第7話 ――春の向こうにあるもの
夜、館の一室。アロイスは小さな革鞄から、報告用の符号文とエンコード用のルーレット盤を取り出した。
雪嵐の夜は、外界との通信に最適――そう“彼ら”が決めたのだ。
(……この館に、異常なし。対象・姫は健康。特異能力の兆候は不明。監視継続を推奨)
そう記すのが、任務上は“正解”だった。
けれど、アロイスの手は止まった。
ルイーゼは確かに、この世に在ってはいけないものだ。
精霊のごとき存在で、冬にしか“固まれず”、春になると消える。
そしてその魂が、ただの神秘ではなく、王たちが求める“予言”を告げる――
それが事実であれば、彼女は、どこかに献上される運命だった。
(そんなこと、させてたまるか)
アロイスは、用紙を破った。
そして別の紙を取り出す。
「報告:対象は幻想にすぎず、精霊に類する存在の記録なし。神託の伝承も確認されず。これ以上の調査は非効率。次の任務地を希望する」
淡々とした文字列の中に、かすかな反抗が込められている。
それを彼は“トカゲ”の名で封印し、小瓶に詰め、雪の中の指定位置へと放った。
――夜明け。
ルイーゼは、寝台の上で静かにこちらを見ていた。
「……行くの?」
「いや、行かない。今はまだ、冬だ」
彼女が、胸元の鳥のブローチをそっと握る。
「じゃあ……春まで、ここにいてくれるの?」
アロイスは、答えなかった。
けれどその沈黙は、「はい」と同義だった。
そして彼の心の中では、別の声が響いていた。
(……春が来たら、君は消えてしまうのに)
(春が来たら、俺は“トカゲ”として戻されるのに)
その夜、アロイスは久々に夢を見た。
誰かの手が、春の川に溶けていく。
それを掴もうとしても、指のあいだからこぼれていく――
館の雪は、まだ深く、静かだった。