箱根湯本のランナー 4
その後、さらに詳しく正が語った内容によれば、言わば「出戻り」で民吾氏の下へ帰ってきた正たち母子を、今よりまだ若かったケンさんやご近所に住んでいた卓也、智の家でもある花鳥風月のご主人らをはじめとした人々は、温かく街の一員として迎え入れてくれたのだという。
「以来、俺は湯本の人間です。下手をすればおかしな金持ちへの人身御供にされてたところを守って、育ててくれたこの街とまわりの人たちには感謝しかありません」
「だから正さんは、ご近所の皆さんに愛されてるんですね」
「だといいんですけど。まあ少なくとも俺の方は箱根の、特にここ湯本の街と人が本気で好きですよ」
本気で好き、などという台詞を真っ直ぐに目を見て口にするものだから、蘭は勝手に赤面してしまった。どこまでいってもイケメン詐欺な雇い主だ。
と、あらためて正が呼びかけてきた。
「蘭さん」
「ひゃい!?」
視線を合わせたまま、しかもどこか真面目な調子で言うので思わず声が裏返る。
「なな、なんでしょう!」
「蘭さんは――」
「は、はい!」
ここから続くのは、「今、付き合ってる人はいますか?」だろうか。それとも「どんなタイプが好きなんですか?」か。いや、この人のことだから藪から棒に「俺のこと、どう思ってます?」とかなんとか言い出しそうな気も――。
「けど、最初からわかってくれましたよね」
「……は?」
蘭の予想、というか妄想とは、まったく違う方向からの台詞が飛んできた。
「サイショカラ、ワカッテタ?」
いつぞやのレイチェルの方がよっぽど上手な、つまりは怪しすぎる日本語になって彼の言葉を機械的に繰り返す。わかってた、とは何についてだろう。
怪訝な顔をする蘭をまだじっと見つめたまま、正の笑みが濃くなった。どこか幸せそうに、頬がますます緩んでいく。
「最初に言ってくれたじゃないですか。地元が好きなんですね、って。観光客の人たちはとくにルックスとか和服姿ばっかり褒めてくる人が多いなかで、ありのままの俺を見てもらえたみたいで凄く嬉しかったんです。つむぎでの仕事だって、蘭さんは誰かを色眼鏡で見るような真似は決してしないで、それぞれに一人のお客さん、一人の友人としてフラットに接してくれてるでしょう。桃絵さんやレイチェルのときだってそうだし、可憐さんにも、智にも、卓也にも、ケンさんにも。女将さんみたいなきらり妓に、大人と平気で会話できる旅館の御曹司、普段は着ぐるみ姿のマッチョマン、還暦過ぎてるのに一番人気の人力車夫ですよ? なんにも知らなければ、ちょっと変わった人たちだらけですよね」
「はあ」
言われてみればそうかもしれない。だが蘭はそんなこと、まるで気にした覚えがなかった。可憐は可憐だし、智は智。卓也はハチリンで、ケンさんはいつもケンさん。そして、みんないい人。
笑顔のまま正が告げる。
「同じなんです」
「え?」
意味がわからない蘭は、またもやぽかんとなった。
「蘭さんも湯本の人たちと同じで、見た目とか生まれとか全然気にしないでその人と接してくれる。俺の、俺たちの中身をちゃんと見てくれる。それが凄く嬉しくて、ありがたいんです。こんなに綺麗な外見をしてるけど、蘭さん自身の中身が素敵だからこそだろうなって、お世辞抜きに思ってます。でなきゃ本気で欲しくなりません」
「ほ、欲し……!!」
だが耳まで赤く染めた蘭のリアクションは、いつの間にか元通りの、すなわちお得意のへらりとした笑顔であっさりスルーされてしまった。
「はい。看板娘として、本気で店に欲しくなったんです」
「……あ、そう」
微妙な心境のまま、こちらもいつものようにタメ口になったところで、河原の上から声が届いた。
「あら。お二人さん、デート?」
「お天気も良くて気持ちいいわね」
桃絵と喜代乃の美人芸者コンビだ。稽古帰りなのだろうか、街着用の素朴な風合いの着物姿で、風呂敷包みをそれぞれ抱えている。二人揃って紺色の着物だが、桃絵の方は小紋と呼ばれるタイプで、よく見ると雪を象ったような小さな模様が散らしてある。
「も、桃絵さんのあの柄、大小霰って言うんでしたっけ」
これ幸いとばかりに気を取り直した蘭は、わざとらしく確認してみた。着物を前にすると知識を増やしたくなる癖がついて良かったと、頭の片隅で思う。
「ええ。喜代乃さんは流行りのデニム着物みたいですね。お二方ともよく似合っていてさすがです」
一方の正は、もはやすっかり通常営業だ。つかみどころのない笑顔のまま、けれども顔馴染みの二人と、何よりも美しい着物を目にしてご機嫌な様子である。
「ごめんなさい、お邪魔だった?」
いたずらっぽく重ねる桃絵の台詞を、蘭はようやく「違いますよ!」と否定して立ち上がった。
デート、ねえ。
前にもそんなこと言われたっけ、と苦笑を浮かべてから隣に呼びかける。
「戻りましょうか」
「そうですね。可憐さんたちも待ってるでしょうし」
並んで歩きはじめた二人を見送るように、早川のせせらぎは穏やかに流れ続けていた。
年が明けた一月二日。
「あ!」
「来た!」
複数の声のなか、まずはパトカーが湯本駅前を通過していった。少し間を空けて、《テレビ中継車》というゼッケンが前面に貼られた、明らかにそれとわかる大型車両が続く。
