箱根湯本の女子高生 1
「蘭さんがそばにいてくれると、俺も嬉しいです」
わかってはいても、やはりドキリとさせられる言葉を蘭が正からかけられたのは、十一月に入ってすぐの週末だった。
つむぎでの仕事に慣れ、湯本芸者の桃絵や喜代乃をはじめ顔見知りも増えてきた最近は、毎日がますます充実している。慌ただしい転職だったので、いまだに住居はかわせみ町のままだが、いっそ近くに引っ越そうかと思い始めた矢先のことだ。
「はい?」
頬のあたりが少しだけ熱くなったのを感じるも、なんとか冷静さを保って蘭は訊き返した。どうせまた何も考えていないか、あとから別の話が続くイケメン詐欺(と勝手に命名した)発言だろう。
案の定、「なので」と続けた正は予想外の提案をしてきた。
「良かったら、ここに住みませんか?」
「は? ここって、ここですか?」
怪訝に思うあまり、よくわからない確認の仕方になってしまった。ここというのは要するに、つむぎの店そのものだろうか。つまり――。
「ええっと、住み込みで働けってことですか?」
「ええ。もちろん命令じゃありません。ようやく居住スペースが空いたので、よかったらどうかと思って。かわせみからだと乗り換えも挟むし、それなりに遠いでしょう」
「まあ、そうですね」
電車通勤の蘭は、相変わらず片道四十分ほどかけて湯本まで通っている。観光客として訪れた際は大した距離ではないと感じたが、小田原駅での接続が悪ければ一時間弱かかってしまう場合もあるので、たしかに近いとは言えない。引っ越しを考え始めた理由の一つも、じつはそこだった。
「従業員割引で、家賃は水道・光熱費やネット代込みで二万円。通勤時間は〇分。忘れ物をしても秒殺で取りに帰れますし、俺や可憐さんの家も近所です」
「えっ! 二万円!?」
まるでアピールポイントになっていない最後のひとことにつっこむのも忘れて、蘭は目を見開いた。従業員価格にしても安い。いや、安すぎる。しかも水道・光熱費とネット代まで込みとは、地方の山奥にでもいかない限りそんな物件はないだろう。ちなみに、蘭が今住んでいる女性専用アパートの家賃は五万五千円である。過疎指定を受けた田舎町ですらそれくらいの相場なのだから、破格もいいところだ。
「まさか事故物件とかじゃないですよね。前に誰かが亡くなってるとか、あんなものやこんなものが出るとか」
自分の職場ながら失礼な質問をしてしまったあと、「ていうか――」とそもそもの大前提を確認しておく。
「うちの店、住める場所なんてあるんですか?」
「ええ。蘭さんもよく知ってる部屋ですよ」
よく知ってる部屋、と言われて蘭も「あ」と気がついた。
「ひょっとして、三階ですか?」
オーナーが正の知り合いだとかで、三階建ての全フロアをつむぎが格安で借りているというこのビルは、一階が店長みずから「なんちゃっての店」と語るささやかな呉服店で二階がつむぎ本体である。そして三階は、たしかに店でも事務所でもない。ただ、蘭がほとんど足を踏み入れたことのないそこは、様々な備品が置かれた物置兼倉庫のような場所ではなかったか。実際、可憐や正が段ボールを持ち出したりする様子を、たびたび目撃している。
だが正によれば、本来は物置ではないという。
「可憐さんにも手伝ってもらって、余計なものをそれぞれの家に運んだり処分したりしてたんですけど、昨日でようやく片付いて元の居住スペースっぽくなったんです。だから蘭さんの住まいにちょうどいいかなって」
「あそこ、居住スペースだったんだ……」
まるで想像していなかった蘭は、ぽかんとするしかない。正たちが段ボールを運んでいたのも、本来の空間に戻すためだったのだ。
「もちろんトイレもバスルームも、ユニットじゃなくてきちんと別になったのが付いてます。ちょっと古いけど、そのぶん広めのワンルームマンションって感じですね」
「はあ」
それがなんで二万円? とまだ疑っていると、正はお得意のへらりとした笑顔でさらに詳しく教えてくれた。
「家賃が安いのは、結果として住み込み管理人みたいなこともしてもらうからです」
「住み込み管理人?」
「ええ。ご存知の通り家とか部屋は、人が住んでないと逆に荒れたり傷んだりしちゃいますよね。そうじゃなくても埃が溜まったりで、必ず汚れるじゃないですか。でも蘭さんが住んでくれたら、それが防げるんです。もちろん防犯にもなりますし」
「いや、防犯はどうかと……」
護身術や武道といった類いの心得が何もない自分が、警備員として役に立つとは蘭には到底思えなかった。大体、隣のタクシー会社を挟んで十メートル先は、もう湯本駅前交番なのだ。
などと考える時点で、ここへの住み込みを前向きに検討し始めていたのだと自覚したのは、数分後、すっかり綺麗になった三階を正に見せられてからだった。
「わあ! ほんとに普通の部屋ですね」
