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箱根湯本の看板娘 ~縁つむぎはレンタル着物で~  作者: 迎ラミン
第四章 箱根湯本のランナー
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箱根湯本のランナー 2

「そうか、マネージャーさんだったのか。たしかに強いチームは、主務やマネージャーもしっかりしてるからなあ。さすがは湘海大だ」


 十分後。この時間は落ち着いたのか、お客さんが誰もいないつむぎの店内で、ケンさんがうんうんと頷いた。足を捻った彼――()()(むら)(さだ)(あき)は、やはり湘海大陸上部・駅伝チームの三年生部員だったが、なんと選手ではなく彼らをサポートするマネージャーだという。今日は箱根駅伝に出場する仲間のために、自分でもコースを試走していたそうだ。蘭がささやかな疑問を抱きかけたのも、コーチやチームメイトを伴わないたった一人という姿に対してだった。


「もちろん僕も選手として箱根を走りたかったですけど、そこまでの才能はなかったので。監督からもはっきり言われましたし、二年の最初からマネージャー専任です」


 可憐が出してくれたパイプ椅子に腰かけた田ノ村は、スポーツマンらしくはきはきと自己紹介してくれた。蘭が三階の自室から持ってきた氷のビニール袋も、「ありがとうございます」と素直に受け取って、みずから足首にあてがっている。


「あ、そうだ」


 様子を見守っていた正が、田ノ村の言葉を聞いた直後に、何かを思い出した表情になった。


「下にスポーツ用の氷嚢があったと思うんで、取ってきます」


 言うが早いか、そそくさと外に出て階段を下りていく。店長みずから「なんちゃっての店」と豪語する一階の呉服屋は、最近では蘭の住居となった三階に代わって、すっかり物置扱いされている。


 ――いっそのこと呉服屋さんの方はたたんで、本当に倉庫か何かにしちゃったらどうですか。うちは立地もいいし、レンタル着物オンリーでも頑張ればやっていけると思いますけど。


 蘭がそう提案すると、


 ――ですよねえ。あ、それなら俺が一階に引っ越そうかな。蘭さんと一つ屋根の下ですよ。よろしくお願いしますね。


 などと相変わらず冗談だか本気だかわからない軽薄さで、のほほんと返されてしまった。一つ屋根の下、という言葉に不覚にもドキリとしたのはここだけの話である。

 マネージャー選任だと微笑んだ田ノ村を、ケンさんが再度賞賛した。


「いやいや、優秀なマネージャーの存在ってのは本当に大きいよ。日々の練習記録に選手のコンディション管理、エントリーする大会のルール確認、しかも湘海大みたいな強豪校はマスコミ対応とかもあるはずだし。そのうえ自分でも試走しておくなんて、素晴らしい仕事ぶりだ」


 先ほどよりも深く頷いて、さらに続ける。


「それに今年の湘海大は、優勝候補の一つだもんな。エースの(はら)君は一万メートルの代表候補だし、山に強い()(ばやし)君もいる。君がここを試走してたのも緋林君と、逆に下りの六区を任される選手のためだろう? 特に山下りのスピード勝負は、外から見てる以上に難しいからなあ」


 やや興奮気味にマニアックなコメントを述べるケンさんに、蘭は笑って尋ねた。


「ケンさん、詳しいんですね。マラソン好きなんですか?」


 若干失礼な質問になっているが、素人の蘭にとっては駅伝もマラソンも似たようなものなので仕方ない。


「あ、そうか。蘭ちゃんは知らないのね」


 本人より先に答えたのは可憐だった。

 どういう意味ですか? と不思議そうな表情をすると、ケンさん自身があっさりと教えてくれた。


「俺も一応、箱根駅伝を走ったことがあるんだよ」

「えっ!?」


 期せずして、蘭と田ノ村の声が重なる。


「一九八〇年の五十五回大会から、三年連続で出させてもらったんだ。最後の四年の時はまさにここ、五区の担当でな。惜しくも区間賞にはあと一歩だったけど」

「うわあ! 大先輩だったんですね!」

「凄いじゃないですか、ケンさん!」


 田ノ村と同時に驚く一方で、蘭はなるほどと納得もさせられた。還暦でも元気に人力車夫を続ける彼の健脚には、こうしたバックグラウンドがあったのだ。


「最年長にして一番人気の人力車夫は、伊達じゃないってこと」


 カウンターに戻った可憐が、まるで自分の祖父を自慢するかのように胸を張る。気っ風のいいキャラクターに加えて、湯本の街の隅々にまで詳しいケンさんは、実際に多くのリピーターを抱える人気車夫だ。


