続、真犯人はオレ。『01:00』の慈悲
月曜の午前一時七分、藤堂はまだ起きていた。
正確には、起きていたというより、椅子に座ったまま生命活動を継続していた。
画面には、依然として「霞ヶ浦資材_資産管理あるべき姿_v0.1.pptx」が開かれている。
二枚目のスライドには、こう書かれていた。
「本資料の位置づけ」
その下は白紙だった。
位置づけられていなかった。
本資料は、まだ世界のどこにも位置づいていなかった。
藤堂はペットボトルの炭酸水を一口飲んだ。すでに炭酸は抜けていた。
日曜の夜に開けた炭酸水は、月曜の午前一時には、ただの冷たい水である。
「俺もこうなりたい」
藤堂はつぶやいた。
刺激を失い、責任も失い、ただ静かに存在していたかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
榊原ディレクターだった。
藤堂の背筋が反射的に伸びた。
来年パートナーに上がると噂されている、あの榊原である。クライアントの前では柔らかく、社内では判断が速く、資料の論点ズレを三秒で見抜き、しかもなぜか飲み会では聞き役に回れる男。神に近い生物。少なくとも金曜夕方の藤堂が、媚びておいて損はないと判断した対象である。
通知には、短い文章が表示されていた。
「藤堂さん、大丈夫?」
藤堂は固まった。
大丈夫ではない。
まったく大丈夫ではない。
しかし、この問いに対して「大丈夫ではありません」と答えるのは、社会人としてかなり高度な勇気を要する。まして相手は榊原である。藤堂は返信欄を開き、「大丈夫です」と打ちかけた。
そこで止まった。
午前一時七分に「大丈夫です」と送る人間は、大丈夫ではない。
榊原から続けてチャットが来た。
「他の人の分も、結構巻き取ってるでしょ?」
藤堂は目を見開いた。
見えていたのか。
榊原には、見えていたのか。
藤堂が金曜夕方に大丈夫っスと言い、部下の資料を見ますと言い、同期の壁打ちを受け、AI基盤だの全社DXだの生成AIだのアツチヨンブリケだのを一人で机の上に積み上げ、日曜二十三時五十分に「ゔあああ」と鳴いたことが。
いや、そこまでは見えていないはずだ。
そこまで見えていたら、それは上司ではない。霊能力者である。
さらに通知が続いた。
「月曜日朝イチで、十分だけ時間ちょうだい」
「二人で手分けしよう」
藤堂は、スマートフォンを両手で持ったまま動けなくなった。
二人で。
手分け。
その言葉は、午前一時のリビングに、信じられないほど優しく響いた。
そこへ、最後の一文が来た。
「メンバーへの言い訳用には、朝一で『土日に僕が緊急タスクを入れたので、いったん優先順位を組み替えます』って流すからさ」
藤堂は画面を見つめた。
何度も読んだ。
一回目は意味を理解するために。
二回目は現実であることを確認するために。
三回目は、自分がさっきまで榊原を心の中で「無茶なこと言いやがって」と罵倒していた事実を思い出すために。
「ゔ……」
声が漏れた。
これは先ほどまでの「ゔあああ」とは違う種類の音だった。
恥である。
圧倒的な恥。
藤堂はソファに倒れ込んだ。
「うわああああああああ」
小声だった。
家族を起こさないために、全力の小声で身悶えた。
「俺、榊原さんのこと、ボロクソに思った……」
思った。
明確に思った。
「チクショウ、あのディレクター、無茶なこと言いやがって」と言った。口にも出した。
しかも、それは金曜の記憶が蘇る前だった。
その後、真犯人が自分であると判明したにもかかわらず、心のどこかではまだ少しだけ、榊原に責任を残していた。
その残り香まで、いま焼き払われた。
榊原は無茶振り上司ではなかった。
普通に優秀な上司だった。
いや、普通以上に優秀だった。
藤堂のキャパシティを見ていた。
他メンバーへの説明責任まで引き受けようとしていた。
月曜朝一で十分だけ時間を取り、優先順位と分担を再設計しようとしていた。
これはマネジメントである。
本物のマネジメントである。
一方、藤堂が日曜夜にやっていたのは何か。
炭酸の抜けた水を飲みながら、「本資料の位置づけ」という文字列を見つめ、自分とは何かを考えていた。
「差が……」
藤堂はクッションに顔を埋めた。
「差がすごい……」
スマートフォンの返信欄には、まだ何も入っていない。
何と返すべきか。
「ありがとうございます。助かります」
それは正しい。
しかし、足りない。
「申し訳ありません。実はかなり詰まっています」
これも正しい。
しかし、午前一時の中年男性の魂の震えを表現するには、少し事務的すぎる。
「榊原さん、私は先ほどまであなたを心の中で不当に悪者にしていました。真犯人は私でした。にもかかわらず、あなたは慈悲をくださいました」
これは送ってはいけない。
絶対に送ってはいけない。
藤堂は深呼吸し、社会人として許容される文面を打った。
「ありがとうございます。正直かなり詰まっています。朝イチ10分いただけると大変助かります。優先順位と分担、相談させてください」
送信。
すぐに既読がついた。
「了解。まず寝て。明日でいい」
藤堂はスマートフォンを置いた。
まず寝て。
その四文字は、月曜午前一時の藤堂にとって、どんな経営理論よりも実践的で、どんな生産性向上施策よりも効果的だった。
だが、寝る前に一つだけやることがあった。
藤堂はノートパソコンに向き直り、「霞ヶ浦資材_資産管理あるべき姿_v0.1.pptx」を保存した。
何も増えていない。
それでも保存した。
次に、デスクトップにあった「週末タスク整理_最終.xlsx」を開き、ファイル名を変更した。
「週末タスク整理_供述調書.xlsx」
自分で見て、少し笑った。
笑えるだけ、まだ終わってはいない。
藤堂はパソコンを閉じ、リビングの電気を消した。
寝室に向かう途中で、もう一度だけ小さくつぶやいた。
「榊原さん、ごめんなさい……」
そして布団に入る直前、スマートフォンがもう一度震えた。
長谷部だった。
「明日朝のアツチヨンブリケの件、榊原さんも入れた方がいいかな?」
藤堂は暗闇の中で画面を見た。
三秒、沈黙した。
そして、返信した。
「入れないで」
即既読がついた。
「了解!」
藤堂はスマートフォンを伏せた。
午前一時十九分。
資料はほとんど終わっていない。
タスクも減っていない。
ただ、真犯人は少しだけ、更生の機会を得た。
藤堂は目を閉じた。
明日、十分だけ榊原と話す。
二人で手分けする。
優先順位を組み替える。
メンバーには、榊原が言い訳を流してくれる。
なんとかなるかもしれない。
そう思った瞬間、藤堂の脳裏に、金曜夕方の自分の声が蘇った。
「大丈夫っス!」
藤堂は布団の中で小さく身をよじった。
「もう二度と言うな……」
そして、ほとんど祈るように付け加えた。
「少なくとも、来週までは……」




