箱根湯本の女子高生 4
「ていうか正さん、英語喋れたんですね」
「蘭さんほどじゃないですよ。うちも外国人のお客様は多いので、挨拶や商品の説明がなんとかできる程度です」
明らかに「なんとかできる」どころではないレベルの発音だったような気もするが、けろりと答えて正は蘭の隣を歩いていく。
ちとせ駅前店からさらに奥、街を流れる早川と支流の須雲川がちょうどY字型に合流するエリアに花鳥風月は建っているので、蘭たちは来た道を少し戻る形になった。といっても、ほんの五分程度の道のりだ。
メインストリートとも言える国道一三八号線から一本奥、通称『早川通り』に入ると、すぐにあの湯本見番が見えてくる。そして目指す大吉は、見番から目と鼻の先にあった。
「お、並ばないで大丈夫そうかな」
店の前に着いたところで正が満足げに頷いた。出入り口には、《営業中》と手書きされた木製の看板が出ている。
これまた人気店の大吉は、休日には案内待ちの列ができるのもめずらしくない有名レストランだ。順番を待つお客さんのために、玄関前の広場には足湯まであるほどで、ちとせと同じく蘭はこちらもまだ利用したことがなかった。
店に入ってすぐの場所は革張りのソファや置物、順番待ち用の券売機などが置かれた広いロビーになっていた。左手に見える大きな暖簾が、レストランの入り口だろう
「リョカンみたいなお店ですね」
「その通り。実際に古い旅館をリフォームした店なんだ。立派なロビーは当時の名残で、レストランの場所ももとは宴会場だったんだよ」
「Wow! 素敵です!」
レイチェルと正のやり取りを聞いて、蘭もなるほどと納得できた。言われてみればたしかに旅館ぽい。ロビーのつきあたりにはガラス張りの扉があって、外はウッドデッキに繋がっている。
これはたしかに、人気が出るお店ね。
うんうんとグルメレポーターよろしく勝手に頷いていると、智が隣に並んできた。
「僕も大吉さん、久しぶりです。楽しみだなあ」
「いつも混んでるんだよね」
「はい。うちの旅館でご飯食べたのに、わざわざ大吉さんにも行くっていう人が沢山います」
「花鳥風月さんのお料理も、相当美味しいって聞くけど。孝典さんも凄いみたいだけど、料理長さんがさらに有名な方なんでしょう?」
「あ、横須賀さんですね。はい、見た目はいかついけど、盛り付けも綺麗で凄く美味しいですよ。弟さんも食べ物関係のお仕事してるって言ってました」
「へえ。凄いんだね」
これはますます花鳥風月にも一度は泊まってみなければ、と笑顔で決意してから、蘭も智と並んでレストランに入っていった。
「いらっしゃいませ! おお、正君か。久しぶり」
暖簾をくぐると左手にあるカウンターから、五十がらみのおじさんが気さくに挨拶してきた。口ひげを生やした、和食屋というよりはバーのマスターのような雰囲気の男性だ。名前を呼ばれた正もにこやかに会釈する。
「こんにちは、中田さん。ご無沙汰しちゃってすみません」
「いやいや、混んでる時間が多いから遠慮してるんだろ? 湯本に来てくれたお客さん優先だからって、前も順番譲ってあげてたじゃん」
「ああ、そんなこともありましたね」
正の地元愛やホスピタリティは、自分の店以外でも発揮されているようである。話を聞いて、蘭はなんだか誇らしくなった。
あとはこれでキリッとしてれば、かなりポイント高いんだけどなあ。
心のなかだけで苦笑したタイミングで、中田さんは蘭にも声をかけてきた。
「お、噂の看板娘さんも一緒だね。なるほど、こりゃあたしかに別嬪さんだ」
「はじめまして。つむぎの巡業員、明海と申します」
慌てて挨拶を返すと同時に、またしても自分の存在が知られていたので蘭は驚かされた。少々不安にすらなってくる。
「安心してください。うちに来たお客さんたちが、よく蘭さんのことを褒めてくださってるみたいで、湯本の皆さんも会いたがってるんですよ」
「そうなんですか?」
心を読んだかのような正の説明は嬉しかったが、いまいち信じられない気持ちでいると、中田さんが「本当だよ」と頷いた。
「商売っ気のない店長に、ついにやる気を出させた切れ者の美人秘書。おまけにみずからモデルにもなって、レンタル着物を宣伝してくれるスーパーレディ。しかもすでに正君と一緒に住んで――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