「ちなみに、どこの大学だったんですか?」


 すっかり憧れの表情になった田ノ村に、ケンさんはこれまたすんなりと明かす。


(かん)(とう)(きょう)(いく)大だよ。あ、今は(けん)(がく)大って名前か」

「うわあ、じゃあ研学大が一番強かった頃ですね! 凄いなあ!」


 ますます目を輝かせる田ノ村とは別の部分に、蘭は驚かされていた。


「ケンさん、研学大だったんですか!? インテリじゃないですか!」

「インテリってほどじゃねえよ。俺たちの時代は教員になりたかったら教育大か、みなと大ってのが、このへんじゃ定番だったからな。こう見えて若い頃、ちょっとだけ体育教師をやってたんだ」


 茨城にある研学大こと『(けん)(きゅう)(がく)(えん)大学』と、横浜の『みなと大学』は、いずれも国立の名門大学だ。ケンさんが語るように、教員養成の伝統校としても知られている。


 こう見えて、とか言われても、むしろしっくり来すぎるんですが。


 内心で苦笑し、蘭は彼の全身にさり気なく目を走らせた。いつも思うが、ケンさんは六十歳とは思えないほど引き締まった身体だし姿勢もいい。どういう理由で職を代えたのかは知らないものの、誰がどう見ても元アスリートか体育教師といった風情なのだ。


「謙遜してますけど、ケンさんは文字通りの文武両道ですからね。学生時代も大学院と実業団の陸上部、両方から誘われてたそうですよ」


 出入り口から正の声がした。「こっちに氷を入れ替えましょうか。ちょっと貸してもらっていいですか」と続けて店内に戻ってくる。

 自分で提案した通り、正はプラスチックキャップがついたスポーツ用の氷嚢を手にぶら下げていた。さすがに蘭はそういうグッズは持っていないので、田ノ村に手渡したのは冷凍庫から出した氷を、二枚重ねのビニール袋に急いでつっこんだだけのものである。引き続き足首にあてがわれているそれを見ると、溶け始めた氷によって袋の下部がふくらみつつあった。


「ありがとうございます」


 もはや何度目かわからないお礼を言って田ノ村がビニール袋を差し出すと、「あ、じゃあ私がやっときます」と、横から手を出した可憐が正からの氷嚢とまとめて受け取り、カウンターの内側に向かった。つむぎの受付カウンターには、ごく小さいものの一応流し台が付いているので、そこで氷を入れ替えてくれるようだ。


「ありがとう、可憐さん」


 作業を任せた正が、ふたたび田ノ村に向き直る。


「ところで田ノ村さん」

「はい」


 そのまま、お得意のへらりとした笑顔で口にしたのは意外な問いだった。


「田ノ村さんは、自分の意志でそうしてるんですよね?」 

「え?」


 本人より先に、蘭がぽかんと訊き返してしまった。


 そうしてる、っていうのはつまり、ええっと……。


 正の質問の意味が、いまいちよくわからない。だが当の田ノ村自身は、すぐに理解した様子だった。


「ああ、はい。もちろんです」


 ご心配なく、とでもいった感じの穏やかな笑顔で頷いてみせる。そうして彼は、短髪の下で目を細めて語った。


「選手としては厳しい、って言われたときはやっぱり悔しかったですけど、もう完全に吹っ切れてるので大丈夫です。市民ランナーとしてランニング自体は続けてますし、何よりも僕、今のチームが本当に好きですから。特に今年はいいメンバーが揃ったので、なんとかみんなに箱根で勝ってもらいたいと心の底から思ってます」


 つまり正は、田ノ村が嫌々マネージャーをやらされているのではないか、と危惧したらしい。


「そうか。なら良かった。さっきも言った通り、むしろ裏方さんの力で勝敗が分かれる部分もあるからな。君が納得して、前向きにマネージャーを務めてるなら何よりだ」


 やはり笑顔で口を挟んだのはケンさんである。それを訊いた蘭は、またしても「え?」と声を出すことになった。


「じゃあケンさんも、正さんと同じように思ったんですか? 田ノ村さんが、マネージャーっていう立場に納得してないんじゃないかって」

「納得してないっていうのは言い過ぎかもしれんが、少なくとも前向きな気持ちかどうかっていうのはちょいと引っかかったな。正君も同じだろう?」

「ええ」


 正と笑みを向け合ったケンさんは、灰色の眉をひょいと上げてその理由を述べた。


「なんせ、()()()()()()()()だからな」




「は?」

「どういう意味です?」


 ますます怪訝な顔をする蘭だけでなく、カウンターから戻ってきた可憐も小さく首を傾げている。「はい、どうぞ」と新たな氷嚢を彼女から差し出された田ノ村は、「ありがとうございます」と頭を下げながら受け取ったあと、少々恥ずかしそうに教えてくれた。


