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プロローグ

箱根を舞台に、レンタル着物店の女性店員が奮闘するご当地&お仕事ストーリーです。


©Lamine Mukae

◆本小説は著作権法上の保護を受けています。本小説の一部あるいは全部について、著者の承認を受けずに無断で転載、複製等することを禁じます。

 よくやった、私。頑張ったね。


 九月上旬の土曜日。鏡に映る自分をねぎらって、(あけ)()(らん)は意識的に口角を引き上げた。くっきりした顔立ちが、わざとらしくニッと笑う。誰かに見られたらただの危ない人だが、一人暮らしのバスルーム内なので心配はいらない。


「そうだよ。これが正解だよ」


 今度は口にも出して、やはりみずからに言い聞かせる。とはいえ「これが正解」というのは、まごうかたなき本心でもあった。

 二十六歳。独身。恋人なし。

 そして無職。

 むしろ、どこが正解なんだとつっこまれそうな状態の人生だが、それでも蘭は落ち着いていた。


 いいのいいの。今まで散々我慢して、耐えてきたんだから。


 笑顔のまま軽く肩もすくめてみる。部屋着のTシャツにハーフパンツ、セミロングの髪もぼさぼさという身なりはさておき、公称百六十八センチ、実際は百七十の大台に乗るスレンダーな長身は、こういうポーズを取ると、良くも悪くも少しだけ外国人ぽく見える。

 姿勢を戻した蘭は、手のひらを組んでうーんと伸びをした。朝になると勝手に目覚める習慣がついたのだけは、ありがたかったかなと思う。


 伸ばしたその両手を上司の机に叩き付け、ついでに辞表も提出したのは二十時間ほど前のことだ。




 昨日まで蘭は公務員だった。といっても、東京の(かすみ)()(せき)を闊歩する官僚みたいに格好いいものではなく単なる地方公務員、それも県内では唯一の「過疎地域」に指定される、さびれた田舎町の役場職員である。

 神奈川県と静岡県の、ほぼ境目に位置する「かわせみ(まち)」。かつては風光明媚な港町として多くの観光客で賑わったらしいが、現在では約七千人の人口しかいないうえ住民の半数以上が高齢者というこの町で、蘭は三年と五ヶ月の間、役場職員として勤務していた。


 セクハラとマリハラの雨に毎日晒されながら、ね。


 両手を下ろし、小さく息を吐く。

 昭和に取り残されたようなかわせみ町は、モラルやプライバシーといった単語が宇宙の彼方に消え去ったかのような土地だった。パワハラこそなかったがセクハラやマリハラは当たり前で、役場の窓口のはずなのに「ねえ明海さん、彼氏できた? もし良かったらうちの甥っ子が――」だの、「蘭ちゃん、相変わらずいいケツしてんなあ。丈夫な子どもを三人は生めそうだな!」といった品のない言葉が、特に中高齢者から挨拶代わりに飛んでくるのだ。


 個々人とじっくり接してみると、そこまで嫌な人たちではない。けれども下世話な台詞にいちいち作り笑いで答えるのは女性として、いや、一人の人間としてやはり神経がすり減らされる。しかも向こうは自覚に乏しいので、はっきり言って始末が悪い。

 挙げ句の果てに、採用時の履歴書から勝手に蘭の顔写真をコピーした所属課長が、「嫁さんの妹の旦那さんの従兄弟」とかいう親戚だか他人だかわからないような、そしてもちろんこちらは素性も知らない男性との見合い話を、無許可で進めかけていた事実が発覚し、ついに堪忍袋の緒が切れた。


「いい加減にしてください! あなたたちがやってるのはセクハラで、マリハラで、立派な犯罪です! いつまでも昭和のポンコツ脳で、人を不快にさせてんじゃないわよっ!」


 バーコードそっくりな禿げ頭の上から課長を怒鳴りつけ、これまた昭和の香り満載の古ぼけたビジネスフォンが弾むほど机をぶっ叩いたものの、怒りは収まらない。周囲が静まり返るなか、席へUターンした蘭は秒殺で辞表を書き上げると、


「今から有給を消化して、そのまま退職します」


 と、複合機からプリントアウトしたまだ温かいそれを、有無を言わさぬ口調で課長の手に直接押しつけた。そして宣言通り、堂々と私物をまとめて役場をあとにしたというわけである。


