第二幕『場当たり』①
朝九時。
アパートの前に軽トラックが滑り込んできた。
乾いたブレーキの鳴き。ドアを閉める無機質な金属音。
今の俺に平穏な日常の訪れは既に遥か彼方。
なにもかもが、断頭台へと続く階段を登る足音そのものに思える。
乱暴にドアが叩かれる。
「……っ」
心臓が喉元を突き破らんばかりに跳ねる。
「おはようございます。ガラス屋でーす」
その瞬間、未知流が「はーい!」と無垢で明るい声を上げる。
彼女は今どこにでもいる「不慣れな朝を迎えた可憐な少女」という役を、完璧に着こなしている。
清潔な白のフリル。上気した柔らかな頬。少しだけ眠たげな潤んだ瞳。
昨夜の怪物の面影はどこにもない。
彼女は春の蕾が弾けるような軽い足取りで玄関へ向かった。
作業着の男が二人、道具を抱えて狭い部屋に踏み込んでくる。
先頭を歩いていた年配の男の鼻が、不自然にピクリと動いた。
「……ん?」
業者の視線が畳を舐めるように動く。
そのたびに、俺の心臓が一拍遅れて跳ねた。
背中の押し入れには、袋の山が満員電車のように詰め込まれている。隙間から強力な消臭剤のシトラスと、逃れようのない鉄錆の匂いが鼻を刺す。俺は壁際に立ち、台本を握りしめる大根役者のように硬直していた。
掌には嫌な脂汗が滲む。呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ。
自分の心臓 of 音が壁を震わせていると錯覚するほどの緊張が走る。
――バレる。
血は拭き、消臭剤も撒いた。
それでも、この四畳半に沈殿している「死の残像」は、素人の隠蔽工作をあざ笑うほどに濃い。
この舞台セットは、あまりにも綻びが多すぎる。
「あー、お客さん。これまた……随分と濃い血の匂いがしますね」
業者の男が、隠そうともしない不審の念を込めて俺を射抜いた。
「どなたか、このガラスで大きな怪我でもされましたか? もしそうなら、消毒もしっかりしとかないと、この時期は化けますよ……」
喉が完全に癒着し、言葉を拒絶した。
言い訳を。日常に接続するための、まともな嘘を。
脳が悲鳴を上げるが、舌が動かない。
警察、通報、逮捕。
俺の人生は、ここで暗転し、幕を閉じる――。
「あ……あの、それは……」
震える声が漏れようとした、その時だった。
「……実は……」
絶望の淵で、隣にいた未知流が消え入るような声を漏らした。彼女は俯き、ブラウスの裾をぎゅっと握りしめて震えている。そして、上目遣いに、それでいて心臓の鼓動を狂わせるような絶妙な間隔で、俺をチラリと見た。
「昨日、ボクの……初体験、だったんです」
耳まで真っ赤に染め上げ、モジモジと身体を揺らす。
その表情、その仕草。
そこには「初めての夜を愛する男に捧げたばかりの、困惑と幸福の中にいる少女」以外の何者も存在していなかった。
「思ったよりも、その……血が出ちゃって。彼もびっくりして、慌てて窓を割っちゃったんです……ね?」
再び俺に向けられる、湿度を帯びた熱い視線。
業者の男たちは一瞬で顔を赤くし、気まずそうに視線を泳がせた。
「凄惨な事件」を疑っていた空気は、わずか一秒で「若いカップルの情事の後始末」という、これ以上なく卑俗で、誰もが納得せざるを得ない日常の色彩に塗り替えられた。
「あ、あー……。いや、そりゃあ……失礼なこと聞きました。すみませんね、変なこと聞いて。最近は物騒なんで、つい」
業者は苦笑いを浮かべ、そそくさと作業に取りかかった。
俺はその鮮やかな転換を、魂が抜けたように眺めていた。
その瞬間、俺は悟った。
十年かけて磨いた“演技”は、この怪物の呼吸一つにすら届かない。
業者の男たちの顔に浮かぶ、安っぽい同情と下卑た納得。
世界が彼女の吐く嘘という鋳型に合わせて、最も『最適な形』へと作り替わったのだ。
それから一時間も経たず、窓ガラスの交換は完了した。
業者のトラックが去り、アパートの前に日常の静寂が戻る。
新しく嵌め殺された透明なガラスは、何事もなかったかのように初夏の光を反射していた。
だが、そのすぐ隣。
襖一枚隔てただけの押し入れには、「地獄」が詰め込まれたままだ。
「……おい、それで、この袋はどうするんだよ」
俺は声を潜めて、未知流に詰め寄った。
