第10話 ――春に、また会いましょう
雪が、音もなく溶けていく。
白い世界は水の気配を帯び、地面の色がじわじわと戻ってきた。
鳥たちはもう、羽を震わせて南へ去っていた。
ルイーゼは、いない。
ベッドの上には、うっすらと白い結晶のようなものが残されているだけ。
アロイスは、彼女のいた部屋で、しばらく動けなかった。
ハンナおばちゃんが、湯気の立つマグカップを手に、彼の肩に声をかける。
「彼女は“死んだ”わけじゃない。雪が溶けて水になるように、春になれば姿を失う。でも、また冬になれば……氷のように固まって、戻ってくるわ」
「……どうして、そんな世界に、君たちはいるんだ」
「この館が、そういう場所だから。冬にだけ現れ、冬にだけ生きて、春には溶けて消える……“境界の地”。あなたが来たのは、偶然じゃない。あなたが来たから、ルイーゼは“溶ける前に、言葉を交わせた”」
「……ハンナ。来年も、俺が来たら、彼女は――」
「覚えているかどうかは、分からない。でも、きっと……あなたの手を握った感触は、ほんの少し、指先に残ってる」
アロイスは立ち上がった。
雪解けの音が、靴音と重なる。
館の外は、もはや白ではない。水の匂いと、春の風が流れていた。
ルイーゼは、いない。
でも確かに、ここにいた。
この冬、彼女と過ごしたすべてが、アロイスの中に残っている。
「――また、来るよ」
誰に向けてともなく、呟いて、彼は森へと歩き出した。
館は、春とともに、ゆっくりと霧に包まれていく。
◇ ◇ ◇
――そして、1年後。
雪に閉ざされた北方の森に、ふたたび人影があった。
手には、いつもの古い鞄。
肩には、偽名のパス。
でも胸には、ひとつだけ、本当の名前。
その男は、そっと扉を叩いた。
ゆっくりと、軋む音を立てて、扉が開く。
中に立っていたのは、あの白い姫。
「……Will you stay, with me?」
今度は、“till spring”ではなかった。
“with me”。
アロイスの唇が、かすかにほころぶ。
「もちろんだよ、ルイーゼ。今度こそ、ずっと」