箱根湯本の芸者さん 3
湯本芸者の稽古見学会は、月に一、二回のペースで無料開催しているという。会場の『湯本見番』はつむぎからもほど近く、蘭も何度か前を通ったことがあった。
「見番ってのは、要するに組合さんの事務所だな。花柳界には置屋さんたちの組合があって、そこがお座敷への派遣窓口や地域のまとめ役を務めてるんだ。馴染みのお客さんとかになると、置屋さんや芸者さんに直接連絡する人もいるみたいだけど」
「なるほど」
見番に向かう道すがら、蘭は隣を歩くおじいさんからの説明に何度も頷いた。白髪を刈り込んだ坊主頭に陽焼けした肌という、いかにも気っ風の良さそうな風貌。人力車夫のケンさんである。二人の後ろでは可憐が、学校が休みの智とやはり楽しそうにお喋りしていて、さらにその後方からは皆を見守るように正ものんびりと付いてくる。
週末なので表通りの国道は混雑気味だが、蘭たちが進む早川沿いの裏通りは人もまばらだった。野良だろうか、河原に続く階段を、キジトラ柄の猫が悠々と降りていく姿も見える。
桃絵にクチナシ柄の着物をレンタルした翌日、可憐に智、さらには店の前で会った卓也とケンさんにも正が事情を話した結果、なぜか全員が興味を示し、デートどころかこうして五人もの大所帯で稽古見学会を訪れることになったのだった。
相変わらず商売っ気のない正は、「見学会はいつも三十分くらいですから、店はちょっとだけ閉めておけば大丈夫です」と、何が大丈夫なのかよくわからない理由を述べ、本当に《ただいま準備中》というプレートを入り口にかけて、つむぎを一時閉店にしてしまった。卓也だけは不在だが、こちらは単に仕事を休めなかったためである。というか、真っ当な社会人としてはむしろそれが普通だろう。
――芦ノ湖の『箱根駅伝ミュージアム』で取材が入ってるんだ。さすがに今からキャンセルはできないしな。桃絵さんたちによろしく。
と、彼は残念そうにしていた。
蘭の横で、ケンさんが上機嫌に口を動かし続ける。
「湯本の組合はそのまんま、『箱根湯本お座敷組合』って名前でね。置屋さんは全部で三十一、所属してる芸者さん、きらり妓さんは合わせて二百人弱くらいだったはずだ」
「そんなにいらっしゃるんですか?」
「見番が建ってからだけでも、七十年の歴史があるからな。もっとも昔は置屋さんも芸者衆もさらに数が多かったっていうから、組合さんからすればむしろ、かなり減っちまったって感じだそうだよ」
「へえ」
普段から人力車の利用客に話しているのかもしれない。ケンさんの口調は淀みなく、そして何より楽しそうだ。この人も箱根が好きなんだなあ、と蘭は微笑ましく、またちょっぴり羨ましくも感じた。六十歳になるというのに現役バリバリで湯本の人力車夫を務めていることからも、ケンさんの地元愛がよくわかる。なんでも若い頃は陸上選手だったそうで、「世が世ならモスクワオリンピックに出て、ポールに日の丸を掲げてたんだぞ」とは本人の弁である。
「芸者さんとも遊んでみたいし、ケンさんの人力車にも今度乗ってみたいです。あ、お金が貯まったら智君のおうちにも止まらなきゃ」
蘭の声も自然と明るくなる。まだ働き始めたばかりだが、この街で体験したいことがすでに沢山増えた。仕事も前向きな気持ちで取り組めているし、もちろん今日の公開稽古も楽しみだ。役場時代からは想像もできないほど充実した毎日には、たまに自分でも驚いたりする。
「蘭ちゃんならいつでも大歓迎だ。なんなら、大涌谷にだって連れてってやるぞ」
「あはは。ケンさんだったら行けちゃいそうですね」
十キロ以上離れた、しかもロープウェイで登るほど高い場所はさすがに無理だろうと苦笑しつつも、蘭は近いうち本当に彼の人力車を予約しようと思った。
