エピローグ
階段室から外に足を踏み出すと、さらに冷たい空気が全身を包み込んだ。
日が出てるし、ちょっとはあったかくなるかな。
年明け最初の定休日。なかば願望も込めて空を見上げた蘭は、そのままいそいそと右手に歩いていく。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
駅前交番のおまわりさんと挨拶を交わしたところで、ちょうど目当てのバスがやってくるのが見えた。いいタイミングだ。
「おはようございます」
「あ、蘭さん! おはようございます。素敵なお召し物ですね!」
乗降客を案内するバス会社の係員が、蘭からの挨拶に気づいてぱっと顔をほころばせた。すっかり顔馴染みになった中国人のお姉さんだ。アジアからの観光客が多いこともあり、箱根の様々な会社でこうしたスタッフさんが増えているのだとか。もちろん彼女も日本語はペラペラである。
「ありがとうございます」
……やっぱり誰かしら、知り合いには会っちゃうよね。
頭を下げたあと内心で苦笑を浮かべて、蘭は素早くバスに乗り込んだ。平日の早朝ということで、湯本駅発とはいえさほど混んでいない。じつはそれも狙って、わざわざ早めに起きたのだが。
クイックタイプだから、着替えはすぐだったけど。
自分だけが座る最後列の席で肩をすくめると、鮮やかなパステル模様がふわりと上下した。
何を隠そう、今朝の蘭は着物姿なのだった。早起きしたもう一つの目的がこれで、バス会社のお姉さんがああ言ってくれたのも、普段と違う格好を指してのことだ。柄は最初に正と出逢ったときのものとよく似た、クリーム色にパステル模様をあしらったデザイン。「ちょうど冬物で、おんなじようなのを仕入れてみました。僕も好きなんですよ、この手のやつ」と彼がにこにこと最近ラインナップに加えた商品を、誰もいない店に寄ってみずからレンタルしてきたのである。
「箱根町港行き、出発しまーす」
運転手さんのアナウンスに次いで、エアブレーキの音が鳴ってドアが閉じる。
人目を忍ぶようにして蘭が向かう先は、箱根山のずっと上、有名な芦ノ湖のほとりだ。最寄りのバス停はずばり『箱根神社入り口』。箱根神社も観光名所として知られるが、じつは湯本の街で働き始めてからまだ一度もお参りしていなかったので、ちょっと遅い初詣も兼ねて出かけようと思い立ったのだった。
ちょうど三十分ほどで、バスは予定通り箱根神社入り口に到着した。停留所は芦ノ湖畔を通る『神社通り』の入口なので、遊覧船乗り場なども目の前にある。蘭もいったんそちらに出て、芦ノ湖を眺めることにした。
「うわあ、気持ちいい!」
雄大な湖面が朝の陽を受けて輝く様は、神社に入る前からすでに神々しい空気があたりに満ちているようだった。右手には湖上に建つ『平和の鳥居』も見える。この鳥居は太平洋戦争が終わった少しあと、たしか一九五二年に日本の独立を記念して建立されたのだとか。箱根の見所を紹介するいくつかのパンフレットがつむぎの店内にも置いてあるし、しばしば自分でも説明するので蘭もすっかり覚えてしまった。
「よし、行きますか」
芦ノ湖からエネルギーをもらった気持ちになった蘭は、ここから徒歩十分ほどだという箱根神社に向かって元気に歩き出した。
湖を回り込むように道を進むと、神社通り全体を覆う大きな鳥居を過ぎたあたりから、右手にうっそうとした森が広がり始める。同じ側にそびえる《箱根神社》と大書された古い看板からさらに数十メートル行ったところで、その森へ分け入るような形で道が分かれていた。短い階段の先には、朱塗りの灯籠とさらなる鳥居。こちら側からお参りする人のメインエントランスとも言える、箱根神社第三鳥居だ。
