです。どうしても上級生が優先で真ん中のいい場所を取ってしまい、下級生たちは年が同じような子供たちが隅の方にかたまって居場所が決まるのです。子供たち自身が年上と年下の力関係との葛藤の中で、自然とルール作りと力関係が発生するのです。子供たちの団体生活をする規律の中で、面倒見の良い年上のガキ大将による暴力は年上年下の上下関係をはっきりさせ、遊びでも危険なことをする下級生を叱り飛ばすことが使命を持って行うのです。学校の授業では戦後に生まれた多くの団塊世代の子供たちが、忘れ物や悪いことをすると先生からのビンタや殴られる体罰は普通にあるのです。家庭では父親に殴られ学校では先生や先輩から殴られ、友だちとケンカで殴り合いすることも日常に当たり前なのですが、いずれのことも大きな問題がおこることはないのです。現代の子供たちの校内暴力や陰湿なイジメの問題は、家庭環境や教育だけに起因するものではなくて、硬いアスファルト舗装と高層マンションや無機質なコンクリート校舎の居住環境が大きく影響していると思えるのです。怒られたり殴られたり大きなケンカをしても里山の子供たちは、自然と人を大切にして思いやる心を教えられて和気あいあいと過ごす活気あふれる日々が里山の生活なのです。
木造校舎の木材は、雪国の大自然の厳しい風雪に耐えて何十年もかかって育った樹木を伐採して用材に加工されて建てられた校舎なのです。そんな生命力のある木材の環境の中で育まれていく子供たちは、心が実に素朴で素直なのです。加工された木材の組織の中は隙間があって空気中の湿度を吸い取ったり吐き出したりしているので、あるていどの曲げと反発するたわみで衝撃を吸収するので子供たちが床に思いっきり転んだり、板壁にぶつかったりしてもケガは少ないのです。教室の床に張られた木材のダ円形の節目が乾燥して抜けそうになっているのを発見して、腹ばいになって緩んだ節目のフタを外して節穴からのぞくと、下の教室の天井に張られた板と板の隙間からのぞき見える憧れの女の子を上から発見してワクワクするのです。集中力に欠けて授業に飽きてくると、壁板の板目が真っすぐなものや渦を巻いた年輪をみながら、その文様をいろいろなものに例えた想像や空想をするのです。木材が持っている自然で優しい感じや、木造ならではのすえたにおいと、年数を重ねることによる色合いの変化が子供たちの心を落ち着かせてくれるのです。里山の子供たちは、自然の中で自然の材料で建てられている木造校舎に守られて、心の優しさを持った忍耐の強い子供に育っていくのです。
木造校舎に通う子供たちは冬になれば寒いものだと思い、寒いのは外だけでなく校舎の中も寒いというのが普通だと思っているのです。その寒さのためだけではないですが、子供たちには鼻タレ小僧がいっぱい居るのです。鼻タレ小僧というのは、常に青バナが鼻の穴から垂れ下がっている子供のことなのです。垂れ下がっているのが両方の鼻の穴からの子供もいれれば、どちらかが片方だけの子供もいてハナが長く伸びてクチビル辺りまでくると、慌ててすするので鼻の穴に格納されたり出たりしてハナも忙しいのです。ハナが長く垂れ下がっても上品に鼻をかむということはしなくて、たいていは腕の服にこすり上げてふき取るのです。それなので、長男から順番にお下がりでもらう服やセーターの袖口にはどの子にも乾いたハナの光沢があるのです。木の窓枠に薄いガラスを入れた隙間風の入る木造校舎の冬はとても寒く、学校生活にはダルマストーブは欠かせないのです。早く登校したストーブ係が、石炭置き場から石炭をバケツの中にいっぱいに入れて教室まで運びストーブに火をつけると、登校してきた子供たちが集まって通学途中の冷えた手足や湿った靴下などを温めながら始業時間までおしゃべりをするのです。石炭は、黒光りする大変にキレイで手に持ってもそんなに汚れることがなく、なんでこんなに硬い石が燃えるのかといつも不思議に思うのです。燃える熱で赤くなったストーブは教室の前のほうにあるので、授業中はストーブに席の近い子供はフク射熱が顔に直接あたって暑くて頬を真っ赤にして、後ろの席の者は寒くて前かがみになって腕を組み合わせて震えているのです。教室の中が乾燥しすぎないようにストーブの上にはトタンで作った大きなタライか大きなアルマイトのやかんを乗せてお湯がいつもグラグラと煮立って湯気が噴出していて、そのまわりでは弁当を温めている風景は冬の日常の楽しみのひとコマなのです。まんなかがふくらんだ寸胴型のダルマストーブは、広い場所を温められるのが特徴で鋳物製なのです。