その後、十分と歩かずに一行は湯本見番の前に到着した。
国道と裏通りのちょうど真ん中あたり、住宅街の一角にたたずむ民宿のような建物が湯本見番である。外に設置された竹製の蛇口や、一階の屋根にずらりと並ぶ置屋の名前入り提灯などが、いかにもな風情を醸し出している。
「おお、結構混んでるな。休日だもんな」
なかに目をやったケンさんが、嬉しそうに頷く。
蘭は閉まっている状態しか知らなかったが、道路に面した一階の格子戸が今日は開け放たれ、畳敷きの長椅子に座る沢山の人々が見えた。その奥が舞台で、箱根らしい寄木細工調の背面パネルが美しい。稽古場らしからぬと言っては失礼だが、なんだかお洒落な空間だった。
「こんなふうになってるんですね」
はじめて見る見番の内側を蘭が興味津々で見つめていると、追いついた正が、やはり顔をほころばせながら教えてくれた。
「何年か前に、テレビのバラエティ番組で建物をリフォームしてもらったんですよ」
「あ! 衝撃なんとか、ですか?」
名前こそよく覚えていないが、蘭もそうした番組があることは知っている。だが、身近な建物が対象になっていたとは。
「ええ。オーダー通り外の形はほとんど変えず、こうして中身だけ綺麗にリニューアルしてくれたって、組合の方たちも喜んでました。もちろん観光客の人たちにも好評です」
「でしょうね。外もなかも凄く素敵です。箱根っぽいし、綺麗な芸者さんたちにぴったりって感じがします」
箱根っぽい、と言ったところで正の笑みがさらに深くなった。彼も同じように思っているのかもしれない。
「あそこはまだ空いてるみたいですね。僕らもゆっくり、桃絵さんの踊りを見せてもらいましょう」
正に促され、一行は手近な二つの長椅子に前後して腰かけた。会話していた流れで、蘭はそのまま正の隣だ。ほどなく、こちらから見て右手奥の舞台袖から着物姿の女性が合わせて十人、しずしずと現われた。
小さな溜め息が客席からいくつも上がる。
彼女たちの立ち姿や歩き方は、それだけでじゅうぶん絵になるものだった。全員が手にした扇子の持ち方でさえ、指先一つ一つに神経が行き届いているのがわかる。蘭の耳に、斜め前に座る外国人女性が漏らした「Beautiful....」という言葉が聞こえた。
先頭を歩いてきた年配の女性――おそらく踊りの師匠だろう――がこちらを向いてお辞儀をすると、その後ろで綺麗な二列のフォーメーションを取った芸者衆も、見事に揃った動きで頭を下げる。
わあ!
彼女たちの美しい動きに、蘭も内心で歓声を上げた。稽古というよりちょっとした舞台公演みたいだし、無料というのが申し訳ないくらいだ。正を挟んで向こう側に座る智などは、瞬きするのも惜しいという表情で目を輝かせている。
お目当ての桃絵はあのクチナシ柄の着物と、そして例の根付けを揃って身に着けて、前列の向かって左端に立っていた。こちらを見て、「あら」といった顔で少しだけ微笑んでくれたのが嬉しい。
桃絵さん、やっぱり綺麗だなあ。
「桃絵さんの右側にいるのが、喜代乃さんです」
蘭の視線を追った正が、小声で教えてくれた。桃絵と並ぶ人気芸者だという喜代乃は、やや長身でくっきりした目鼻立ちの、まったくタイプの違う美女だった。和風美人の桃絵とは対照的なので、外国人などに人気がありそうな印象を受ける。
他の芸者衆も含めて蘭がますます舞台上に見とれていると、「本日は公開稽古にお越しいただき、誠にありがとうございます。まだまだ拙い芸ではございますが、どうぞ温かい目でご覧ください」と師匠が挨拶して、すぐに稽古が始まった。
さすがに三味線の音や歌声は録音だが、唄に合わせた流れるような所作で、九人の芸者たちが踊り出す。
