箱根湯本のイケメン 2
自身が店長だと語った店『つむぎ』へと蘭を案内する途中で、イケメンは作務衣の胸ポケットから名刺を取り出し、きちんと両手で渡してきた。表面にさり気なく模様があしらわれた上品な紙には、店舗の住所と電話番号、メールアドレスの上に、
《店長 保志野正》
とたしかに記してある。
「店自体も僕が自分で開いてるんですけど、オーナーとか代表とか書くのはなんか恥ずかしくて。こんな若造ですし、そもそもが小さな商売ですから」
照れくさそうに語るので、「失礼ですけど、保志野さんておいくつなんですか?」とあらためて蘭が確認したところ、なんと正は二十九歳だという。
「たまに、学生のバイトに間違われますけどね」
苦笑して頭に手をやる姿は、やや童顔なのも相まって、実際二十代前半くらいにしか見えない。ちなみに写真撮影を手伝っていたのは、「ハチリンとは友達ですし、ちょうど暇だったので」という、いたってお気楽な理由からだった。
「年上だったんだ……」
なかば呆然と蘭がつぶやいたところで、店の前に着いた。奥行きはある感じだが、間口自体は十メートルもない三階建てのビルで、近くで見ると本当に細長い形をしている。一階部分が呉服店らしく、ドアの一部、ガラス張りになった箇所からマネキンに着せた振り袖や、男性用の紋服が少しだけ窺えた。やや奥の方に置いてあるのは、直射日光を避けるためかもしれない。
「レンタル着物は二階です。というか、一階はお問い合わせがあったときだけの対応で、メインの商売はこっちなんですよ」
華やかな着物に目を奪われかけていた蘭は、正の声に顔を戻した。向かって左側の、階段室と思しき場所に彼が入っていく。アルミサッシ製の引き戸に《2F レンタル着物 つむぎ》と、こちらは木彫りの看板と違ってわかりやすいゴシック体のプレートがついており、その下には複数の女性モデルが笑顔で商品を着たポスターも貼ってあった。
あ。
モデルのなかにエレガントな外国人の姿も発見した蘭は、だが、またもや俯いてしまった。胸の奥でつぶやきが漏れる。
いいなあ。
左右の日本人モデルより頭一つ大きい彼女は、それでも着物姿がよく似合っていた。プロのモデルさんだから当然だし、白い肌や金色の髪が果たす役割もあるだろう。けれども、まったく羨ましくないと言えば嘘になる。中途半端に背が高い日本人女性の自分は、きっとこんなふうに美しく和服を着こなせない。成人式にはスーツで出席したし、結婚式に呼ばれる際ももちろん洋装ばかり。靴だって、相手を見下ろしてしまわないよう、できるだけヒールが低いものを選ぶのが常だ。
でも……。
本当は私だって、華やかな振り袖や浴衣を着てみたい。身長やルックスを気にせず、格好いい男性と手を繋いで歩いてみたい。
決して口にしたことのない、蘭のささやかな夢なのだった。
「階段、大丈夫ですか? ええっと――」
まさか心を読んだわけではないだろうが、サッシ戸をくぐったところで、振り向いた正が右手を差し出してきた。一瞬だけどきりとさせられた蘭だが、よく考えれば単に足下を気遣ってくれただけである。嫌みなく「美人」や「素敵」などと伝えてくるし、マイペースなキャラクターの一方で、フェミニストな面も持ち合わせているらしい。
「大丈夫です。ありがとうございます」
気を取り直して微笑むと同時に、彼が何を言い淀んだのかも理解した。
「あの、お伝えしそびれちゃってすみません。私、明海といいます」
「アケミさん、ですか」
「はい。明海蘭です。明るい海の明海に、花の蘭です」
「へえ。お名前まで綺麗なんですね」
「あ、ありがとう、ございます」
変なところでつかえたうえに、今度は明確に頬のあたりが熱くなる。天然フェミニスト、おそるべし。
そうこうしながら、正に続いて階段を上りきった瞬間。
「わあ……!」
どぎまぎしたばかりなのも忘れて、蘭は感嘆の声を漏らした。
踊り場の脇、開け放ったドアの向こう側に溢れる、美しい色と柄の数々。赤、青、橙、黄色、萌葱色に浅黄色。桜、朝顔、紅葉、椿――。一階にも綺麗なものがちらりと見えたが、あれを遙かに上回る何十着もの着物が、自分を出迎えるようにずらりと並んでいた。
「凄い!」
凹んだり動揺したりと忙しかった表情が、一気に明るくなる。まるで万華鏡の世界だ。自分の身長があと十センチ、いや、せめて五センチ低かったら全部着てみたいとすら思う。