「保志野さんと角さんは、父の名前をご存知なんですね。そうです。僕、うちの監督の田ノ村(とし)(ゆき)の息子です」

「はあ」


 そう言われても蘭にはいまだにピンとこないので、間抜けな返事になってしまった。一方で可憐が、「あ、そっか!」と握りこぶしで反対の手のひらをたたく。


「つまり正さんとケンさんは、田ノ村さんがお父さんに、無理矢理マネージャーをやらされてるんじゃないかって心配したのね」

「まあぶっちゃけ、そういうことだ」


 ざっくらばらんな性格のケンさんが、言葉通りぶっちゃけて意図を明かす。


「湘海大陸上部・長距離部門の田ノ村監督は、かつて世界選手権にも出場した名ランナーで、陸上界では有名人なんだ。監督としては厳しい指導でも知られている。といっても理不尽なわけじゃなくて、チームの規律や和を何よりも大事にするタイプだって聞いたけどな」

「ああ、なるほど」


 ようやく蘭にも理解できた。その厳しい人によって、田ノ村は一方的にマネージャーにされてしまったのでは、と正とケンさんは危惧したのだ。彼の名字から、おそらくは監督の息子だろうと察して。


「見た目もお父さんに似てるよな。日本人にしては濃い感じの、沖縄あたりにいそうな男前だ。はっはっは」


 父親の顔を知っている様子のケンさんに、田ノ村がリアクションに困った微妙な笑顔を返す。だがたしかに、彼の太い眉やくりっとした大きな目は、南国あたりが似合いそうではあった。


「でもなんで、正さんまで田ノ村さんのお父さんについて知ってたんですか?」


 いくら陸上界の有名人とはいえ、田ノ村俊之という元選手の名前を、蘭はまったく知らなかった。可憐もそうみたいだし、世間一般の多くの人が同様ではないかと思う。日本代表選手と言えど、オリンピックでメダルでも獲らない限りはそんなもののはずだ。


「俺も陸上はまったくの門外漢ですけど、卓也が田ノ村監督にインタビューした記事を以前、読んだんですよ。やっぱり箱根駅伝前の時期で、あいつのところのタウン誌が湘海大を特集したんです」

「ふーん。そういうわけだったんですね」


 納得して二度、三度と頷いた蘭は、ふとひらめいて「おかしいなと思ったんですよ。スポーツって言葉が一番似合わない感じの、ずぼらでマイペースな正さんなのにって」と、わざとらしくからかってやった。普段振り回されている身だし、これくらいはいいだろう。

 が、所詮は敵うはずもない。


「いやあ、ありがとうございます。そうやって常日頃から俺を見てくれてるんですね。じゃあやっぱり、一階に引っ越そうかな」

「なんで喜んでんのよ!」


 今回もタメ口でつっこんでしまったところで、「こんにちは!」「お邪魔します」と智と卓也(今日はハチリンではなく、本人の姿だ)が連れ立って現われた。なんだかんだで、いつもの面々が勢揃いである。


「あはは。なんだか賑やかなお店ですね。レンタル着物屋さんて、もっとこう、すました感じの敷居が高いイメージを勝手に持ってました」


 屈託のない笑顔に戻った田ノ村は、自分を囲むメンバーを見て、あらためて興味津々の様子だ。言われてみれば……と、蘭も今さらとはいえ苦笑が浮かんでくる。すっとぼけた残念イケメン店長に、芸者にして仲居さんみたいなアシスタント。しかも慣れた雰囲気で店に入ってくるのは、人力車夫のおじいさん、いかつい大男、そして礼儀正しいお坊ちゃま。