いろいろと尾ひれが付いたうえに最後は完全に誤解なので、蘭は慌てて言葉を遮った。
「一緒に住んでるんじゃなくて、お店に住み込んでるだけです! それに私は秘書でもスーパーレディでもなくて、単なるアシスタントですから!」
「あれ? そうなの? 元女優さんじゃないかとか、他の街で芸者さんやってたんじゃないかとか噂されてるけど」
「いえ、ただの元公務員です」
「へえ。公務員さんでも、こんなに綺麗な人がいるんだねえ」
お会計に来るお客さんがいないからか、中田さんはのんびりと、現役の公務員から怒られそうな感想を述べている。
「たしかに僕にとっては、スーパーレディですけどね。残念ながら一緒には住んでくれてないですけど」
「正さん!」
例によって誤解を招きそうな発言をする正に、蘭はすかさず抗議した。が、当の本人は気にも留めず、「あ、窓側も空いてますね。じゃあ、あそこいいですか?」と窓際の席にさっさと歩いていってしまう。
「蘭さん、有名人だもんね」
「さすが蘭Momです」
智とレイチェルにまで笑顔で言われてしまった蘭だが、席に着いた途端に機嫌を直すことができた。
「あ!」
ガラス戸の向こう、ロビーから回廊状に続くウッドデッキを挟んで、いくつもの光が目に飛び込んでくる。目の前の早川が、陽光を美しく反射して今日も穏やかに流れていた。ガラス戸を開けば、耳に心地良いせせらぎの音も聞こえることだろう。
「いい眺め!」
「ですね!」
風景に見とれる蘭とレイチェルに、店を訪れた経験のある正と智も嬉しそうに頷く。
「たまたまでしょうけど、窓際の席が空いてて良かったです」
「綺麗な景色と一緒に食べると、湯葉丼も余計に美味しいですよね」
元気に語る智の台詞に、正面のレイチェルが怪訝な顔をした。窓際の椅子にレイチェルと智、それぞれの隣に蘭と正という形で四人はテーブルを挟んで座っている。
「ユバドン?」
「はい。大吉さんの名物で、凄く有名なんです」
「ユバって、お豆腐のファミリーだよね? 薄い膜みたいな」
可愛らしく顎に指を当てるレイチェルに対し、今回は智が説明役を買って出る。
「そうです。大吉さんの湯葉丼は卵でとじた熱々のそれを、ご飯に乗せて食べるんです。他には豆腐ぜんざいとか豆乳アイスとかもあって、どれもとっても美味しいですよ」
「デザートもあるの? 面白そう! 全部食べてみたい!」
青い瞳を輝かせたレイチェルだったが、すぐに「あ!」と正の方を見た。すでに察していた蘭も、微笑んで彼に目を向ける。
「Yes, you guessed it. レイチェルのおばあちゃんが言ってた『プリンセスの食べ物』は、きっと湯葉とか豆腐のはずだよ」
またもや流暢な英語を交えて、正が笑顔で頷いた。
数分後。
「はい、お待ちどおさま。湯葉丼に湯葉刺し、豆乳寒天に、豆腐ぜんざい、と」
さっきの中田さんが、一同が注文した品々をみずから持ってきてくれた。待っている間に正が語ったところによれば、中田さんもまた自分と同じオーナー店長だという。もともとは旅館としてこの店を継いだものの、数ある料理のうちの一つだった湯葉丼が口コミで大人気となったため、一念発起して和食レストランに方針転換して成功を収めたのだそうだ。
「俺と違って、経営の才がちゃんとある人なんです。表の足湯や、順番が来たら携帯に知らせてくれるシステムとかもそうですけど、お客様へのおもてなしと商売をきちんと両立させてて、本当に凄いと思います」
まるで他人事のように語る正だが、己に商売っ気がないことは一応自覚しているらしい。
「でも正さんだって、おもてなしの心なら負けてませんよね」
ここは素直な気持ちで蘭がフォローを入れると、「さすが蘭Mom、よく見てるんですね。ナイジョノコーです!」と、レイチェルがなぜか嬉しそうに、小難しい言い回しを口にする。
「……レイチェル、じつは覚えた日本語の練習台に私を使ってない?」
出会って半日と経っていないものの、すっかり気心が知れてきたこの美人女子高生を蘭はわざとらしく睨んでやった。レイチェルもレイチェルで「あ、バレました?」などといたずらっぽく返すが、そんな姿もやはりキュートなので苦笑して許すしかない。
「でもどうして湯葉とかお豆腐が、プリンセスの食べ物なんですか?」
