箱根湯本のランナー 3
芦ノ湖を源とし、箱根~小田原と通って相模湾に注ぎ込む早川は、ちょうどつむぎの裏手を流れている。
人気のないあたりに蘭を連れてきた正は、慣れた様子で近くの大きな石に腰かけた。もしかすると、ここも彼のサボり場所の一つなのかもしれない。
「蘭さんは、『箱根内乱』って知ってますか?」
隣を手で勧めて、まずそんなことを訊いてくる。
「箱根内乱?」
素直に腰を降ろした蘭は、おうむ返しに答えてから「いえ」と首を振った。内乱。箱根という観光地に似つかわしくない物騒な二文字。まさか、付近でかつて大きな争いがあったのだろうか。
「戦国時代とかの話ですか?」
勝手なイメージのままに尋ねると、「いえいえ、武力で戦った内乱じゃないです」と正は少々おかしそうに笑みを深くした。早川のせせらぎにも向けられる柔らかい目。波打つ川面は、今日もおだやかに陽の光を反射している。
「箱根内乱ていうのは、箱根一帯のリゾート開発に伴って起きた、くだらない経済戦争です」
くだらない、という単語を強めに発音した彼は、そうして自身の出自についてはじめて蘭に語ってくれた。
「箱根内乱は、簡単に言えば北条グループと南山グループとの間で起きた、箱根の輸送シェアをめぐる争いです。今ある路線バスや鉄道、芦ノ湖の遊覧船といったほぼすべての交通機関は、もともとどちらかのグループが造ったものなんです」
「つまり北条と南山で、バスとか鉄道を使うお客さんの取り合いをしてたってことですか?」
小首を傾げて確認すると、「その通りです」と正は笑顔を絶やさず頷いた。気のせいかも知れないが、生徒を見守る先生のような雰囲気も感じられる。
「ふーん。どっちも大企業ですもんね」
二つの企業グループ名は蘭も知っていた。双方とも旧財閥系の、日本を代表する一大グループである。交通や不動産、デパート経営、さらにはプロ野球やJリーグのチームも持っており、国内ではむしろ知らない人の方が少ないのではないだろうか。
「でも、その争い方があまりにも子どもじみていたそうです。どっちのバスでも行けるのに、ロータリーで『芦ノ湖へはこちらのバスです!』なんて拡声器でがなり合ってお客さんを逆に混乱させたり、いざ乗り込んでも箱根の山道で運転手が張り合うようにスピードを出すものだから、利用者は生きた心地がしなかったり」
「うわ……ひどいですね、それ」
蘭は顔をしかめた。たしかにあまりにも子どもじみているし、何よりも、お客さんのことをこれっぽっちも考えていない。運輸業としてはもちろん、観光業や接客業としても最低の行為だ。
「芦ノ湖でも、百メートル程度しか離れてないところにそれぞれ桟橋を造っちゃうとかして、とても危険だったみたいですよ」
「へえ」
今の箱根からは想像もできないが、いずれにせよ地元の人々や観光客は、たまったものではなかっただろう。
「で、俺はその片方、南山の経営者である南家の血を引いてます」
「そうなんですね……って、え? えええええっ!?」
思わず聞き流しそうになった蘭は、二秒ほど間を置いてから素っ頓狂な声を上げた。
「み、南家の血を引いてるって、つまり正さんはその、なんていうか、御曹司? ボンボン? プリンス?」
最後は若干意味が違うことにも気づかず、動揺するばかりである。御曹司といえば智が身近にいるが、南山グループの息子ともなれば彼よりもはるかにスケールの大きい、全国レベルの(?)お坊ちゃまだ。
「いえ、俺の祖父がグループ創業者である南大善の庶子だった、ってだけですよ」
「だけって……」
南大善というのは「南山グループのドン」と言われた、蘭でも名前を聞いたことのある有名経営者だ。当然ながら世界レベルの大金持ちでもある。すでに亡くなっているはずだが、目の前で微笑む自分の雇い主がその血族だとは、にわかには信じられない思いだった。