ちらほらといる他の参拝客に混じって、蘭も「お邪魔します」と鳥居の前で小さくお辞儀をしてから境内に足を踏み入れた。
へえ、こんなふうになってるのね。
左右に灯籠が並ぶ参道を、観光客よろしくきょろきょろしながら歩いていく。平らだし幅広の道なので、着物姿でも問題ないのがありがたい。そうして五分も経たないうちに、次の第四鳥居から繋がる長々とした石段の前に辿り着いた。この上が、いよいよ目指す拝殿である。
九十段あるという石段も、一つ一つが低いので思ったより楽に上りきることができた。最上段に構える第五鳥居の向こう側が大きく開けており、正面奥の拝殿に続く神門と、すぐ右側には併設された『九頭龍神社新宮』の小さな鳥居も立っている。
迷わずに、蘭はその右側に足を向けた。
「うん、せっかく並んでいらっしゃるんだし、やっぱり両方お参りしとかないとね」
ぶつぶつと、なぜか自分に言い訳するように、まずは九頭龍神社にお邪魔する。
鳥居をくぐると、同世代と思しき二人連れの女性が先に参拝していた。「緑子ちゃん」「賀那子さん」と呼び合う声が聞こえたので、会社の先輩後輩といったところだろうか。どちらも洋装で、「賀那子さん」は眼鏡姿だが、ちらりと見えた横顔は二人ともとてもキュートだった。
大人しく順番を待つ蘭の前で、きちんと二礼二拍手一礼の作法に則って、彼女たちがお祈りを捧げる。「緑子ちゃん」の方がより時間をかけて、何やら熱心に祈っている様子だ。
いいなあ。
誰か気になる人でもいるのかしら、と微笑ましくその姿を見つめ、蘭も自分の小銭入れからお賽銭を取り出しておいた。
じつは九頭龍神社は、縁結びの御利益でも有名なのである。アクセスしやすいこちらの新宮だけでなく、最寄りのバス停からさらに徒歩で十五分以上かかるという本宮にも、恋愛成就や良縁を願って参拝する人が少なくないのだとか。
「ずいぶん気持ちを込めてたわね。彼と上手くいくように、がっつりお願いしたんだ?」
「ひ、秘密です!」
姉が妹をからかうようなやり取りとともに、参拝を終えた二人が左手の箱根神社拝殿へと進んでいく。キュートなルックスだけでなく、蘭の存在に気づいて「お待たせしました」という笑顔で揃って会釈してくれたのも、朗らかで感じが良かった。
会釈を返した蘭も、静かに賽銭を奉納して拝礼する。
が、前の彼女たちを見たからか、思わず自身も良縁を祈願しそうになっていた。
あ! わ、私は別に縁結び目的じゃなくて、普通に開運をお願いします! いえ、その、素敵なご縁があるならもちろん嬉しいですけど……。
祀られている龍神様に、胸の内でしどろもどろの弁明をしてしまう。
ともあれ、なんとかお祈りを済ませた蘭は最後の一礼を終えて、自分も箱根神社に向かった。気を取り直して、今度こそしっかりお祈りしなければ。
早朝にもかかわらず、箱根神社の方はそれなりに混雑していた。年配の人や外国人ばかりでないのは、やはり平日休みの商売人などもいるからかもしれない。
あらためてつむぎの繁盛を祈願してから、蘭は背後のお札所でおみくじを買ってみることにした。透明なおみくじ箱が複数あるので、種類がそれぞれ違うようだ。一番数が減っているように見える左端のおみくじ箱には、『九頭龍みくじ』と書いた紙が貼ってある。
ふーん……。
迷った末にそのうちの一つを引いてから、神門を出たとき。
「あら、蘭ちゃんも初詣?」
「はいっ!?」
背後からぽんと肩を叩かれ、蘭は裏返った声で振り向いた。
「あ、桃絵さん!」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね」
綺麗なお辞儀に合わせて笑顔を向けてくるのは、芸者の桃絵だった。袷着物の上から羽織ったブラウンのケープコートがとてもお洒落で、相変わらず美しい。