笑みを収めたレイチェルがあらためて尋ねる。正からの答えは、次のようなものだった。
「もう少し山を上った先の大平台に、『姫の水』っていう有名な湧き水があるんだ。戦国時代、小田原一帯を治めていた北条氏の佐保姫っていうお姫様が化粧水にしたとも言われる、女性に人気の綺麗な湧き水でね。大吉さんの湯葉や豆腐は、その姫の水を使って作られてるんだよ」
「そっか、だからプリンセスの食べ物なんですね! センゴクジダイって、五百年くらい前ですよね? そんなに昔からの、それも本当にプリンセスが使ってたお水なんてチョー素敵!」
外国人だからこそ、逆に日本の歴史をしっかり勉強するのかもしれない。レイチェルは戦国時代という単語も理解できるようだ。そして何より、プリンセスの食べ物の種明かしと由緒あるエピソードに、青い目をまたきらきらさせている。
「そういうこと。うちの店で話を聞いた時点ですぐに思い浮かんだんだけど、せっかく湯本に来てくれたんだしと思って、いろいろ食べ歩きもしてもらったんだ。スイーツが先になっちゃって悪かったけど」
「とんでもないです! 着物まで着せてもらえて、めっちゃ嬉しいです!」
「なら良かった。日本での楽しい思い出が増えたなら、俺たちも嬉しいよ」
「増えました! 今日のことも一生忘れません! 正Dad, Thank you so much!!」
ご機嫌のあまりか母国語も混ざるなか、レイチェルはポンと手を叩いた。
「そうだ! 今、おばあちゃんにキズナで答え合わせしてみますね」
『キズナ』というのは、チャットや無料通話ができる定番のスマートフォンアプリである。老若男女に浸透しているし、レイチェルの「日本のおばあちゃん」も問題なく使えるのだろう。
テーブルに並んだ料理の写真と合わせてレイチェルがメッセージを送ると、即座に返信がきた様子だった。
「Yes! We did it!」
今度も英語で喜びつつ、スマホの画面を全員に見せてくれる。文面を見るに、日本のおばあちゃんもなんだか楽しそうだ。
《That's right! だいせいかいよ、レイチェル。よくわかったわね》
さらに表示される、続けてのメッセージ。
《けっこうdifficultだと思ったんだけど、だれかくわしい人にたすけてもらったの?》
キズナを使いこなすだけでなく、英語まで達者な様子のおばあちゃんは、本当に若々しい人だと思われた。平仮名が多いのは、さすがに漢字はまだ苦手だというレイチェルを気遣ってだろう。優しい性格であることも窺える。
「皆さんにヘルプしてもらったって、おばあちゃんに伝えてもいいですか?」
レイチェルの問いに、もちろん反対する者などいない。全員が「うん」と揃って頷くのを確認した彼女は、素早いフリック入力であっという間にその旨をおばあちゃんに伝えた。
するとやはり間髪入れずに返信が来たようで、またスクリーンが皆に向けられる。
《ああ、つむぎのかたたちだったのね。まえに着物をかりたおともだちから、イケメンのてんちょうさんがいるってきいたけど、どう? そんなにかっこいいの?》
「正さん、有名人ですね」
嬉しそうに笑う智とは対照的に、蘭はいろいろな意味で苦笑してしまう。店を訪れたことのない人にまで知られている正のイケメン詐欺っぷりに関してもだし、おばあちゃんの、それこそ女子高生のような反応についてもだ。
中身はへらへらした超マイペース人間です、って言ってやろうかしら。
小さく肩まですくめたところでレイチェルが、「おばあちゃんに正さんの写真、送ってもいいですか?」と、なかば予想通りの質問をしてきた。
「別にいいよ。お店にも是非いらしてくださいって、よろしくね」
特にこだわりはないようで、正もにこやかにOKする。少しだけ店長っぽいこと言っているが、彼の性格だから、ただ単におばあちゃんに会ってみたいだけかもしれない。
「OK。あ! じゃあせっかくだから、みんなで撮りましょう!」
ご機嫌のレイチェルが、手を伸ばして自撮りをしようとしたいいタイミングで、中田さんが来てくれた。
「お、記念写真? 良かったら撮るよ」
「ありがとうございます!」
外国人美少女に「お願いします」と笑顔でスマートフォンを差し出され、ナイスミドルな中田さんもさすがに顔を緩めている。そうして撮ってもらった四人の写真を、レイチェルは素早くおばあちゃんに送信した。