「蘭さん」
浮き立つ声に応えて、店の玄関で正がくるりと振り返る。もはや見慣れた笑顔で。
「ようこそ、つむぎへ」
「あ、はい!」
目を輝かせたまま、蘭も元気に会釈した。
いきなり下の名前で呼ばれたことも、まったく気にならなかった。
脇にある受付カウンターの前でスリッパに履き替えた二人は、正の案内で奥から順に部屋のなかを見て回った。当然だが着物はすべてレンタル用で、いくつかのハンガーラックごとに種類で分けられている。それぞれのラックにはどんな着物かを記した印字テープも貼ってあるので、和服の知識など皆無に等しい蘭にもわかりやすい。
パーティや披露宴といった場にこそ相応しい感じの、華やかな《訪問着》。同じく格調高い、けれどもよりシックな《色無地》。街着でよく見かけるシンプルな柄の着物は《小紋》。仲居さんが着るような上下に分かれた《二部式》着物は、そうしたコスプレの希望者向けだろうか。
もちろん男性用の着物も用意されており、合計で十以上並ぶラックの奥には二ヶ所、パーテーションで仕切られた更衣スペースもきちんと設置してあった。壁際にしつらえた棚には、それぞれの着物とマッチするやはり色とりどりの帯と帯締め、草履、巾着といった小物も揃っている。
綺麗……。
ほころんだ顔のまま、ぽかんと口を開けて周囲を眺めていた蘭だが、ラックの一つが店の名前と同じことを発見した。
「《紬》?」
声に反応した正が「ああ、はい」と、そのラックに触れて笑顔で振り返る。
「紬というのは文字通り、真綿から作られる紬糸でできた着物です。基本的に先染め、つまり糸の段階であらかじめ色を付けてから織り上げるので色落ちしにくいですし、絹と木綿の中間みたいな生地というのもあって、普段着からちょっとした外出にまで使える服として、昔から日本人に愛されてきました。奄美大島の大島紬や米沢市の米沢紬、あとは結城紬も有名ですね」
「あ! 結城紬は聞いたことあります」
以前見た、何かのドキュメンタリー番組を蘭は思いだした。たしか茨城県の結城市や、その周辺地域が誇る名産品だったはずだ。
「大島紬や結城紬は、高級品としても知られていますからね。どちらも百万円を超える反物もめずらしくないですよ」
「えっ!? でも普段着用なんですよね?」
「ええ。それだけの技術と手間暇をかけて織られてるってことです。最高級の結城紬は、国の重要無形文化財にもなっているほどですから。さすがにうちでは、そのレベルの商品は取り扱ってませんけど」
目を見開く蘭を安心させるように、正が笑みを深くした。ご機嫌な表情のまま、さらに続ける。
「普段着にしか使えないけど絹みたいにも見えるし、いいものは凄くいい。そうしたさり気ないお洒落ができるので、紬はどんな方にもお勧めです。歌舞伎役者さんや噺家さんなんかも、紬をとても粋に着こなしてらっしゃいますよ。僕も大好きで、年も近い噺家の桜家八八さんとかを参考にしています。あとは、二代目の竹川紅鷲さんも好きだなあ。年齢を重ねてもあの人みたいに、明るい色を上手に使ってみたいと――」
「は、はあ」
紬についてはよくわかったものの、蘭は上半身を軽くのけぞらせる羽目になった。いつの間にか彼の顔が近い。商売にしているだけあって、どうやらこのイケメンはかなりの着物好き、というか着物が似合う人が好きなようだ。
「ああ、すみません、つい夢中で語っちゃいました」
困惑気味のリアクションに、向こうもようやく気付いてくれた。軽く頭を下げてから、「蘭さんに新商品をモニターしてもらうんでしたよね」と、軽やかに別のラックへ歩み寄る。
そうだった、と蘭もここに連れてこられた理由を今さらながら思い出した。新作のモニターを探してるとかなんとか、たしかに言っていたっけ。
「あった、これこれ」
正が近寄ったのは、出入り口から一番近い位置に置かれた《薄物①》というラックである。実際に薄手の着物や浴衣などがずらりとかかっており、この季節のメイン商品だというのがわかる。
「こちらの着物を蘭さんにモニターしていただきたいんです。簡単に着られるクイックタイプに直してありますから、着付けとかも心配しなくていいですよ」
「わあ!」
取り上げられたハンガーを見て、蘭は店に入ってきたときと同じく歓声を上げた。
