凶事
その日の夜、私の体調に、特に、変わったところは無かった。
出産までは、あと一月程あり、何時ものように、夫の無事を祈りつつ、眠りについた。
ところが、早朝、まだ日が昇る前、激痛により目が覚める。
それは、腹部からの痛みで、胎児の異常を知らせる合図である事を容易に想像させた。
気を失いそうになる程の痛みに耐え、隣室にいるジェニーを呼ぼうにも、声にならない声で呻く事しか出来ない。
立ち上がる事すら出来ない程の痛みに耐え、何とか部屋の外に出ようと、床を這いずる。
「お、お、お、奥方様ー!い、い、い、如何されましたー!」
「医…師…を…早く…。」
物音に気付いたジェニーが、痛みに悶える私を見つけたのは、最初に痛みを感じてから、どれ程、時間が経っていただろうか?
本能的なものであったが、気を失ってはいけないという思いが、私の心に、消える事の無い傷を、深く刻み込んだ…。
この後に起こった出来事の一部始終は、一生、忘れる事が出来ないだろう。
* * *
「奥方様…、何か召し上がられますか?」
「…。」
言葉では無く、首を左右に振る事で、食べ物は要らない事を伝える。
丸一日、何も食べていない為、お腹が空いている事は間違いない。
しかし、食べる気力はない。
先刻まで、胎児が入っていたお腹は、すっかり引っ込んでしまっている。
そのお腹を触る度に、堪え難い悲しみに襲われ、涙が流れて来る。
こんな時でも襲って来る食欲に腹が立ち、涙が溢れて来る。
「何か召し上がりませんと…。果実をお持ち致しますので、少しだけでも、お召し上がり下さいね…。」
私を心配するジェニーの言葉は、耳に入って来ていない。
私が産んだ子は、一度も、産声を上げる事が無かった。
「今後、お子様を授かる可能性は、限り無く低いと言わざるを得ません」という、追い打ちを掛けるかのような医師の言葉が、私を絶望という谷底に突き落とす。
「勿論、可能性はゼロではありません」という医師の慰めは、意味をなさなかった。
私は、夫と交わした約束を守れなかった…。
* * *
「フェリス!無事、戻ったぞ!お腹の子は産まれたか?」
本来なら、出産を迎えていたはずの頃、夫が戻って来た。
何時もなら、不機嫌極まりない様子で帰還する彼だが、今回は、珍しく機嫌が良いのが伺える声だった。
そんな夫の声を聞き、体が震えだした。
それは、恐怖と罪悪感が入り交じった、何とも言えない震えだった。
夫より、父の方が先に、家の門をくぐって来るはずと予測していたが、先に帰って来たのは夫だった。
こんな時に限って、娘婿に気を使う父に、腹が立つ。
とてもじゃないが、二人の凱旋を喜ぶ事は出来ない。
「旦那様!実は、……………………………………。」
「何…。それで、フェリスは?…………か?」
「奥方様は、……別状は………………。私が…………………、誠に、申し訳……………!私を……………処分……………ませ!」
部屋の外で、涙声になりながら、夫に事情を説明しているジェニー声が漏れて来る。
恐らくジェニーは、床に頭を擦り付けているのだろう。
彼女に責任は無いのに…。
「お前に…………ない…。お前が…………必要はない。これからも、今まで……………、フェリス…………………くれ。」
* * *
「フェリス、体調はどうだ?お前が無事で良かった。」
優しく問い掛けて来る夫に会わせる顔がなく、顔を背けてしまう。
「何だ?拗ねているのか?寂しい思いをさせて悪かった。しかし、今回も俺は、無事に戻って来たのだぞ。褒美にその顔を見せてくれないか?」
殊更、明るく問い掛けて来る言葉が、今は、とてつもなく辛い。
「子供の事は…、確かに残念だった。しかし、何時の日か、又、出来る。お前が無事なら、その機会を貰えるというものだ。」
