間話3 無用な来訪者
それからまた冬の始まり。
ここに来てから一年が経った。
ウザかったシエラ様はあれからかなり、なりをひそめている。
よほどキスが効果的だったらしい。
そして私達の関係は良好だ。
でも少しだけ、勿体ない事をしてしまった気がする。
悪戯でするようなものじゃなかった。
――――――ボォ〜〜〜ン
奇妙な音が鳴り響いた。
これはシエラ様が張った広域結界に、誰かが触れた時になる音。
来客が来たという知らせだ。
いつもはシエラ様が音を聞いて、結界の外まで確認しに行ってるけど、今の時期は冬なのでおそらくまだベッドの中である。
もう朝なのだから、早起きして欲しいとは思うけど、寒いのがかなり苦手らしいから仕方ない。
私が外に出て来客の人の様子を見に行くのは、禁止されているので、まずシエラ様を起こしに行く事にした。
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静かに眠る彼女の耳が、ふわふわと揺れている。
柔らかな毛並みが日の光を受けてほのかに輝き、吸い寄せられるように視線が固定された。
「お客様がおいでになっています。早く起きてください」
体を揺すりながら言った。
「…………あと1時間待たせておいて……」
「それは流石に遅すぎです……」
分かってはいたけど起きない。
でも大丈夫。
きっとあれをすれば起きてくれる。
「シエラ様。起きないと――キス、しちゃいますけど、よろしいですか?」
フサフサした耳に口を近づけて言った。
「…………うるさい……」
どうやらして良いらしい。
いつもは唇を肌に近づけるだけで、逃げてしまうからやらないけど、今は状況的にも仕方ない。
お客様を待たせているのだから。
……う〜ん。でもやっぱり2回目のキスを、寝ている主の唇にするのも何か違う。
どうしようかな……
思案しながら、私は一つしかない獣耳にそっと手を伸ばした。
毛並みの温かさと柔らかさが指先に伝わると、自分の胸がわずかに高鳴るのを感じる。
だけど、それだけでは足りない。
悪戯心が頭をもたげ、唇をシエラ様の耳へと近づけた。
「はむっ」
やってしまった……
口いっぱいに広がるふわふわの毛の感触。
その瞬間、シエラ様の耳が私の口の中で、ぴくりと動いた。
小さな動きに息を呑むが、彼女はそのまま規則的な寝息を立て続けている。
「まふぁおふぃないふもりですか?」
――――――ボォ〜〜〜ン
――――――ボォ〜〜〜ン
――――――ボォ〜〜〜ン
お客様が痺れを切らしているようだ。
いつもとは違い、連続で音が鳴っている。
しょうがないので次は、耳に口を当てたままそっと噛むように力を込めた。
微かな弾力と温もりが心地よく、ついもう少し触れていたくなる。
「ひっ――な、何?!」
が、その願いは叶わず。
シエラ様は飛び起きてしまい、口の中から耳がスルっと抜けてしまった。
「ふぃ、フィオネ。何してるの……?」
すっかり顔が赤くなってしまった、うぶすぎるご主人様。
「お客様がお見えになっていますよ。すぐに着替えて下さい」
私は弁明もせず、笑顔でそう返した。
許可はもらったし、寝ていたシエラ様が悪いので、何も言うことは無い。
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準備を早々に終わらせて玄関前。
「帰ってきたらお仕置きするから!覚悟しておいて!」
怒鳴るシエラ様。
だけど目は合わせてくれない。
「はい。次は跡が消えないように、強く首を絞めてください」
笑顔で返事をすると扉を思いっきり閉め、急いで飛び出てしまった。
あんな赤い顔で、人と会って大丈夫だろうか?
まぁ、寝坊した主が悪い。
「あっ、ご飯を作らないと……」
シエラ様は起きたばかりだから、きっとお腹が空いている。
そう思い、ここから離れようと歩き出した瞬間。
――カランッカランッ!
玄関から扉の開く音がした。
帰ってくるのがあまりに早い。
何か忘れ物でもしたのだろうか?