 うん、たしかにレンタル着物屋っぽくないかも。


 直後に慌てて自覚する。


 ていうか、私もか。住み込みの従業員にいたっては、でかくて可愛げのない元公務員のアラサー女だもんなあ。


 眉をハの字にしていると、田ノ村は「けど、明るい雰囲気で凄くいいですね」とも言ってくれた。


「うちの部と似てるかも。それぞれがライバルだけど全員仲が良くて、おたがいをリスペクトしてて。だから僕、本当にチームメイトたちが大好きなんです。もし別の家に生まれていても、やっぱり同じように納得してマネージャーをやってたと思います。あいつらに絶対箱根で勝って欲しいし、自分もみんなの一員だっていうのが誇りですから」


 朗らかな彼の顔は、力強い言葉に嘘がないことをしっかりと照明していた。




 その後、「なんとか歩けそうですし、電車で帰ります」と言う田ノ村を、蘭と正が駅まで見送った。


「お大事に」

「箱根駅伝、私も湘海大を応援しますね」

「ありがとうございます。当日は混雑しますから、沿道で観られる際はお気をつけて。って、怪我した僕が言っても説得力ないですね」


 冗談も出てくるほど落ち着いた田ノ村は、二人と明るく挨拶を交わして箱根湯本駅の改札を抜けていった。少し引きずり気味ではあるが、本人の言葉通り自力で歩けているし、そこまでひどくはなさそうだ。


「あれなら、お正月には無事にマネージャーとして活躍できそうかな」

「ですね。私、箱根駅伝は今までテレビでちらっと見たりしてただけですけど、当日はお店の前で応援します! もちろん田ノ村さんも含めて!」


 すっかり湘海大ファンになった蘭が力強く宣言すると、正も「自分の家柄なんて気にしない立派なスポーツマン。格好いいですね」と大きく頷いてくれた。

 だが蘭は、その口調にほんの少しだけ違和感を抱いた。ほぼ毎日接している身だからこそ、わかったのかもしれない。


「正さん?」


 店に戻る道すがらの陸橋型デッキ。手すりの向こうにはメインストリートの国道一三八号線、そして最初に正と出逢ったバスロータリー前の歩道と、以来彼と一緒に過ごす場所となった、つむぎのビルがはっきりと見える。


「正さん」


 意を決した蘭は、語尾を上げずにもう一度名前を呼んだ。


「ぶしつけな質問ですし、答えたくなければ答えなくていいですけど――」


 ひょっとしたら「なんです? 愛の告白とか?」と、いつものようにへらりと混ぜ返されるかとも思ったが、そうはならなかった。正は穏やかな微笑をたたえたまま、じっとこちらを見つめている。

 自分からもしっかりと視線を合わせて、蘭は問いかけた。


「正さん、ひょっとしてご実家と仲が悪かったりするんですか?」


 以前から、なんとなく気にはなっていた部分だった。


 ――ここは僕を守って、育ててくれた場所ですから。


 働き始めたばかりの頃、正はそう言っていた。一方で自身の家族や出自、幼い頃の思い出などについての具体的な話はまるで聞いた覚えがない。せいぜい卓也と同級生という程度だ。この三ヶ月、毎日のように近くで過ごしてきたくせに、自分は保志野正という雇い主のプロファイルをあまりにも知らなすぎる。


 若いのに和服が好きで詳しい人。

 ちょっと変わり者だけど、ご近所さんに愛されてる人。

 箱根の、特に湯本の街が好きな人。

 ありのままの姿でいるのが、いられるのが、好きな人。

 私に新しい生活をくれた人。


 でも――。


「私、正さんのこと、ほとんど知りません。なんで湯本が好きなのか。なんでつむぎをやってるのか。いつからこの街にいるのか。どんな子どもだったのか。ご家族はどんな人たちで、どんな夢があって、どんな趣味があって、どんな……」


 途中から自分でも何を喋っているのか、わからなくなってきた。けれども根っこにある想いだけはわかる。胸の奥から湧いてくる気持ちだけは、わかる。


「教えて下さい。正さんのこと。もしご実家と折り合いが悪くて、困ってたりするんだったら、私なんかでも何かできるんだったら、力にならせてください」


 続くひとことは、無意識のうちに口から滑り出ていた。


「私はあなたの、つむぎの、看板娘ですから」

「ありがとう」


 見つめ合った目を逸らさないまま、正もまた真剣な声音で返してくれた。直後にふわりと表情を緩めて、「ここじゃなんですから、ちょっと向こうで話させてください」と早川の方を指さしてみせる。


「ほら、こういう話って、河原とかが似合うじゃないですか。青春ドラマっぽくいきましょう」


 その声と笑顔は、すっかりいつもの正である。


「わかりました」


 蘭も微笑んで、足を踏み出す彼の背中に付いていった。

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