残念ながら、その機会は、永遠に来ないかも知れない。
「そのように自分を責めるな。お前には、勿論、ジェニーにも、その責はない。強いて言うなら、責は俺にある。責めるなら、俺を責めろ。俺が背負っている怨念が、お前に飛び火し、お前に辛い思いをさせてしまった。本当に、すまない…。しかし、俺は、無事にお前の傍に、無事で居たお前の傍に戻れた事が、単純に嬉しいのだ。だから、機嫌を直してこっちを見てくれ。」
止めようのない涙が、頬を伝う。
いつの間にか、震えは治まっていた。
「参ったな…。俺は嫌われてしまったようだ…。まあ、それも当然か…。フェリスに悲しみの涙を流させないと誓ったはずなのに、約束を守れなかったのだからな…。」
「いえ…、嫌ってなどおりません…。」
顔を背けたまま、声を発する。
この上、夫にまで捨てられたら、私は生きては行けない。
夫に、誤解を与える事だけは、何としても、避けなければいけないが、私の弱さが、彼の顔を見る事を拒絶する。
「それならば、俺を見てくれ。」
流れる涙を拭いもせず、覚悟を決め、ゆっくりと、彼の方を見た瞬間、力一杯、抱き締められた。
骨が軋む程の力強さに小さく呻いた以外、何も言葉を発せず、ただただ、嗚咽を漏らす事しか出来なかった。
それから、どれぐらい抱き締められていただろうか?
嗚咽も治まり始めると、夫が、ゆっくり口を開く。
「俺には想像も出来ない程、辛い思いをしたのだろうな…。そんなお前に、何もしてやれない俺自身に腹が立つ…。この上、お前に酷な要求をしようとしている俺が、腑甲斐なくて仕方がないのだが…。お前には…、以前のように笑っていて欲しいのだ。情けない事に、それこそが、俺自身、生きている事を実感出来る瞬間なのだ。お前が死んでは、俺自身、生きている意味がないのだ。今回の事を、忘れろとは言わない。しかし、お前には笑っていて欲しい。酷な要求だが、力足らずな俺の我儘を、聞いてはくれないだろうか?始めは、作り笑いで充分だ。何時しか、本当に笑える日は来るはずだ。」
「努力…してみます。」
そう、言い終わるや否や、もう一度、強く抱き締められた。
「随分と、痩せ細ってしまったな。抱き心地が物足りない。」
「結婚してから、幸せ太りしておりましたので、これぐらいで丁度良いのです。」
そう言って、少し微笑んでみた。
勿論、上手く笑えてはいなかっただろうが、微笑み返してきた夫の顔は、私が恋に落ちた時の顔と、同じ顔をしていた。
「婿殿!フェリスは何処に居る!担当した医師を、俺の前に引き摺って来い!直々に首を刎ねてやる!」
夫への愛を再確認していた時、騒がしい人物が、物騒な言葉を吐きながら、我が家に戻って来た。
「やれやれ、面倒くさい御方が戻って来た。俺に、あの御方をお止めする事が出来るだろうか?」
そう呟いて、苦笑いを浮かべた夫は、私の頬に口付けをし、私の傍を離れた。
その背中は、小柄な体格にも関わらず、とてつもなく、大きく見えた。
「義父上、フェリスは休んでおりますので、お静かに願います。」
「おお、婿殿!医師を、俺の前に引き摺って参れ!」
「そんな事をして、何になりますか?それより、義父上には、フェリスに、労いの言葉を、一言、掛けて頂きとうございます。それを以て、この件は終わりにします。責任追及は、一切、致しませんので御承知置き下さい。ご存知の事と思いますが、フェリスを責めるような真似をなさいましたら、義父上と言えど容赦致しませんので、お忘れなく。」
「しかしだな!…、まあ…、婿殿がそれで良いなら…、この件の処置は、婿殿に任せる…。」
部屋の外で、"不死身の軍神"が、父を睨み付ける態が、目に浮かぶようだった。
ランドルフ様の方が、既に、役者が上になっているようですよ、お父様…。
* * *
凶事というものは、連鎖するものなのかも知れない。
