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真犯人はオレ

続、真犯人はオレ。『01:00』の慈悲

作者: 方丈
掲載日:2026/05/25

月曜の午前一時七分、藤堂はまだ起きていた。


正確には、起きていたというより、椅子に座ったまま生命活動を継続していた。


画面には、依然として「霞ヶ浦資材_資産管理あるべき姿_v0.1.pptx」が開かれている。

二枚目のスライドには、こう書かれていた。


「本資料の位置づけ」


その下は白紙だった。


位置づけられていなかった。


本資料は、まだ世界のどこにも位置づいていなかった。


藤堂はペットボトルの炭酸水を一口飲んだ。すでに炭酸は抜けていた。

日曜の夜に開けた炭酸水は、月曜の午前一時には、ただの冷たい水である。


「俺もこうなりたい」


藤堂はつぶやいた。


刺激を失い、責任も失い、ただ静かに存在していたかった。


そのとき、スマートフォンが震えた。


画面を見る。


榊原ディレクターだった。


藤堂の背筋が反射的に伸びた。


来年パートナーに上がると噂されている、あの榊原である。クライアントの前では柔らかく、社内では判断が速く、資料の論点ズレを三秒で見抜き、しかもなぜか飲み会では聞き役に回れる男。神に近い生物。少なくとも金曜夕方の藤堂が、媚びておいて損はないと判断した対象である。


通知には、短い文章が表示されていた。


「藤堂さん、大丈夫?」


藤堂は固まった。


大丈夫ではない。


まったく大丈夫ではない。


しかし、この問いに対して「大丈夫ではありません」と答えるのは、社会人としてかなり高度な勇気を要する。まして相手は榊原である。藤堂は返信欄を開き、「大丈夫です」と打ちかけた。


そこで止まった。


午前一時七分に「大丈夫です」と送る人間は、大丈夫ではない。


榊原から続けてチャットが来た。


「他の人の分も、結構巻き取ってるでしょ?」


藤堂は目を見開いた。


見えていたのか。


榊原には、見えていたのか。


藤堂が金曜夕方に大丈夫っスと言い、部下の資料を見ますと言い、同期の壁打ちを受け、AI基盤だの全社DXだの生成AIだのアツチヨンブリケだのを一人で机の上に積み上げ、日曜二十三時五十分に「ゔあああ」と鳴いたことが。


いや、そこまでは見えていないはずだ。


そこまで見えていたら、それは上司ではない。霊能力者である。


さらに通知が続いた。


「月曜日朝イチで、十分だけ時間ちょうだい」


「二人で手分けしよう」


藤堂は、スマートフォンを両手で持ったまま動けなくなった。


二人で。


手分け。


その言葉は、午前一時のリビングに、信じられないほど優しく響いた。


そこへ、最後の一文が来た。


「メンバーへの言い訳用には、朝一で『土日に僕が緊急タスクを入れたので、いったん優先順位を組み替えます』って流すからさ」


藤堂は画面を見つめた。


何度も読んだ。


一回目は意味を理解するために。

二回目は現実であることを確認するために。

三回目は、自分がさっきまで榊原を心の中で「無茶なこと言いやがって」と罵倒していた事実を思い出すために。


「ゔ……」


声が漏れた。


これは先ほどまでの「ゔあああ」とは違う種類の音だった。


恥である。


圧倒的な恥。


藤堂はソファに倒れ込んだ。


「うわああああああああ」


小声だった。


家族を起こさないために、全力の小声で身悶えた。


「俺、榊原さんのこと、ボロクソに思った……」


思った。


明確に思った。


「チクショウ、あのディレクター、無茶なこと言いやがって」と言った。口にも出した。

しかも、それは金曜の記憶が蘇る前だった。

その後、真犯人が自分であると判明したにもかかわらず、心のどこかではまだ少しだけ、榊原に責任を残していた。


その残り香まで、いま焼き払われた。


榊原は無茶振り上司ではなかった。


普通に優秀な上司だった。


いや、普通以上に優秀だった。


藤堂のキャパシティを見ていた。

他メンバーへの説明責任まで引き受けようとしていた。

月曜朝一で十分だけ時間を取り、優先順位と分担を再設計しようとしていた。


これはマネジメントである。


本物のマネジメントである。


一方、藤堂が日曜夜にやっていたのは何か。


炭酸の抜けた水を飲みながら、「本資料の位置づけ」という文字列を見つめ、自分とは何かを考えていた。


「差が……」


藤堂はクッションに顔を埋めた。


「差がすごい……」


スマートフォンの返信欄には、まだ何も入っていない。


何と返すべきか。


「ありがとうございます。助かります」


それは正しい。


しかし、足りない。


「申し訳ありません。実はかなり詰まっています」


これも正しい。


しかし、午前一時の中年男性の魂の震えを表現するには、少し事務的すぎる。


「榊原さん、私は先ほどまであなたを心の中で不当に悪者にしていました。真犯人は私でした。にもかかわらず、あなたは慈悲をくださいました」


これは送ってはいけない。


絶対に送ってはいけない。


藤堂は深呼吸し、社会人として許容される文面を打った。


「ありがとうございます。正直かなり詰まっています。朝イチ10分いただけると大変助かります。優先順位と分担、相談させてください」


送信。


すぐに既読がついた。


「了解。まず寝て。明日でいい」


藤堂はスマートフォンを置いた。


まず寝て。


その四文字は、月曜午前一時の藤堂にとって、どんな経営理論よりも実践的で、どんな生産性向上施策よりも効果的だった。


だが、寝る前に一つだけやることがあった。


藤堂はノートパソコンに向き直り、「霞ヶ浦資材_資産管理あるべき姿_v0.1.pptx」を保存した。


何も増えていない。


それでも保存した。


次に、デスクトップにあった「週末タスク整理_最終.xlsx」を開き、ファイル名を変更した。


「週末タスク整理_供述調書.xlsx」


自分で見て、少し笑った。


笑えるだけ、まだ終わってはいない。


藤堂はパソコンを閉じ、リビングの電気を消した。


寝室に向かう途中で、もう一度だけ小さくつぶやいた。


「榊原さん、ごめんなさい……」


そして布団に入る直前、スマートフォンがもう一度震えた。


長谷部だった。


「明日朝のアツチヨンブリケの件、榊原さんも入れた方がいいかな?」


藤堂は暗闇の中で画面を見た。


三秒、沈黙した。


そして、返信した。


「入れないで」


即既読がついた。


「了解!」


藤堂はスマートフォンを伏せた。


午前一時十九分。


資料はほとんど終わっていない。


タスクも減っていない。


ただ、真犯人は少しだけ、更生の機会を得た。


藤堂は目を閉じた。


明日、十分だけ榊原と話す。


二人で手分けする。


優先順位を組み替える。


メンバーには、榊原が言い訳を流してくれる。


なんとかなるかもしれない。


そう思った瞬間、藤堂の脳裏に、金曜夕方の自分の声が蘇った。


「大丈夫っス!」


藤堂は布団の中で小さく身をよじった。


「もう二度と言うな……」


そして、ほとんど祈るように付け加えた。


「少なくとも、来週までは……」

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