 ここも、引き払った方がいいだろうなあ。


 ベッドとクローゼット、他には化粧台を兼ねたデスクが置いてあるだけの女子としてはシンプルなワンルームに戻って、蘭はレースのカーテン越しに外を眺めた。坂の斜面につくられた三階建てアパートの最上階なので、かわせみ町の売りである綺麗な海を、木々の向こうに少しだけ望むことができる。


 都内のそれなりに有名な私立大学を卒業後、かわせみ町が実施する一般行政職採用試験、いわゆる地方公務員試験に受かって以来、蘭自身も町の住人となって過ごしてきた。けれども役場を辞めたからには、引っ越しも考えなければ。何せ小さな、そして時代に取り残されたコミュニティなのだ。「役場の明海さん」が課長に啖呵を切って辞表を叩き付けたという噂話は、すでにあらぬ尾ひれつきで町中に拡散済みだろう。

 しかも窓口業務などもしていた蘭は、町民のほぼすべてが顔見知りといっても過言ではない。万が一、町で唯一のスーパーや、二軒しかないコンビニで彼らに顔を合わせてしまえば、


「明海さん、役場辞めちゃったんでしょう?」

「お見合いを断ったんだって? じゃあ寿退社? お相手は?」

「次のお仕事は決まってるの? なんだったら、うちの息子がバツイチで独り身だから――」


 といった、なんのために仕事を辞めたのかわからなくなるようなハラスメントに、ふたたび晒されるのは確実だ。


 そもそもここの人たち、マリハラっていう単語自体を知らないんだろうな。


 なかば呆れた表情で、蘭はもう一度ため息を吐いた。 


 ていうか、なんで結婚して子どもを持つ人生だけが幸せって決めつけてんのよ。


 思い出しているうちに、さっきまでのからりとした気分が消え、また怒りが湧いてきた。モデルばりのスタイルも手伝ってクールに見えるが、「蘭って喜怒哀楽の振り幅が大きいよね」と友人たちが言うように、中身は結構気分屋なのである。


 ああ、もう! 辞めてまで嫌な思いさせないでよ、


 鼻の頭にしわを寄せたところで、いけないいけない、と我に返って首を振る。せっかくのんびり過ごそうと決めたプータロー生活が、初日からこれでは台無しだ。リラックスしよう。少なくとも今は、マリハラやセクハラとはおさらばした身なのだ。

 あらためて深呼吸すると背後から、チン! と高い音が聞こえた。バスルームへ行く前にセットしておいたトースターからだった。


 あ。


 トースターにうながされたかのようなタイミングで、蘭はふと思い出した。窓辺を離れ、デスクに歩み寄る。


「あった」


 声に出して壁際の本立てから取り出したのは、かわせみ町からもほど近い有名な観光地、(はこ)()(まち)のパンフレットである。縦長に折りたたむタイプで《箱根ジオパーク》という文字が、表紙にでかでかとプリントされている。

 ジオパークというのは、その土地の自然遺産などを活かして、地域全体で教育や観光活動を行っていこうというプログラムなのだとか。(おお)(わく)(だに)(あし)()()といった観光名所、さらには数多くの温泉も有して全国区の知名度を誇る箱根町だが、大きく見れば麓に広がる()()(わら)市、そしてここかわせみ町もジオパーク構想のエリアに入るそうで、先方の観光課職員が、何度か役場を訪ねてきたことがあった。このパンフレットもそうした際にもらったものだ。


 温泉、行っちゃおうかな。


 ひらめいたそばから、我ながらいいアイデアだと思った。傷ついてささくれた心を温泉でリラックス。三年以上もマリハラやセクハラに耐えて頑張った、自分へのご褒美にもなる。しかも箱根なら近いので、プータローの身にもさほど経済的な負担はかからない。なんなら、今から出かけて日帰りだってできる。


 うん。


 笑顔を取り戻した蘭は、軽やかにキッチンへと向かった。トースターの扉を引き開けると、ほどよく焼けた食パンの香ばしい匂いが流れ出す。マーガリンではなく本物のバターを塗って、スティックタイプだけどお気に入りのカフェオレも淹れよう。そうして朝食を食べたら、軽くお化粧して出かけよう。


 うん。そうだ、箱根に行こう。


 脳内でつぶやいた台詞に、旅行代理店の宣伝文句みたい、とみずからつっこんでしまったものの、整った顔はますますほころんでいった。

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