第9話 ――別れの前夜
夜、雪はしんしんと降り積もっていたが、地面にはもう凍りつく力はなかった。
館の壁も、かすかに“きしむ”音を立てはじめていた。
冬が終わる。
ルイーゼはベッドの上で横になっていた。
額には薄く汗が浮かび、息は静かで、けれど脈が、淡く、ゆるやかだった。
ハンナおばちゃんが、アロイスの肩越しに言う。
「“溶け”が始まったね。春の気が、彼女の核を崩すのよ。……毎年のことだけど、あなたにとっては、初めてなんだろう?」
アロイスは、頷けなかった。
沈黙のまま、ルイーゼの冷たい指先を握る。
「死ぬわけじゃない。でも、次に“固まる”まで、長くかかることもある。……そのあいだ、声も、姿もなくなる」
「……彼女は、“人間”ではないんですね」
「この館の守り手。……冬の精の姫。私と似た存在。けれど彼女は、人を好きになってしまった」
アロイスの視線が揺れる。
ルイーゼの頬に、ひとすじ、雪のような透明な涙がこぼれていた。
「……それでも、俺は彼女を、春までに置いていかなきゃならない」
それが任務だった。
ルイーゼの正体は把握した。人類への脅威ではない。
報告を済ませ、戻り、次の命を受ける。
それが“トカゲ”――アロイスの役割だった。
でも。
「……レン?」
声がした。
ルイーゼが目を開けていた。
焦点は合っていないけれど、ちゃんと、アロイスの方を向いている。
「……Will you stay… till spring…?」
アロイスの心臓が、跳ねる。
それは、はじめて彼女が投げかけてきた言葉だった。
この館の中で、彼女のほうから。
「……ルイーゼ、君は“溶けて”しまう。俺がここにいても、どうにもできない。俺がいても、君は……」
「……でも、いてくれるの?」
それは、ただの問いかけだった。
拒絶でも、命令でもなく。
アロイスは、迷いなく、頷いた。
「……春が来るまで、ここにいる。何があっても、君のそばにいる」
その瞬間、ルイーゼの表情がふわりとほどける。
指先に残っていた冷気が、柔らかく、あたたかく変わっていった。