「箱根の別荘で、大善が家政婦さんに手を付けた結果生まれた、もはや何番目だかすらわからない子ども。それがじいさんだそうです」
「……あ」
そういえば、と蘭は昔ネットで見たゴシップ記事を思いだした。南大善は有能な経営者である一方、女癖がはなはだ悪く、関連企業に所属する女性アスリートやスポンサーを務める番組に出演した有名女優など、数多の愛人を抱えていたという。
「じゃ、じゃあ正さんは、単に血を引いてるってだけで、南山グループとは特にかかわりがないんですね?」
無意識のうちに焦った声が出た。ありえないとは思うが、万が一にでも正が南山グループに入社してしまう、いや、奪われてしまうような事態はやっぱり嫌だった。
「ええ。子どもの頃、本家から養子に入ってくれって話がきましたけど、きっぱりと断りましたから。俺、お金は好きだけど品のない金持ちは嫌いなんですよね」
「良かった……って、今なんて言いました!?」
「え? 品のない金持ちは嫌いって」
「そこじゃなくて!」
「お金は好きってとこですか?」
「それも違いますっ!」
反射的に普段通りのつっこみを浴びせてしまいつつ、蘭は厳しい口調のまま確認した。
「ほ、本家に養子に入ってくれって話がきたとかなんとか、言いましたよね!?」
「ああ、はい。南家の息子になって、ゆくゆくは不動産だかデパートだかリゾートホテルだかを、継いで欲しいって説明されました。まるで共通点がないですよねえ」
「いや、だから問題はそこじゃないから!」
いつかのように指まで突きつけそうになりながら、必死に言い募る。南山グループ本家、南家の養子。それはつまり、正が語るように将来のグループ幹部を約束された身だ。すなわち。
「一歩間違えば、マジで大金持ちのボンボンだったんじゃないですか!」
というわけである。
「大丈夫ですよ」
「は?」
しれっと返ってきた答えに、蘭は眉を寄せた。大丈夫? 何が?
「一歩どころか半歩すら、俺は間違えませんから」
「あ……」
言葉の意味は不明だったが、すぐに、そしてごく自然に蘭の表情は穏やかになっていった。冷静に断言する声と、さり気なく強い光をたたえた瞳が「はい」と頷かせてもくれる。間違えない、と正は今言った。そして自分も、何が正しいかだけはわかる気がした。
そうだよね、とやはり自然に口が動く。
「正さんは、ここにいるのが正解ですもんね」
「イエス。さすがは俺の看板娘です」
俺の、というひとことをつい流してしまったところで、正がさらに詳しく説明を続ける。
「今言ったように俺のじいさんは、南大善と彼が箱根の別荘で雇っていた家政婦との間にできた子どもです。一応大善は自分の子だときちんと認知してその家政婦、つまり俺のひいおばあさんに、じゅうぶんな生活費や養育費は払ってたようです。まあ、お金は腐るほど持ってる人間ですからね。昔は今よりシングルマザーが生活しづらい環境だったでしょうから、そこはたしかに助かったみたいだと、じいさんが教えてくれました」
「はあ」
家政婦に手を付ける時点でどうかとは思うが、南大善は事後、少なくとも最低限の(?)礼は尽くしたようだ。ちゃんとしているのかしていないのか、いまいち微妙な気分にさせられる。なんにせよ、大金持ちの行動基準など蘭にはよくわからない。
「じいさんを生んでからも、ひいおばあさんは生涯箱根で暮らしたそうです。そしてじいさんも湯本の街で生活し、結婚して、一人娘である俺の母親を育てあげました。母は大学から東京に出てごく普通の企業に就職、同僚だった父と結婚して俺が生まれたってわけです。そのすぐあとに離婚して、ひいおばあさんと同じくシングルマザー生活になっちゃうんですけど」
「へえ」