我が家の凶事と、王室の凶事を、同列に扱うのは失礼極まりない事だが。
程なくして、病に伏せって居られた国王陛下が崩御なされた。
摂政として、国事を代行なされていた王太子殿下が、新王に即位される。
それに伴い、各所で代替りが起こった。
特に、そのような決まりはないのだが、慣例のような物だ。
まず、王国軍司令官は、先王の末弟シュバイク殿下から、新王の弟ミュラー殿下に交代する。
王国軍司令官は、一種の名誉職だそうだが、「無能な奴より、有能な奴の方が良いに決まっている」という父の評価に、夫も同意していた事から、王国軍にとっては、良い事なのだろう。
前々から決まっていた近衛兵団の団長交代も、同時期に行われ、私は団長夫人となる。
父は、退役と同時に、隠居を決め込み、公爵家の家督は、正式に夫に譲られ、父はフランツ大公と呼ばれるようになる。
我が家の代替りは、眉をひそめる貴族を、多数、作り出す事に繋がった。
しかし、各所で代替りが行われながら留任となった宰相閣下は、夫の家督相続に眉をひそめず、両手を上げて賛成なされたそうだ。
そういえば、夫が婿入りする時も、色々、根回しをしてくれたと聞いている。
腹黒いご老体は、夫に恩を売り、良からぬ企みでもしているのだろうか?
私はというと、精神を揺るがすような出来事から、立ち直ろうと努力する。
愛する夫の我儘を聞くのは、妻たる私の務めだ。
取り敢えずは、見せ掛けだけだったが、心から笑える日が何時か来る事を、信じて疑っていない。
* * *
「フェリス、おい、フェリス!」
「んあ?」
「何という声を出しておるのだ、お前は!こんな所で寝ていると身体に障るぞ。」
「お、お帰りでしたか、ランドルフ様!今日は、帰って来ないものだとばかり!」
いつの間にか居眠りをしていた私は、帰って来た夫に揺り起こされた。
帰って来ないどころか、随分と早い、夫の帰宅だった。
王妃陛下との謁見が、余程堪えたとはいえ、夫の帰宅に気付かないなど、妻として失格だ…。
「そのように落胆されるとは、思っていなかった…。心労を掛けたから、お前を安心させようと思い、適当に切り上げて早く帰って来たのだが…。俺の妻も、夫が居ない方が気楽で良い等と言う輩の、仲間入りをしてしまったのであろうか…。」
「誰も、そんな事は言っておりません!」
「いや、今、あからさまに落胆されたぞ。これは、由々しき事態だ。」
「そんな態度は取っておりません!からかうのは、お止め下さい!」
「では、今日のところは、フェリスの言葉を信じる事にしよう。冗談はさて置き、俺は、お前の肌が恋しくなって来ているのだが、これは、俺の我儘かな?」
「まあ…。傷に…、障りはしませんか?」
「大した傷ではない。それより、この猛りを我慢する方が、余程、身体に障る気がするのだが。今夜は、お前を寝かせたく無い気分なのだ。」
「明日のお仕事に差し支えあっても知りま、きゃっ!」
私の言葉が終わる前に、体を抱えられ、寝室に運ばれる事と相成った。
そして、その両腕から伝わる温もりに包まれ、私は幸福感に満たされた。
「先程、私も昔の夢を見ていました。」
「ほう。どんな夢だったのだ?」
「愛する人の温もりに包まれる夢でした。」
「お前は、何時から、そんな愛らしい事を言うようになったのだ?」
「さあ?何時からでしょう?結婚してからではないでしょうか?」
「確かに、血の気が多い貴族令嬢には、言えない言葉だろうな。」
「『血の気が多い貴族令嬢』とは、誰の事でしょう?」
まだ、心の底から笑えてはいないかも知れないが、この温もりに包まれている限り、その日が来るのは、そう遠い未来ではないだろう。
その日が来る頃には、私が灯す光が、夫が灯す光と相まって、まばゆいばかりの輝きを放つようになるだろう。