「おめでとうございます。こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
挨拶を返してから、蘭は彼女の隣にも「明けましておめでとうございます」と同じように頭を下げた。やはり初詣らしき桃絵は、ハンサムな男性と一緒だったからだ。言うまでもなく、いつぞやの公開稽古をきっかけに正式に恋人同士となった、料理人の孝典である。顔は知っているが話すのは初めてだ。
「明けましておめでとうございます。明海蘭さんですね。いつも桃絵や智坊ちゃんからお話は伺っています。正君にもよくお世話になっています」
「ど、どうも」
丁寧に返されて、逆に蘭は微妙なリアクションになってしまった。桃絵や智は、彼に自分のことをどんなふうに話しているのだろう。
なんだか複雑な気分のところを、興味津々といった態で桃絵が見つめ直してくる。
「で、蘭ちゃん、おみくじはどうだったの?」
「あ、ええっと……」
挙動不審気味に両手を後ろに回す蘭に対し、だが桃絵は笑みをいたずらっぽいものに変えて、さらに問いかけてきた。
「良かったら教えてくれない? 蘭ちゃんの九頭龍みくじの結果」
しっかり見られていたらしい。桃絵の言う通り、さり気ない風を装いつつ蘭も九頭龍みくじを引いたのだった。
観念した蘭は桃絵と孝典に見つめられるなか、おみくじを広げていった。カラフルな龍神様が描かれた紙の内側には――。
「あ!」
「おお、おめでとうございます」
「良かったわね!」
おみくじのなかほど、右から読む形で書かれた《運勢》枠の横には、《大吉》とあった。ぱっと顔を明るくした蘭はもちろん、孝典と桃絵も喜んでくれている。
「九頭龍みくじだし、こっちも大事じゃない?」
笑ったまま、桃絵がすぐ下の部分も指さしてみせる。《待人》の枠に、シンプルなひらがな。
「《すでにあり》!? いや、違うから!」
文言が目に入った瞬間、蘭は声に出して神様を否定してしまった。なぜか見慣れた顔が頭に浮かんだからだ。しかも隣の《恋愛》《縁談》という、さらにダイレクトな部分には、《神様を信じ身を慎み理解し合えば結ばれます》《良縁を授かるが苦労多し》などと、これまた微妙に思い当たるようなお言葉が並んでいる。
ま、待ち人なんかじゃないし……!
耳やうなじのあたりが熱い気がする。思わず顔面を手であおいだところで、孝典とアイコンタクトをかわした桃絵が、ますます楽しそうな笑みを向けてきた。
「さすが龍神様、全部当たってるなあ。たしかに蘭ちゃんは『待ち人すでにあり』だもんね」
誰のことを言っているのかは明白だ。「も、桃絵さん!」と、蘭があたふたと抗議した刹那。
「あれ? 蘭さん?」
なんと、その本人が目の前に現われた。桃絵と孝典に「ああ、お二人も一緒でしたか。明けましておめでとうございます」などと、例によってのほほんと挨拶している。
「!? たた、た、た……」
「た? なんです、蘭さん? 千姫さんのタピオカですか? いいですよ、お参りが終わったら飲みにいきましょうか」
「そうじゃないっ!」
赤い顔で口をパクパクさせた蘭だが、《待人》扱いの彼、すなわち正は完全に通常営業なので、思わず得意のタメ口が飛び出した。もはや条件反射みたいなものである。
「あ、蘭さん、ひょっとしてバスで来ました? だったら先に、今日の予定を訊いておけばよかったですね。俺は車だから送ってこれたし、一緒にお参りもできたのに」
「そうよ、正君。私たちみたいに初詣デートするなら、ちゃんと計画立てなきゃ」
年が明けてもなんら変わらない正のマイペースに、桃絵もすかさず調子を合わせる。しかも寡黙な孝典まで、穏やかな表情でうんうんと頷く始末だ。
「で、デートじゃありません! ていうか、今たまたまここで会っただけじゃないですか!」