いつもの軽い笑みとともに語られる正の生い立ちを、蘭は何度も頷きながら聞いた。いささか特殊ではあるが、やはり彼は箱根に縁のある人間だったのだ。
「ちなみに母は、『おばあちゃんの真似したわけじゃないわよ』って、シングルになった人生をよく自分でネタにしてます。ちょっととぼけた性格なんですよ、あの人」
みずからを棚に上げて、そんなことも笑顔で付け加える。もちろん蘭に面識はないが、息子に似た部分を持つ人なのだろう。
てことは、見た目も綺麗なのかな。
ついまったく関係ない感想を抱きそうになったが、「あれ?」と思いだした。
「正さんのお母さん、東京でご結婚されたんですよね?」
「ええ」
「じゃあ正さんて、生まれは東京なんですか?」
首を傾げる蘭を見て、彼の笑みが「よく気づきましたね」とでもいった感じの、何かを面白がるようなものに変わった。
「そうなんです。俺と母が湯本に越してきて、というか戻ってきて、じいさんの下で暮らすようになったのは小学四年のときです。あ、よく考えたら智と同い年だったのか。でもあんなに賢くなかったなあ」
ますますおかしそうに言ったあと、視線が宙に向けられる。少年時代の自分を思い返しているのかもしれない。
「で、ちょうど同じ時期に、南山グループで後継者が足りないみたいな問題が起きてたんですよ。あそこってじつは完全な同族経営で、しかも男尊女卑なんです。グループ企業のトップは必ず男性。時代遅れもはなはだしいですよね。そういうしきたりのなかで、さっき言ったデパートだかリゾートホテルだかの社長候補が、さっぱりいなくなったらしくて」
あとは皆まで聞かずとも、蘭にも理解できた。
「けどそこで、ずいぶん昔に南大善さんが箱根の家政婦さんに手を付け……じゃなかった、家政婦さんとの間に授かった方がいて、彼のお孫さんが男の子だっていうことを思い出したんですね」
「はい。じつに都合のいい人材だったみたいです、俺」
呆れたように正が肩をすくめてみせる。一方で蘭もまた、小さく息を吐くしかなかった。いくら同族経営を守るためとはいえ、まだ小学四年の、しかもそれまでまったくグループと関係なく、言わば庶民として暮らしていた普通の男の子を祭り上げようとするとは。金持ちの考えることは本当にわからない。
「ある日、学校から帰ったら自宅のマンションに知らないおじさんと、その人専属っぽい、いかにもな美人秘書さんが来てたんです。あ、美人秘書っていっても蘭さんほどじゃないですよ。ここまで綺麗じゃないし、すらっともしてなかったな」
「い、いや、それはどうでもいいです」
こんなときでも忘れないイケメン詐欺をなんとか遮って、目で先を促す。「ああ、すみません」と笑って、正も話を戻してくれた。
「そのおじさん、いきなり俺に名刺を渡してなんて言ったと思います? 『正様、お迎えに上がりました』ですよ。あれはさすがに面食らったなあ。漫画みたいな台詞を実際に、しかも自分に向かって喋る人がいるなんて、想定外もいいところですよ」
蘭も想像してみる。どこかの家だかマンションだかの、明るいリビングルーム。ランドセルを背負った学校帰りの正がドアを開けるや否や、口ひげのダンディな中年男性(と勝手にイメージしてしまった)が、ソファからすっと立ち上がる。隣に座っていた銀縁眼鏡の、やたらと胸の大きい美人秘書(これまた勝手なイメージである)も同じく席を立って……。
「『正様、お迎えに上がりました』ですか」
なるほど、紛れもなく漫画の世界だ。
「で、正さんはどうしたんです?」
もはやフィクションにしか思えないので、蘭はそれこそ漫画や小説の続きを聞くような気分で尋ねてみた。正もどこか愉快そうに答える。
「もちろん断りましたよ。おじさんの説明はちんぷんかんぷんでしたけど、親から引き離されて、どこぞの金持ちの子どもになるっていうのだけはわかりましたから。こう見えて俺、両親との仲は悪くないんです」