全く、おっちょこちょいなご主人様だ。
「シエラ様。早く行かないとお客様が――」
そう言いながら後ろをゆっくり振り向くと、立っていたのは別の人物。
「はぁ……まさか本当に小動物を飼っていたとはな。とうとう寂しさに限界を覚えたか」
銀髪、金眼の女性が付いた雪を払いながら、とても不機嫌そうに、この家の中へあがりこんできた。
それも一人で。
初めてのケースだ。
「あの、貴女は……?」
私は一歩後退りながら質問をする。
シエラ様と入れ違いでここに来た?
いや、今までそんな状況になった事はない。
まず家の中を出入りしてるのは、ここ一年を通して私達二人しかいないはず……
もしかしてこれ、とてもまずい事態なのでは?
銀髪の女性は怠そうに一息吐いて、ゆっくりと口を開いた。
「それにしても綺麗になったな、ここも。お前が……ん?――」
女性は途中で言葉を切り、一瞬、何故か唖然とした顔になった直後、突然、目の前から姿が消えた。
私が疑問に思う間もなく、喉に冷たい圧力がかかる。
「なんだお前、よく見たら人間族か」
苦しさと同時に、背中が壁に押し付けられる衝撃が走った。
「くる……しい…………はな……して……」
「知っているか? 人間族は妾に反論なんて出来ないんだ」
なんでいきなり初めて会った人に、こんな事をされているんだろう。
それに首を絞めているこの人の方が、辛そうに見える。
第一印象でしかないけど、とても悪人のようには見えない……
私は人から恨まれるような事をした覚えがないから、余計にわけが分からない。
「何故シエラと一緒に暮らしている?何が目的だ?――いや、喋らなくて良い。勿体無いがこのまま記憶を覗いた後、処分する」
……喉が締め付けられる痛みと、呼吸が出来ない辛さで、頭の中がじんじんと痺れ。意識が薄れていく。
「しえらさま……たす………け…」
声にならない声が喉の奥で消える。
手足が言うことを聞かない。
死を間際にして、ほとんど反射で名前を呼んでいた。
思えばさっき、シエラ様を怒らせてしまったばかり。
あんな事を言った後で、ご主人様に助けを乞うのは、あまりに図々しすぎるかもしれない。
馬鹿な返事なんかしないで、ちゃんと謝れば……良かった。
目の前がぼんやり白く霞む中、遠くで、何か大きな音が響いた気がした。
重い衝撃音と、足音――誰かが来る?それとも幻聴?
その瞬間、扉が爆発するように壊れる音がして、冷たい空気が一気に流れ込んできた。
「ゼレシァァアア!お前!!何をしている!!!」
ぼんやりした視界の中に現れたのは、鋭い瞳と一つしかない獣耳――シエラ様だった。
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低い唸り声が聞こえた。
まるで野生の獣のような気迫が、部屋全体を支配しているのが分かった。
シエラ様がこちらを見ている。
「……あっ、ぁぁ……」
向けられた冷たい視線。
獲物を狙うその眼光に私は思わず、村での出来事を思い出してしまい、一瞬だけ眼を背けてしまった。
「フィオネ…………ッ!……」
「ん? あぁ、なるほど。記憶を読んで理解した。シエラ、お前――」
「うるさい黙って!なんでお前がここにいる!!何しに来た!!」
この威圧感を前にしても、ゼレシアと呼ばれた女性は顔色一つ変えていない。
「何でだと? 妾は再三、使いの者を送ったはずだ。もちろん要件は何一つ変わっていない」
掴む手の力が緩み、私は咳き込みながらもすぐに息を吸った。
手は離してくれたけど、魔力を纏っている手刀を、首元に当てられている。
逃げることは許されていない。
「魔物との戦争に参加するつもりは無いって、何度も言った!今もそう……だから分かったら早く、フィオネを……私に渡せ……!」
今のシエラ様の言葉で、ゼレシア様と呼ばれた女性の雰囲気が変わった。
「馬鹿さ加減は、相変わらず変わってないらしいな! 戦争だと……?いや違う。これは世界を守るための戦いだ!!」
声が荒々しく、疲れきった顔。
我慢の限界だというのが、顔色から見て取れる。
何か私の預かり知らない内容で、2人は言い争っているようだ。
とても口を挟める状況じゃない。
黙って話を聞くことにした。