淡いクリーム色の地に、パステルカラーのピンクやブルー、グリーンを組み合わせたスクウェア模様が一面にあしらわれたその着物は、落ち着いたなかにも軽やかさを感じるとてもお洒落な一着だった。自分の好みともぴったりだ。
「今はもう生産されてない、『民芸ポーラ絣』っていうサマーウールと絹の混合生地でできています。薄手でさらっとしてるので、まさにこの時期の着物ですね。柄も素敵だし、蘭さんみたいにスタイルが良くて綺麗な人が着てくれたら特に映えるだろうと思って、業者に出して丈も直してみたんです」
ふたたび天然フェミニスト発言が飛び出したものの、幸い(?)着物に目を奪われていた蘭は動揺することもなかった。
「これ、本当に私が着ちゃっていいんですか?」
「ええ。むしろ蘭さんに着て欲しいんです。きっと似合うはずですから」
「ありがとうございます!」
両手を胸の前で合わせたものの、はっと蘭は我に返った。
「あ」
何かに流されるようにして、笑みが消えていく。
けど、私なんかには……。
華やかな着物に囲まれてすっかり忘れていた、例のコンプレックスが甦ってくる。日本人女性なのに百七十センチの長身。外見も中身も「大和撫子」とはほど遠い、相手が一歩引いてしまうようなキャラクター。正はああ言ってくれたが、それは店の人間としてのリップサービスだろう。ただでさえフェミニストな面があるっぽい人なのだ。
でかくて可愛くないこんな女に着られたら、逆に着物が泣いちゃうよね……。
ましてや今はもう作られていないという生地の、本当に素敵な一着である。自分などよりよっぽど魅力的な、この着物に相応しい女性にこそ、モニターしてもらうべきなのではないか。
本音を言えばもちろん着てみたい。けど。
二度目の「けど」と合わせて唇を噛んだところで、背後から透き通った声が聞こえた。
「あれ? 正さん、ポスターの撮影とかありましたっけ?」
振り返った蘭は、その人を見るやいなや目を見開いてしまった。
「え!?」
現われたのは、正の作務衣によく似たパンツルックの着物を着た女性である。年齢は二十代前半くらいだろうか。開けっぱなしのドアの向こう、三階へ続く階段から下りてきたようだ。だが。
声と全然違う!
率直な感想が口から飛び出そうになって、蘭は顔の下半分をあわてて手で覆った。
そう思ったのも当然で、パンツルックの女性は見事なまでに太っているのだった。胸とウエストが同サイズ、いや、ウエストの方が太いくらいで、上半身も肩と頭が直接繋がって見える。つまり首がほとんどない。にもかかわらずピンク色の二部式着物が妙に似合っており、若いにもかかわらずベテランの仲居さんめいた印象も受ける。
「ごめんなさいね。〝声だけアイドル〟で」
自覚があるのか、みずからそんなことを言って笑った女性は蘭にも尋ねてきた。
「お一人ですか? マネージャーさんとかは?」
「は?」
意味がわからずぽかんとすると、彼女は周囲をきょろきょろ見回したあと、「あらやだ」と勝手に納得して軽く肩をすくめている。そうするとますます首が埋もれるが、よく見ると一重のアイラインも眉も綺麗に描かれており、顔のパーツ自体はなかなか美しい。
「失礼しました。モデルさんじゃなかったのね。そうよね、カメラさんもスタッフさんもいないし」
そこでようやく正が、自分に負けず劣らずマイペースな感じの彼女に呼びかけた。
「この方はモニターさんだよ、カレンさん。まあたしかに、モデルみたいに綺麗だけどね」
「ああ、モニターさん? 来てくれたんだ? ふーん」
なぜか棒読み気味に答えた「カレンさん」は、何かを探るような目を一瞬だけ正に向けてから、あらためて蘭に向き直った。
「ごめんなさい、早とちりしちゃって。当店の従業員で、着付けやヘアセットのお手伝いをしている安条可憐です。ようこそ、つむぎへ」
「ど、どうも。明海蘭です」
まだ若干の戸惑いを覚えつつ、蘭も会釈を返す。
「可憐さんは、湯本の『きらり妓』でもあるんですよ」
「きらり妓?」
正の言葉に首を傾げると、本人が教えてくれた。
「キャリアの浅い若手芸者のことよ。京都で言う舞妓さんね」
「へえ」
だから和服が様になっているしメイクも上手なのか、と納得した蘭に、可憐はまたもけろりと笑ってみせる。
