箱根湯本のランナー 1
季節は過ぎて師走。クリスマスシーズンということもあり、箱根湯本もますます観光客が増えてきた。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、どうもありがとうございました。楽しんでいただけましたでしょうか」
声を揃えてカウンターに戻ってきたお客さんを、蘭は笑顔で出迎えた。先ほどまで着物をレンタルしていた、若い女性だけの華やかな三人組だ。
「はい! とっても楽しかったです!」
アイドルみたいに大きな目をきらきらさせて、一番小柄な女性が代表して支払いを済ませる。彼女の後ろで、
「超はしゃいじゃった。衣装でもあんまり着ないから、嬉しかったな」
「写真、いっぱい撮ったんで、黒木田さんたちにも送りましょう」
と、やはり満足そうに語り合う二人も負けず劣らず魅力的で、片方はエキゾチックな顔立ちをしたスレンダーな美人、写真を送ろうと語ったもう一人も、古風で真面目そうな感じの和風美人である。三人で休みを合わせて箱根へ「女子旅」にきたそうだが、会話から察するに、少なくともスレンダー美女は人前に出る職業なのかもしれない。
桃絵さんとか喜代乃さんが見たら、まとめてスカウトしちゃいそう。
カード支払いの明細書を渡した蘭は、すっかり仲良くなった湯本芸者の二枚看板を思い浮かべた。先月知り合った女子高生のレイチェルもそうだが、どうも最近、綺麗な女性と出逢ってばかりの気がする。そんな自分自身が逆に、
「あの受付のお姉さんも、ダンサーさんみたいですね」
「私も思った! 着物のモデルさんも兼任してるんじゃない?」
「それか箱根ですから、副業が芸者さんとかなのかもしれません」
などと、彼女たちに噂されていたとは知るよしもない。
なんにせよ今日は週末ということもあって、午前中からこうしてお客さんが途切れない。今は昼休み中の可憐と、そしてめずらしく正も真面目に動き回って、つむぎはなかなか忙しい一日となっている。
「蘭さんの、IT戦略のお陰ですね」
三美人を見送りようやく一息ついたところで、その正が入れ替わるように店内に戻ってきた。彼の方は逆に、これから着物姿で出かける別のお客さんを外まで送っていたところである。
スリッパに履き替えた正は、来客用の緑茶を二人ぶん用意して、一つをこちらに差し出してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
さすがにちょっと疲れたので、蘭も遠慮なくもらうことにする。小さなサーバーから紙コップに注ぐだけのごく一般的な冷茶だが、てきぱきと口と身体を動かしての接客を重ねたあとなので、全身に染み渡るような美味しさだった。
「ITなんて大袈裟ですよ。普通にSNSを始めただけなんですから」
緑茶を飲み干した蘭は、軽く笑ってカウンターの内側に戻った。マウスに手を置き、起ち上げたままにしてあるノートパソコンのブラウザを開く。
「あ! 今のお客様、うちのハッシュタグつけて、さっそくフォトグラに上げてくださってます!」
ブックマークからアクセスしたのは、世界中で愛用されている写真投稿SNS『フォトグラム』のつむぎ公式アカウントである。言葉の通り、正に提案して蘭が始めたものだ。通称「フォトグラ」と呼ばれるこれだけでなく、短文投稿型の『ザ・マター』という同じくポピュラーなSNSも合わせてスタートさせ、メインとなる商品の写真などは連動して投稿されるようにしてある。
「大吉さんとかにも行かれたみたいですね」
液晶画面に《#箱根 #レンタル着物 #つむぎ #女子旅 #湯葉丼》といったハッシュタグとともに、湯本の様々な場所を背景にした、先ほどの三美人の写真が次々に表示されていく。顔だけは大きなスタンプで隠してあるが、艶やかな着物姿をしっかりアピールしてくれているのもありがたい。蘭が彼女たちのアカウントを発見したのも、これらのハッシュタグで検索をかけたからだった。
「素敵なお三方でしたね。加瀬様と小沼様と、仙道様」
前もってのネット予約だった三人の名字を、蘭はそらで口にしてみせた。狭い田舎町で働いていたこともあり、人の名前を覚えるのは得意なのである。
「うちの看板娘だって、負けてませんよ」
「はいはい、ありがとうございます」
軽く肩をすくめて正のリアクションは受け流しておく。最近ようやく、彼のイケメン詐欺発言に耐性(?)が付いてきた気がする。先日、そんな様子を見たケンさんと智から、
「お、蘭ちゃんもすっかり、正君の操縦法を身に着けた感じだな」
「ほんとに夫婦みたいですね」