何度か覗いたときにはわからなかったが、以前は段ボールが積まれていた廊下にじつはドアが一つあり、正が言った通りそこがトイレとバスルームへの入り口だった。向かいのキッチンスペースも、広くはないが流しとIHコンロ、小さな冷蔵庫が備え付けになっている。
そして蘭がいいなと思ったのは、居住スペースの広さである。
「これ、十畳以上ありますよね?」
「たしか十二畳くらいだったかな。蘭さん一人が暮らすには、じゅうぶんでしょう?」
「はい!」
多少の傷は目に付くが、フローリングの床も綺麗に磨かれていて、しかも壁際には横長のキャビネットとハンガーラックまで、どうぞご利用くださいとばかりに置いてある。どちらも事務用というよりはインテリア風のデザインなので、部屋に対する違和感がないのもありがたい。ひょっとしたら、ちょうど良さげな備品を正がわざと残してくれたのかもしれない。
「これで、いろいろ込みで家賃二万でいいんですか?」
「ええ。うちの住み込み看板娘ですから」
勝手に付けられた肩書きがこれまた勝手に進化しているが、もはや慣れた笑みで蘭は聞き流しておいた。即決して頭を下げる。
「ありがとうございます。じゃあ、お世話になります!」
かくして蘭は、住民票のうえでも「湯本の人」になったのだった。
正と可憐、さらには肉体派のケンさんと卓也も手伝ってくれたお陰で、次の定休日の月曜に、蘭はスムーズに引っ越しを終えることができた。もともとあまり物欲はないので、シンプルな暮らしを送っていたのも大きい。
五日後の土曜日。
「あ!」
まだお昼前ののんびりした時間に、卓也がつむぎを訪れた。今週は本業のライター仕事が忙しかったのか、蘭の引っ越し以来だ。
「卓也さん、この間はありがとうございました!」
いち早く気づいた蘭がカウンターからあらためてお礼を言うと、だが当の本人は無言で右手を振るばかりである。それもそのはずで、今の彼はボディランゲージ専門、すなわちハチリンの着ぐるみ姿なのだった。反対の左手には何かの紙袋を持っている。
「蘭ちゃん、今はハチリンでしょ」
「あ、そうか。ごめんね、ハチリン」
隣の可憐に笑いながらたしなめられて、蘭もすぐにゆるキャラに対してのコミュニケーションへと切り替える。有名テーマパークではないが、卓也も「この格好のときは、俺はあくまでもハチリンだ。〝中の人〟などいない」と常々豪語しているからだ。
「そもそも中の人自体が、筋肉ダルマでキャラクターじみてるからなあ。さすがは〝湯本のターミネーター〟」
などと長い付き合いの正だけは彼をよくからかったりもするが、実際、卓也はボディビルが趣味で、過去には大会での受賞歴まであるのだとか。いずれにせよ寡黙で真面目な、「気は優しくて力持ち」をまさに地で行くのが進藤卓也という男性なのだった。
ちなみにその正は、「ちょっと新商品の打ち合わせに行ってきます」と一時間半ほど前から不在である。先日、芸者の桃絵が見せてくれた根付けに触発されたそうで、同じ職人さんにいくつか小物を作ってもらい、レンタル商品のラインナップに加えるつもりなのだとか。
――たまには店長っぽい仕事もしてくれるんですね。
――めずらしくやる気出してるわね。
などと、二人の従業員はこっそり笑い合ったものだが、もちろん本人は知るよしもない。
と、可憐がそれこそ物めずらしそうに首を傾げた。
「ていうか――」
太っている彼女がそうすると、頬と肩が直接くっつくように見えるので、負けず劣らず何かのキャラクターっぽい。
「ハチリン、よく階段を上がってこられたわね」
「あ。たしかに」
言われて蘭も、そういえばと思い至った。ほぼ二頭身で、しかも頭が大きいハチリンなのに、なんでもないように狭い階段を上ってビルの二階にあるつむぎを訪れるとは。卓也本人の言葉ではないが、本当に中の人などいないかのようだ。とはいえ可憐の台詞から察するに、やはりめずらしい行動ではあるのだろう。
「どうしたの? なんかあった?」
重ねての可憐からの問いに、ハチリンは持っていた紙袋を胸の前に差し出した。
「あら、差し入れだったの、これ? ありがとう!」
忍者のような素早さでカウンターを抜け出した可憐は、言い終わった時点ですでに袋を受け取っている。おそらく甘いものか何かだろうが、わかりやすいリアクションには苦笑するしかない。
「やった! 『海老鯛堂』さんの鯛焼きだ! ありがとね、ハチリン!」
差し入れは、駅前に店を構える鯛焼き屋さんの商品だったようだ。もちもちした食感の白い皮が人気の鯛焼きで、蘭もここで働くようになってから二度ほど食べたことがある。
「ありがとう、ハチリン」
蘭も感謝すると、いえいえ、とばかりに再度手を振ってから、ハチリンはすっと身体を開いた。
「あ!」
「あら」
大きな着ぐるみに隠れていた空間を見て、蘭と可憐の目が揃って丸くなる。そこにもう一人、ゲストがいたのだった。
司会者よろしく、ハチリンが分厚い手のひらをその人に向けて紹介する。