蘭にとって意外だったのは、唄のテンポが思ったよりも速く、そして歌詞も聴き取りやすかったことだ。芸者さんが踊る長唄や端唄、民謡といったものにはどうしても、スローテンポなうえ、言葉の意味がわかりづらいというイメージがあった。けれども目の前で繰り広げられる群舞はまるでダンスのような軽快さだし、野菜の茄子と南瓜が喧嘩しているというコミカルな歌詞もすんなり聞き取れる。
「アイドルみたい」
舞台上の彼女たちを笑顔で眺めるなか、無意識のうちにそんな言葉が漏れたほどである。
唄が終わり、師匠が数人にてきぱきと注意を伝えていく。芸者の側も真剣にアドバイスを聞き、教わったポイントをすぐに実演してみせる引き締まった雰囲気は、それこそアイドルやダンサーなど変わらない、まさに芸能のプロの稽古風景だった。
「ただいまご覧いただいたのは、『茄子と南瓜』という端唄です。そのまんまの曲名ですね」
ふたたび曲を通して踊ったあと、振り向いた師匠が笑って客席への説明もしてくれた。無料の公開稽古ではあるが、見番を訪れたお客さんをもてなそうというホスピタリティを忘れないのも、さすがと言うしかない。
「続いては箱根のご当地ソング、『へっちょい節』です」
二曲目に入った。今度は完全に民謡調の前奏で、広げた扇子を使った、先ほどよりたおやかな振り付けが始まる。
蘭がすぐに目を奪われたのは、桃絵の踊りだった。立ち位置こそ一番端だが、傾けた首の角度やほんのりと上気した頬に、素人でもわかる上品な色香が匂い立つ。お客さんたちの目も、自然と彼女に集まっている感じだ。
《遇ふ瀬の湯本》
まさに逢瀬を果たすかのように、何かを見つめる視線。
《しのび寄り添ひ 岩に寄り添ひ》
結ばれているかのような正確さで、柔らかく波打つ二つの腕。
桃絵さん、なんだか――。
恋してる人みたい、と胸の内で続けようとしたタイミングで、誰かのつぶやきが耳に入った。
「桃絵……」
はっと声の方向を見ると、壁際の目立たない場所に男性が一人立っていた。顔の彫りが深い外国人俳優みたいな二枚目だが、格好は自分や正と同じ作務衣姿だ。着こなしも様になっているので、見番の関係者だろうか。
あっ!
同時に蘭は気がついた。彼のお腹のあたりに何かが見える。黒一色の作務衣のなかで揺れる、ささやかな緑色と紫色。
桃絵のものと、まったく同じ根付けだった。
《箱根湯の山 湯の煙》
唄に合わせて振り返った桃絵と、男性の視線が交錯する。一瞬だけ、ともに恥じらうようにしてほころぶ二人の口元。
あの人、ひょっとして――。
蘭もまた微笑を浮かべたタイミングで、前の列に座るケンさんが身体を捻り、正にささやいた。
「どうやら、収まるべきところに収まったみたいだな」
「ええ。良かったですね、二人とも」
正の返事に合わせて、可憐と智もこちらに顔を向けてくる。
「桃絵姐さん、真面目だからねえ」
「でも、やっぱりお似合いですね。孝典さんも格好いいし」
小声で語る皆が蘭と同じように、いや、それ以上に明るく微笑んでいる。
つまり「孝典さん」なる作務衣の男性は、桃絵の恋人なのだろう。しかも二人の仕草やケンさんたちの台詞から推測するに、付き合い始めたばかりなのかもしれない。
「桃絵ちゃんは相変わらずヘッチョイ節が上手だけど、今日は一段と艶っぽくて素敵ね。何かいいことあった?」
「い、いえ、別に……」
曲が終わり、いたずらっぽく師匠に問われた桃絵が、踊っている最中よりも顔を赤くして首を振る。
「大丈夫ですよ、先生。私たち湯本のアイドルも、表向きは恋愛禁止ですから。ね、モモちゃん」
「キヨちゃん!」
耳まで朱に染めて友人を睨む桃絵の表情は、けれどもこのうえなく美しかった。
そんな彼女に笑みを深くした正が、蘭に告げる。
「だから桃絵さんは、クチナシ柄の着物を選んだんです」