「それをなんだお前は!召喚にも応じず、忙しい中妾が直々に様子を見に来てみれば、なんだこれは!?随分と楽しそうじゃないか、あぁ!!?」
「それでも……私には、関係ない」
シエラ様は一向に頷かない。
その様子を見て呆れたのか、ゼレシア様は体の力を抜いたように見える。
「まだ気づいてないのか阿保が。この人間族の故郷を滅ぼしたのも、その魔物の軍勢だ」
「…………」
私には全く理解出来ないスケールの話を、この人達はしている。
魔物がどうとか、世界の終わりがなんだとか。
そして私がその戦いの被害者という話まで。
それで戦力だったはずのシエラ様が来ないから、わざわざこの人が森の中まで呼びに来たという。
「そこから動くなよシエラ。妾についてくるならこの人間族は解放するが、そうでなければここで殺して、無理矢理にでもお前を連れていく」
「……フィオネを殺したら、例え刺し違えてでも、お前を殺す」
「育ての親に向かって「殺す」とまで言い切るとはな」
多分、私がこの家にいるから、うちのご主人様は動こうとしないんだと思う。
それで多くの人が被害に遭っている。
救えるはずの命があったはずなのに。
ただ1人、自分だけは守られ、ここでのうのうと暮らしている間にも、大勢の人が昔の私のような目に遭っているという話。
何も知らなかったとはいえ、とても……とても最低だ。
この世界で私と真剣に向き合ってくれた優しいお母さんは、きっとそれを良しとしない。
「……世界の滅びが、例えシエラにとってどうでも良いことでも、そこで膝を付いているか弱い女は、どうやら違うらしい」
魔力が纏われた手が離れていく。
もう必要ないと判断されたようだ。
「……ゼレシア様、と言いましたよね?」
「あぁ」
「すみません。少しだけ時間をください。シエラ様とお話がしたいんです」
「……良いだろう」
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ゼレシア様はその後、すぐに立ち去ってしまった。
この場から消えたということは、残り数日ほど猶予をくれるということ……だと思いたい。
そしてシエラ様は……
「シエラ様、昼食をお持ちしました。部屋の中に入っても――」
「駄目……来ないで……」
鍵は掛かってないけど、そう言われたら入ることは出来ない。
シエラ様はあの後すぐに寝室へ行き、部屋に篭ったまま出てこなくなってしまった。
原因は私。
あの時、助けに来てくれたシエラ様を、一瞬……それも反射的とはいえ、恐れてしまった。
「……部屋の前に置いておきます。また夜に来ますので……」
深く考えずに会おうとしてしまったけど、今、顔を合わせたら、また勝手に体が反応して、シエラ様を落ち込ませてしまうかもしれない。
ゼレシア様はシエラ様が来なければ、私を殺して無理矢理連れて行くと言っていた。
シエラ様の様子だと、戦っても勝ち目が薄いのだと思う。
なのでどちらにせよ一度、お別れしなければいけないのは確定しているのだ。
どれだけの期間、ここを離れるのか分からないけど、こんな別れ方じゃいけない。
だからそれまでに、自分の気持ちに整理を付けて覚悟を決める。
私は窓の外を眺め、仕事をしながら、空がゆっくりと暗くなるのを待った。
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空が赤く染まり、陽が西の地平線に近づく。
まだ完全には落ちきっていないけれど、その明かりが薄らいでいるのを感じる。
寝室の前に置かれた昼食に、手が付けられた様子は無い。
お腹が空いているはずなのに……これはそれほどまでに傷つけてしまったということだ。
仲が良くなったのに、いまだ魔物と同様に見られている……私にはそんな経験をしたことは無いけど、イメージは出来る。
それはきっと、とても寂しく、やるせなく、自分ではどうしようもない無力感に苛まれる……と、私は思う。
だからこっちから、歩み寄らなければいけない。
「シエラ様。中に入らせてもらいますね」
「…………来ないで……」
部屋に鍵は掛かっていない。
私は一度深呼吸をして、扉の取っ手に手をかけた。
「いえ、入ります」