《たのしそうね! それにほんとうにイケメンてんちょうさんね。でもざんねんだわ。まあ、これだけかっこよければとうぜんだけど》
今回もたった数秒で返ってくる、おばあちゃんの言葉。レイチェルが見せてくれたそれを読んだ蘭は「残念?」と、よくわからない部分を口に出してつぶやいた。意味を確認するべく、すぐ上に表示されている自分たちの写真と、レイチェルからのコメントに目を移す。
「ちょ……!? レイチェル!」
「だって、正Dadと蘭Momですから」
そのDadの影響を受けたかのようにしれっと語る彼女は、一つ前になんと次のような文章を送っていた。
《私のしょうめんにいるのが、かちょうふうげつのSon,Tomo。で、TomoのむこうがつむぎのTadashiてんちょう。かっこいいでしょう? けど、私のとなりにいるbeautiful ladyのRanさんがhis wifeだから、おばあちゃんはアタックしちゃだめだからね!》
「いやあ、格好いいなんてやっぱり照れるなあ」
「他に言うことあるでしょう! さっさと否定してください!」
目を剥く蘭と、例によってへらへらと笑う正。そんな二人を見て微笑む智とレイチェル。
プリンセスの食べ物を囲む四人の姿は、やはり仲睦まじい家族みたいだった。
「なるほど。そういえば姫の水があったわね。全然気がつかなかったわ」
留守番のお礼にと買ってきた、ちとせの湯本餅をさっそく口してから、可憐がカウンターの向こう側で感心する表情をみせた。
大吉での食事から一時間後。つむぎでもとの服装に着替えたあと、「今度はお友達と、ちゃんとしたお客さんとして絶対にまた来ます! ありがとうございました!」と何度も感謝して、レイチェルは笑顔で帰っていった。「僕もそのまま仕事に戻るよ」というボディランゲージで、最初と同様にハチリンが駅まで付き添い、今は残った面々で一息ついているところだ。
「プリンセスっていう言葉だと、どうしてもスイーツを連想しちゃいますもんね」
「まさか湯葉とかお豆腐だなんて、考えもしなかったです」
蘭と智も苦笑して頷く。最初から答えがわかっていた正だけは、二人と並んで座りながらのほほんとした表情である。
「まあ普通はそうだよね。俺も街をうろつくなかで中田さんから聞くまで、知らなかったエピソードだし」
「てことは、正さんがふらふらしてるのもたまには役に立つってことですか? 従業員としては、なんだか複雑ですけど」
小さく笑った蘭が言ってやると、「店は可憐さんと蘭さんがいれば、大体の業務は回っちゃいますからね。俺はほら、自由に動ける営業マンみたいなもんです」と、いつもの調子でしれっと返された。「自由」の度が過ぎる感もあるが、その結果であろう豊富な人脈や知識に助けられたばかりなので、一応は素直に認めるしかない。
「なんにせよ――」と正が続ける。
瞬間、蘭はおや、と眉を上げた。彼の瞳が、どこか遠くを見るような光をたたえている。
「ちょっと話を聞いたり、ぱっと目に入っただけの印象じゃ、本当の姿とか裏側に隠れてるものはわからないってわけです。何事もそうだけどきちんと向き合って、触れ合って、先入観なしに素直な気持ちで受け止めるのが大事なんじゃないかな」
めずらしく真面目に締めたものの、直後に「あ、チョーいいこと言いましたね、俺」などと付け加えるのが、やはりこの人らしい。けれども内容には蘭も心から共感できたし、不覚にも(?)、
すましてこういう台詞だけ喋ってれば、格好いいのに。
などとも思ってしまった。
「ですよね。逆の立場になったとしても、色眼鏡抜きで接して欲しいですもんね」
同意してから、今ではそうした人々に囲まれて暮らす我が身の幸運を、あらためて自覚する。公務員時代のように、結婚して子どもを持つのが当たり前だと、蘭自身もそれを望んでいるのだと、決めてかかってくる失礼な人間はもう周囲にいない。自分を迎え入れてくれた箱根湯本の住人たちは、お世辞抜きに温かい人たちばかりなのだ。
だから、つむぎでの毎日がとても楽しい。これからも偏見なく見つめて欲しい。
「正さんみたいに」
無意識の笑顔とつぶやきがこぼれたところで、「すみません」とドアが開いた。お客さんが入ってくる。
椅子から素早く立ち上がった蘭は、朗らかな声を張り上げた。
「いらっしゃいませ! ようこそ、つむぎへ!」