この日、蘭は田ノ村に伝えた通り、箱根駅伝を応援するため沿道に立っていた。もちろん正たちも一緒である。ただ、住居兼職場の前に下りていくだけのはずが、周囲一帯が予想以上の大混雑なのには面食らった。
「ここは湯本駅からすぐの場所だから、絶好の応援スポットになってるんだ」とケンさんから聞かされたのは、正と連れ立って迎えにきてくれた智を守るようにして、なんとか前方のスペースを確保できたあとの話だ。
ともあれそのケンさんと卓也、さらに可憐も無事に合流し、六人はバス停沿いのなかなかいい位置で選手を待っているのだった。
テレビ中継車にぴったりと付く形で、《共同カメラ車》も眼前を通り過ぎていく。一見すると普通のトラックだが、なんと荷台に複数のカメラマンが直接乗り込んで、後方にレンズを向けている。ある意味特等席だが危なくはないのだろうか。
「へえ。こんなふうに――」
撮影するんですね、と蘭が続けようとした直後。
「おお!」
「来た来た!」
「頑張れー!」
先ほどより、さらに多くの声が湧いた。
「あっ!」
周囲に倣って蘭もそちらに顔を向け直すと、記憶にあるものとよく似たシャツが見えた。二台の白バイに先導される形で、鮮やかなブルーのユニフォームを着たランナー――湘海大の選手が、まるでダッシュしているかのような速度でぐんぐん近づいてくる。
ツイードの手袋に包まれた両手を、蘭は思わず握りしめた。事前にスマートフォンでレース状況は確認済みだが、いざ目の当たりにするとやはり緊張を覚える。
「頑張って!」
いつしか自分も大きく呼びかけていた。
「ファイト!」
「頑張ってください!」
「いけるぞ!」
「落ち着いて! リズムを大事に!」
すぐそばからも、同様の声援が次々と送られる。可憐、智、卓也、そしてこの第五区をまさに身体で知るケンさんが、トップで目の前を通過する湘海大学の選手に手を振ったり、親指を立てたりしてみせる。大声こそ出さないが、正も笑顔でブルーのユニフォームを見守っている。
「うわあ! 超速い!」
智がつぶらな目を丸くしたタイミングで、選手が蘭たちの前を横切っていった。これまたケンさんや、以前も沿道で応援したことがあるという正からも聞かされてはいたが、トップレベルのランナーは本当に風のような速さだった。
「凄いね!」
驚きの笑みで、蘭は智の顔を覗き込んだ。自分などは全力疾走したとしても、絶対にあんなスピードは出せないと思う。
するとそのタイミングで、よく通るひときわ大きな声が響いた。すぐ左側のロータリーあたりからだ。
「緋林! 十一分ジャスト! このまま焦らず!」
ランナーも軽く手を挙げて、しっかりと応える。はっきりとはわからないが、頬が少し緩んだようにも見える。
はっと目を見開いた蘭は、右隣の正と笑顔を向け合った。智を真ん中に、小さな背中を左右から守るような形で二人は立っている。どうでもいい話だが、そんな自分たちを見て「完全に家族ね」とつぶやいた数十分前の可憐の台詞は、あえて聞こえないふりをしておいた。
「田ノ村さん、さすがだなあ」
「そうですね」
頷く正に蘭も同じ仕草を返す。
ランナーへの声は明らかに、先月知り合った田ノ村のものだった。そして彼のアドバイスが的確だということは、素人の蘭でもわかる。
沿道からの声援が薄くなったところを見計らってのタイミング。かなりのスピードで走るなかでも、すべてを聞き取れるであろうシンプルなアドバイス。名前もしっかり呼んであげているので、選手も自分への指示だと迷わず認識できるはずだ。
「少なくとも、往路はこのまま湘海大の優勝で決まりだな」
反対隣でケンさんがやはり頷いている。二位の大学と大きな差ができたことに加えて、的確にチームを支える田ノ村のサポートもある。その言葉通り、このままいけば今日の往路、ゴールテープをトップで切るのは湘海大でほぼ間違いない。
「あ、皆さん!」
人混みから離れ、今は封鎖中のバスロータリーを横切る田ノ村の姿が見えたところで、彼も自分たちに気づいてくれた。
「ご声援、ありがとうございます!」
ユニフォームと同じ色をしたダウンジャケットの腕を大きく振って、ぺこりと頭を下げてくる。爽やかで礼儀正しい振る舞いに、「おお、マネージャーまで格好いいなあ」「さすが優勝候補」と感心するつぶやきが周囲の人々から聞こえてきた。
「こちらこそ、ありがとうございます! お気をつけて!」
蘭たちも笑顔で手を振り返す。田ノ村はこのまま選手を追ってゴール地点の芦ノ湖へと、電車とケーブルカーを乗り継いで向かうのだろう。ゴール後も宿舎で今日のレース分析や仲間の心身のケアなど、やることは沢山あるはずだ。たとえコースを走らずとも、全力で奮闘する姿は間違いなくチームの一員だし、誰かも言ったように本当に格好良かった。
「やっぱり残念イケメンより、爽やかスポーツマンかなあ」
「え?」
聞こえよがしにつぶやいてやると、隣でその「残念イケメン」がきょとんと首を傾げている。
「まあ、ないものねだりはしませんけど」
いたずらっぽく笑って蘭は沿道に目を戻した。二位の選手が上ってくる。
湯本駅前が、また歓声に包まれはじめた。