「まあ、そうでしょうね」
頷く胸の内で、蘭はちょっぴり嬉しさも感じていた。幼い日の正が馬鹿げた話をその場で断ったことや、両親と仲がいいこと、家族を大切に思っていることに。マイペースで困らされてばかりだけれど、やはり根は優しくて真っ直ぐな人なのだ。
「ただ」
笑みこそ消えていないものの、正の眉がハの字になる。さっき以上に呆れた感じの表情だった。
「南山グループからの誘いはその後も続いたうえに、やたらとしつこくて。もちろん法に触れるような真似はしないんですけど、俺のご機嫌を取りたいからか、頼んでもいない貢ぎ物が山ほど届くようになったんです。小学生相手にお中元だのお歳暮だのって、何考えてんだって話ですよ。だからっていちいち突き返すのも面倒だし、メロンとかケーキ自体に罪はないから、美味しくいただきましたけど」
「それは確かに困りますね……」
蘭もさすがに苦笑する。金持ちの感覚は、どこまでも自分たちとずれているようだ。
「で、気丈な母もいい加減ストレスが限界に達し始めてたときに、じいさんが助けてくれたんです」
「おじいさんが?」
「はい。一般人とはいえあの人自身も南家の血を引いてる、それも男性ですからね。南山グループの本社に単身乗り込んでいって、既に亡くなっていた大善の後を継いだ息子の義則氏を捕まえて、『てめえの親父が家政婦に手ぇつけて生ませた、はぐれもんがこの俺だ。そんな男の孫を、今さら跡取り候補の坊ちゃんに仕立てようってのか? ふざけるんじゃねえ!』って言い放って、二度と保志野家に関わらないって誓約書まで書かせたそうです。じいさん、普段から和服を着てるうえに声がでかいし、ついでに顔もでかい人だったから多分、歌舞伎役者が見得を切ったみたいになったんじゃないかなあ。そりゃ、天下の南山グループ会長だってビビりますよ。しかも言ってることは正論なんだから」
「はは、は……」
乾いた笑いを漏らした蘭は、またしても想像してしまった。正によく似た、けれども五割増しくらいではっきりした顔立ちのおじいさんが、和服の裾をはだけて大企業グループの会長を怒鳴りつける姿を。
「それでもやっぱり心配だからって、俺たち親子を湯本に呼んで一緒に暮らしてくれたんです。じいさんは腕のいい仕立職人でまだ現役だったし、母も彼の工房で社員として雇ってくれて」
「へえ」
落ち着きを取り戻した蘭の心に、あらためての興味が湧いてきた。正と彼の母を、この箱根湯本に呼び戻して守ったというおじいさん。豪快で面倒見のいい人のようだが、どんな人物だったのだろう。
「あ」
瞬間、声が漏れた。おじいさんが助けてくれた、一緒に暮らしてくれた……。言葉が過去形だったことに、今さら気づく。
「あの、正さん」
どうたしかめたものか迷っていると、彼の方から屈託なく伝えてきた。
「はい。じいさんは、俺が高校のときに亡くなっちゃいました。あ、でも母はまだ元気ですよ。もうちょっと落ち着いた場所がいいからって、今は湯本から引っ越して芦ノ湖のそばに住んでます」
「そうだったんですね」
静かに答えるしかない蘭を、逆に励ますようにして正は語る。
「あとでじいさんの写真、見せてあげますよ。和服の仕立屋さんらしく時代劇とか落語が好きで、本当に面白い人だったんです」
少しだけ遠い目になった彼は、そうしてにっこりと続けた。
「名前は、民吾。略すとTMGですね」
突然の妙な台詞だったが、蘭は即座に理解できた。
いつも頭のなかにある言葉と、簡単に繋がったから。
そこが今は、自分の大切な場所だから。
「うちのお店の名前って――」
言いかけたところで、正があとを引き取る。自分と同じ表情で。同じ口調で。
朗らかに、彼は笑った。
「ええ。TMG。つむぎ。じいさんの名前をこっそり込めさせてもらいました」