「あぁ、それは……」
未知流が言いかけたところで、再び扉がノックされた。
コン、コン。
先程の業者とは違う、感情を削ぎ落としたような事務的な音。
「大丈夫だよ、きっとボクの知り合いだから」
未知流が鍵を開けると、そこには配達員の格好をした男が立っていた。
マッシュヘアの隙間から覗く目は、一切の感情を剥ぎ取られたように静かだ。
男は無言のまま、白い箱と大量の段ボールを抱えて入ってきた。足音は響かず、吐息すら聞こえない。
部屋に満ちる吐き気を催すような匂いにも、彼は眉ひとつ動かさない。彼の無表情は、人間というより“機能”と呼ぶものだった。
誰とも目を合わさず、段ボールを素早く組み立て、押し入れの黒い袋を淡々と詰め込む。
俺が必死に作り上げた“成果”が、ただの荷物として処理されている。
不快だ。
彼の無機質な背中が、背後に広がる底知れない組織の存在を語っている。
「これが日常、か……」
男が最後の箱を軽バンへ運び出した時、部屋には消臭剤の甘酸っぱい匂いと、押し入れの虚無だけが残った。
未知流が、男が置いていった白い箱から、鈍い光沢を放つ最新型のスマートフォンを取り出した。
「はい、出雲くん。これあげる」
「……スマホ?」
貧乏役者の俺には一生縁がないと思っていた高級モデルだ。
「あ、ちょっと待って。今、一番大事な設定するから」
俺が受け取ろうとした手を、未知流が「めっ」と制した。
彼女は鼻歌交じりに画面を操作し、インカメラに向かって首を傾けたり、ピースをしたりしながら何度かシャッターを切っている。
数秒後、満足げに頷いた彼女は、俺の右手を下からそっと掬い上げた。
端末を俺の掌に乗せると、それを上から両手で包み込み、ぎゅっと握らせた。
「はい、これ。……画面つけて♡」
促されるまま、恐る恐る画面を点灯させる。
次の瞬間、俺は息を呑んだ。
鮮やかなディスプレイに映し出されていたのは、悪戯っぽく笑う未知流の自撮り写真だった。ロック画面も、待ち受け画面も、彼女の顔、顔、顔。
「これで、いつでもどこでも可愛いボクが見れるね。……勝手に変えちゃ、やだよ?」
「あ、あぁ。わかった」
連絡先を開けば、一番上にひらがなで『ぼく』とだけ登録されている。
「ボクのお母さんもね、ボクの写真をいっぱい持ってたんだって。お姉ちゃんが言ってた。だから、出雲くんも持っててね」
顔を近づけた彼女が、内緒話でもするように俺の瞳を覗き込む。重なった彼女の手の熱がいつまでも引かない。
これは逃げ場を塞ぐための「首輪」だ。
画面に映る彼女の笑顔が、逃げ道を一つずつ塞いでいく。
自由はすべて奪われ、彼女と繋かる鎖が、不可解な高揚感と共に俺の掌に居座った。
『この世は牢獄だ』。デンマークの王子の嘆きが、現実の重みを持って俺の首に絡みつく。結局俺はこの美しい怪物、「未知流」という牢獄から、一生出られないのだ。
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「荷物」が運び出された四畳半には、嵐の後のような静寂が横たわっていた。
未知流は小さく伸びをして、俺の顔を覗き込んだ。
「ねえ、お風呂入りたいな。ボク、汚いままは嫌いなんだ」
「……風呂って言っても、残念ながら、ここは共同浴場しかないんだ。むさ苦しい男ばかりだし、君みたいな子がそんな場所に入ったら……その、危なっかしくて見てられないだろ」
無意識にこぼれた言葉に、自分でも驚く。昨夜の惨劇を思えば、彼女こそが誰より「危ない」存在なはずなのに。
未知流はあからさまに肩を落とし、頬を膨らませた。
「えー、ボク、汚いの嫌いなのに……」
その不満げな顔を見て、俺はつい「自分の聖域」を差し出していた。
「……駅の裏に、お気に入りの銭湯があるんだ。千秋楽の夜にご褒美で通ってた場所なんだけど。……あそこなら、君もゆっくりできると思う」
それを聞いた瞬間、未知流の瞳が宝石のように輝く。
「銭湯! わあ、いいな。ボク、大きなお風呂入ってみたかったんだぁ。ねえ、一緒に行こうよ、出雲くん!」
浮き足立つ彼女の後ろ姿を見ながら、俺はポケットの中で重いスマホを握りしめた。
それは、血の匂いを消し去るための芳香剤よりもずっと、不吉で甘い香りを放っている。