必死に言い募る蘭だが、あっさりとスルーされたうえ、
「じゃ、お二人でごゆっくり。いきましょ、孝典さん」
などとわざとらしくウインクした桃絵は、恋人を促してすたすたと立ち去ってしまった。さらなる抗議をする間もあたえず、二つの背中が石段の下に消えていく。
「……行っちゃった」
「行っちゃいましたね」
ぽかんと見送るしかない蘭の隣で、正も小さく笑う。けれども次の瞬間、彼が少しだけ口調をあらためた。
「蘭さん」
涼しげな目が、しっかりとこちらの顔を捉えてくる。
「はいっ!」
またしても蘭の声は若干裏返った。ちょうどいいのか悪いのか、エアポケットのように、周囲からは人の流れが途切れている。ついこの間も似たようなシーンがあったっけ、と思い出すと同時に、今度こそ、と自分でも意味のわからない言葉が心に浮かんだ。
「蘭さん」
もう一度、同じ口調で呼ばれる名前。それがきっかけのように、おみくじの文言が脳裏に甦る。
《待人》《すでにあり》。ついでに言えば、運勢は《大吉》。
「な、なんでしょうか!」
小さく唾を飲み込んだ蘭は、頑張って正の目を見つめ返した。視線がほぼ同じ高さで交わる。ドキドキと、着物の内側で胸が鳴っているのがわかる。
「今さらですけど」
「はい」
そ、そうよね、今さらって感じだもんね。けどこういうことは、やっぱりけじめをつけてはっきり言ってもらわないと。
「今年も」
私だってこう見えて、女の子なんだし。
「契約してもらえますよね」
あ、でも桃絵さんたちを見習って、きちんと公私はわけなきゃ。社会人として当然よね、うん――。
「すみません、正社員にできるほど儲かってないので」
――って、え?
勝手に心拍数を上げていた蘭は、「正社員」という単語が聞こえたタイミングで、眉間にしわを寄せる羽目になった。数秒遅れて声が出る。
「……あの、今なんて?」
「そのまま契約社員ていう形でいいですか?」
「はあ!?」
思わず目を剥いて、ずいっと正に歩み寄る。
「仕事の話!? ここまで来て?」
「いやあ、休日なのにすみません。でも、忘れないうちにと思って」
かたや彼の方は、お馴染みのへらへら調子に戻っている。蘭の勢いに押されて体勢だけは若干のけぞり気味だが、緊張感のない笑顔も完全にいつも通りだ。
「今年も引き続き、そばにいてくれたら嬉しいです。今日の着物も凄く素敵ですよ。蘭さんをイメージして仕入れた甲斐があったなあ」
盛大すぎる肩透かしに加えて、これまたいつものイケメン詐欺な台詞。
「……はあ。ありがとうございます」
わざとらしく溜め息をついたからか、ふわりと上半身の力が抜けた。たとえ神様の前でも、やっぱり正は正だ。
こんな困った人、待ってた覚えはないんだけどなあ。
無意識のうちに苦笑まで浮かんだところで、神門の向こうからしゃらんという音が聞こえてきた。また誰かがお祈りを捧げたようだ。
「正さん」
笑みをにっこりとしたものに変えて、今度は自分から正を見つめる。一瞬だけ彼の頬に赤みが差したように感じたのは、きっと気のせいだろう。
「はい、今年もお世話になります。ていうか、断られたってつむぎに居続けてやりますから」
澄ました表情を作ってみせながら、蘭は続けた。
「だって私は、あなたの看板娘でしょ」
お店の、と言うべきところが自然と別の言葉になった。でもまあいいか、とふたたび頬を緩めて思う。目の前の彼が、心底嬉しそうに目を輝かせたから。
箱根湯本駅前の、ちょっと変わったレンタル着物屋さん。ちょっと変わったイケメン店主。ありのままの自分を見つめてくれる大切な場所。
素敵な看板娘、目指さなくちゃ。
よしっ、と頷いたところでもう一度鐘の音が届いた。
頑張りなさい、と箱根の神様に微笑んでもらえたような気がした。
Fin.