「日中のお稽古がない時間や、お座敷が入ってない夕方くらいまで、こうしてつむぎで働かせてもらってるの。あ、でも夜はお茶引いてばっかりじゃないのよ。こう見えて、ご贔屓さんもちょいちょい付いてくださってるんだから。特に外国人の常連さんが多くてね。やっぱり私のダイナマイトバディは、日本人には刺激が強すぎるのかしらねえ」
「はあ……」
仲居さんどころか、図太いおばちゃんのようにポンポンとまくしたてる彼女に、蘭はあっという間にペースを握られてしまっていた。いつの間にか敬語も消えて、完全に茶飲み友達のような空気である。けれどもそれが不快ではなく、むしろ親しみやすさすら感じるのは可憐の人柄によるものだろう。概して日本人よりもオープンマインドな人が多い、外国人客に人気があるというのもわかる気がした。
「それにしても――」
うんうん、と顎と胸を繋げるように頷いた可憐が、じっくりと全身を見つめてくる。
「な、なんですか」
「マジでスタイルいいわね。どうなってんの、その冗談みたいな足の長さ。私、普通に股下くぐれそうなんだけど」
「…………」
それは言い過ぎだろうと内心でつっこんだ蘭は、もじもじと股間の前で手を重ねた。褒めてくれるのはありがたいが、コンプレックスにも感じている部分だし、やはり恥ずかしい。
「逆に顔は超ちっさくて、目もぱっちり二重だし。あ! あの子に似てるかも!」
「誰、ですか?」
蘭のなかで、わずかに警戒心が湧き上がる。じつは今までも何度か「女優の○○に似てる」とか、「モデルの△△さんっぽいね」と言われたことはあるのだが、そのたびにリアクションに困らされたからだ。
けれども可憐が挙げたのは、想定外の人物だった。
「小宮山レナ!」
「こみやま、れな?」
誰だっけそれ? と記憶を探る。僭越にも女優やモデルの名前を頭のなかで検索してしまうが、経験にもとづくとそうなるので仕方がない。
「ええっと……」
該当する人物が思い出せないので、申し訳ない、という困った笑みを返したところで、にこにこと答えが返ってきた。
「知らない? 『サイキック・パートナー』に出てくる元女優の東京都知事。超人気のアニメなんだから。第三期も劇場版で完結したんだけど、しっかり話が着地して良かったわあ。小宮山レナと主人公のタクマ君も、もろにくっつかないから逆にいいのよね。あれは絶対、四期も来ると思う。あ、そのまえにブルーレイも買わなきゃ」
「そ、そうですか」
女優は女優でも、なんと二次元のキャラクターのようだった。
困惑する一方で、だが蘭はなんだかおかしく、そして楽しくも感じ始めていた。実在の人物を出されるよりはよっぽど気楽だし、何より可憐の浮かれた様子がいい。早口気味になった喋り方と合わせて、そのアニメを本当に好きな気持ちが伝わってくる。
「あ、ごめんね。私オタクだから。でも三次元のアイドルも推してるわよ」
「へえ」
あけっぴろげなキャラクターだけでなく、オタク文化に詳しいところも、彼女が外国人に人気がある理由かもしれない。
明るくなってきた蘭の表情にますます気を良くしたのか、「よし!」と可憐は肉厚の手を叩いた。
「正さん、モニターさんてことは、さっそく着てもらってオッケーですよね? あ、そのポーラ絣のやつね」
二人のやり取りを微笑ましげに見つめていた正も、変わらない笑顔で返す。
「うん。ちょうど内線しようと思ってたんだ。三階の片付けはもう終わったの?」
「きりのいいところまでは。あとちょっと整理すれば、もとに戻るはずです」
「良かった。ありがとう」
雇い主と頷き合った可憐が、「というわけで」とこちらを見る。
「蘭ちゃん、さっそくお着物に着替えましょう」
「あ、はい」
いよいよ着物姿になるようだ。蘭が少し緊張を覚えると、目の前にぐっと太い親指が立てられた。
「蘭ちゃんなら、絶対似合うから大丈夫。わかんないとこあったら私が手伝うし。んじゃ、いくわよ! アレ・キュイジーヌ!」
高らかな宣言に合わせて、サムアップした可憐の指がそのまま更衣スペースに向けられる。反対の手はいつの間にか腰に当てられており、それこそ二次元キャラのようなポージングである。
しかも「キュイジーヌ」って、「料理」って意味じゃなかったっけ。
苦笑が浮かんだお陰か、生まれかけたささやかな緊張は、蘭のなかからすぐに消えていた。なんにせよ可憐も悪い人ではなさそうだ。とりあえず任せて着替えてみよう。
店主と同じく、当たり前のように下の名前で呼んできたことも素直に受け入れて、蘭は更衣スペースへと足を向けた。