などと、これまた以前なら即座につっこんでいた感想を述べられたが、蘭はそれに対しても「たった三ヶ月ですけど、散々振り回されてきましたから」と、堂々と答えてみせたものだ。
私も、ちょっとは成長したのかな。
正のあしらいが上手くなったことが、果たして成長と言えるかどうかはさておき、相変わらず楽しく仕事はできている。充実した気持ちのまま、蘭は帰ってきた可憐と入れ替わりで昼休みをもらい外に出た。
「あ」
蘭が思わず声を上げたのは、徒歩一分の場所にある、カフェというよりはまさに「喫茶店」で、すっかり顔馴染みになったマスターお手製のナポリタンを食べたすぐあとのことだ。
つむぎに戻ろうと歩き始めたところで、鮮やかなブルーのTシャツが視界に入った。
午前中とおんなじ人だ。
観光案内所に面したバスロータリーの向こう側、湯本のメインストリートとも呼ぶべき国道一三八号線を、短髪の男性ランナーが軽快に走り去っていく。長袖のアンダーウが包む細い腕と、同じ色のロングスパッツに短パンを重ねた下半身。
やっぱり選手なのかな。
そんな感想も抱いたのは、Tシャツの背中に《SHOKAI UNIV.》という大きな金色の文字が読み取れたからである。
箱根湯本駅前は、お正月に開催されるあの箱根駅伝のコースにもなっている。蘭の目の前を通り過ぎた彼は、今年も本選に出場する地元の強豪『湘海大学』の陸上部員らしかった。格好や走り方から見ても、長距離選手なのは間違いない。車に気を遣ってだろう、道路脇に引かれた白線のさらに向こう側、わずかな隙間を走るところからも公道に慣れたランナーだというのがわかる。
まったく同じ人物を蘭は三時間ほど前、レンタル着物に着替えたあの美女三人組を、店の外まで見送った際にも目にしたのだった。
でも、なんで――。
ささやかな疑問を抱きかけた蘭は、だが直後にふたたび声を出していた。
「あっ!」
ゆるやかな坂道を駆け下りるランナーの右足が、駅前交番の前あたりでおかしな方向に曲がったように見えた。
「おい!」
ほぼ同じタイミングで、やはり声を発した人物がいる。一瞬だけ呆然となってしまった蘭を尻目に、足を捻ったランナーの方にその人がいち早く駆け寄っていく。
「ケンさん!」
遅れて走り出しながら、蘭は前を行く背中に呼びかけた。白髪を刈り込んだ坊主頭に、細身のデニムパンツ。崩した平仮名で《すみけん》と記してある紺色の法被。人力車夫のケンさんこと、角賢一だった。
「おう、蘭ちゃんか! 悪いけど手伝ってくれ!」
「はい!」
ケンさんはちらりと振り向いただけだが、以心伝心よろしく蘭もすぐに心得た。つむぎや湯本の街中でしょっちゅう顔を合わせている間柄だし、もはや親戚のおじさんみたいなものだ。何をして欲しいのかも自然と理解できた。
「兄ちゃん、とりあえずこっちで休め!」
ケンさんが、もう一度ランナーに呼びかける。車道を渡って直接様子を見るのは彼に任せ、蘭はアイコンタクトに従ってその左右を見張ることにする。もしタイミング悪く車が通りそうになったら、即座に両手を振ってアピールし、いったん止まってもらうつもりだった。
「すみません、ありがとうございます」
「気にすんな。一度、あっち側の広い方に行こう。立てるか?」
恐縮するランナーと、優しく答えるケンさんのやり取りが聞こえる。ケンさんの言葉通り、湯本駅前交番をわずかに過ぎたこの位置は、立ち並ぶバス停に添う形で片側に幅広の歩道が設けてあるのだった。逆にランナーの彼が走っていた側は、すぐ脇に箱根登山鉄道の線路が迫るだけなので、下手に座り込んだりもできないだろう。
幸い車が通ることもなく、ランナーはケンさんに肩を借りて、蘭の待つ歩道側へと無事辿り着いた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます。ちょっと捻っちゃったみたいで」
「ええ。たまたま見てました」
答えた蘭は、笑顔で申し出てみた。
「あの、私が働いてるお店がすぐそこなんで、良かったらいらしてください。氷ぐらいは出せますから」
「そうだな。とりあえず、つむぎで応急手当した方がいいだろうな。階段は俺がおぶってくから大丈夫だ」
ケンさんも同意する。ランナーの男性は「いえ、そこまでしてもらうわけには……」と恐縮していたが、ケンさんが有無を言わさず、その身体をひょいと背中に担ぎ上げてしまった。
「うわっ!」
「どうせこの足じゃ、満足に歩けねえだろうが。遠慮すんな。ほら、いくぞ」
「す、すみません」
かくして蘭は、ケンさんと力を合わせて思わぬ人助けをすることとなった。