「こんにちは」
ハチリンのボディランゲージに合わせてぺこりと頭を下げたのは、デニムの上下を身に着けた白人の女の子である。背中で束ねた鮮やかな赤毛と、白い肌のコントラストが美しい。外国人は実年齢より上に見える人も多いが、彼女は明らかに十代、おそらくは女子高生くらいだと思われた。
「こんにちは。ようこそ、つむぎへ」
「いらっしゃいませ」
可憐、そして蘭と発した挨拶は通じたようで、にっこりと微笑んだ女の子が「お邪魔します」と流暢な日本語で返してくれる。
「蘭ちゃん、英語オッケーだったわよね」
「片言ですよ」
可憐に振られた蘭は、謙遜しつつ「Is it better to speak in English?」と尋ねてみた。
「大丈夫です。私の方が日本語、もっとカタコトですけど」
はにかむような笑顔。淡いブルーの瞳と、高い鼻の上に少しだけ散らばるそばかすがとてもチャーミングだ。蘭と同じくらいの長身でスタイルもいいため、スキニータイプのパンツがよく似合っている。
「私、レイチェル・ファロウズといいます。アメリカ人で十六歳です。Homestay programで今は坂之上高校の二年生に通ってます」
「ああ、サカ高の。優秀なんですね」
蘭が笑顔で頷くとレイチェルと名乗った彼女は、またはにかんだ表情を見せた。無意識の上目遣いも絵になっていて、本当に可愛らしい。
「サカ高」こと坂之上高校は箱根山の麓、小田原市にある県立高校で、地域有数の進学校としても知られている。提携するアメリカのハイスクールとたがいにホームステイプログラムを実施し、年度ごとに交互で短期留学生を受け入れたりもするのだと、蘭も役場時代に聞いた覚えがあった。
「今日は学校、休み?」
今度は可憐が問いかける。
「はい。土曜日で部活もオフなので」
「そっか。週末だもんね。ちなみになんの部活やってるの?」
「ベースボールです!」
元気な答えに、「おお」と声を出した可憐と蘭だけでなく、ハチリンも驚いたリアクションをしている。
「サカ高は女子も野球部に入れるって聞いて、すぐに決めました。もともとベースボールが好きで、子どもの頃からイチロー選手とかオータニ選手のファンだったんです。大変な練習もあるけど、ブカツはとっても楽しいです」
つまりレイチェルは貴重な部活休みを利用して、代表的な日本文化の着物を体験しに来てくれたのだろうか。そう考えると蘭は嬉しくなってきた。素敵なアメリカ人女子高生に、せっかくだから思い出に残る時間を過ごして欲しい。
「着物に興味があって、ハチリンに案内してもらったんですか?」
やる気満々でカウンターから出て確認してみると、だが返ってきたのは注釈付きの答えだった。
「それもありますけど……」
はて、と蘭は小首を傾げてしまう。「それも」ということは、別の目的もあるのだろうか。隣に立つ可憐も同じ表情だ。
怪訝な様子の二人に、ボディランゲージで割って入ったハチリンが説明してくれた。
「え? 何? ええっと……駅で、彼女が、困っている様子だったから――」
箱根湯本駅の方角を指さしたあと、「彼女が」と手のひらでレイチェルを示し、続けて頬に手を当てたり腕を組んだりして「困った」仕草。通訳よろしく言葉にする可憐、そして蘭にも言いたいことがじゅうぶんに伝わってくる。
「――肩を叩いて、大丈夫? と、とりあえずここに連れてきた、と。ああ、なるほど。要するに私たちなら、何かこの子の力になれるんじゃないかって思ったのね」
実際にレイチェルの肩に触れ、心配そうに顔を覗き込んで再現ドラマのようにもしてみせるので、後半もすんなり理解できた。
ていうか、こういうときぐらいは喋ればいいのに。もしくは筆談とか。
蘭が小さく苦笑すると、逆にそれを察したのかハチリンは短い両手を突き出し、さらにはスクリーンをタップするような素振りも加えて、「この手だから筆談は無理だよ。スマホとかタブレットも扱えないし」と、これまたわかりやすく伝えてきた。
「そっか、指も太いもんね」
納得すると同時に、優秀すぎるジェスチャーゲームみたい、と余計に笑ってしまう。
「だから、accept kind offer……ええっと、オコトバニアマエテ? お邪魔しました。あ、もちろん着物も大好きです!」
あとを受けたレイチェル本人が、こちらはきちんと声に出して補足する。堪能な日本語に対してもだが、何よりも健気なな口調と表情に蘭はますます好感を抱いた。
「わかりました。私たちでお役に立てることなら、喜んでお手伝いさせて。せっかく湯本に来て、しかもわざわざうちの店を頼ってくれたんだし」
チャーミングな女子高生が相手というのもあってか自然と敬語が消えてしまったが、イレギュラーな形のお客さんだし、まあいいだろう。
「ありがとうございます!」
レイチェルもまた明るい笑顔で返し、湯本の街を訪れた理由を詳しく語り始めた。




