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第三話「でかい声を出すのってきもちいよね」


 俺の送りたいと思っていた面白い高校生活は、野球部室でだらだらゲームをやることだったんだろうか。

 別にそれも悪くない。悪くないと思えたと思う。昨日の朝までは。

『すでにあるのと同じような部活をわざわざ作ろうとしてるあたしが、そんな半端な気持ちで勧誘すると思うの?』

『どんな経緯だろうとなにが原因だろうと、あたしはあんたが欲しいからここに連れてきたんだよ!』

 俺の心に響いてくるのは、野球部の先輩達の楽しそうな声ではなく、あくまで真剣そのものの、小樽の声だった。

 一時限目。

 二時限目。

 三時限目。

 四時限目。

 五時限目。

 脳内会議は放課後を告げるチャイムを持ってようやく一つの結論を出した。

『もしもコーラス部に入りたくなったら、放課後いつでもいいからまたこの教室に来て!』

 別に入るわけじゃない。

 それでも、ただ動かなければ何も変わらない。

 このもやもやした気持ちに決着をつけるためには、行動あるのみ。

 我ながら、丸一日考えるまでもない上もない結論だった。

 俺は急ぎ足で教室を出ると、ずんずんと例の空き教室に向けて歩いて行った。

 一階の保健室の隣の階段をずんずんと駆けのぼる。二階、三階、四階と、その歩調は階数にしたがってより早くなっていくようだった。

 昨日小樽に背中を押されて登った階段を、今日俺は一人で登っていく。

 廊下の突き当たりにある空き教室の前に立つ。部屋の中からは歌声が二つ聞こえてきていた。どうやら昨日聞いた『もう一人』とやらが今日はいるらしい。

 俺はドアの前で少し考える。

 この扉を開けてしまったら、俺の高校生活は思い描いていたものと全く違うものになってしまう気がした。

 それでも、この胸のモヤモヤを解消するにはこのドアを開くしかない。

 俺は意を決してドアに手を掛ける。

 手すりの金具がひんやりとしていた。手に力を入れて横に引いていくが、たてつけが悪いようで悪いようで少しずつしか開かない。

 足元でドアがガタガタ鳴って、ようやく開く。

 差し込んでくる西日に、俺は目を細めた。

 数瞬の時を経て、徐々に目が慣れていく。

 部室内にいたのは、やはり二人の人間だった。

 件の小樽と、もう一人。森の妖精のような小さなシルエットが、徐々にメガネをかけたショートカットの少女に変わっていく。

 二人とも驚いた表情で俺の方を見ていた。

 どうも何らかの曲を練習している真っ最中だったようだ。小樽は机の上に置いたおもちゃのような黒いキーボードに手を掛けている。

 小樽はその手をキーボードから離して俺の方を振り仰いだ。

 何を言うべきか少しためらうような仕草を見せてから、ようやく口を開く。

「あ、あんた……昨日の! 来てくれたってことは、ま、まさか入ってくれるの!? コーラス部に!」

 小樽が短絡的なセリフを口にする。

 俺はそれを制止するために今の気持ちを素直に口にした。

「……見学だよ。別にかまわないだろ? どんなことやるのかもわからないのに、断るのも悪い気がしてさ」

「なーんだー。決めてくれたわけじゃないのかー。……まあでもいいや! 少しでも興味持ってくれたから来てくれたんだもんね!」

 小樽がちょっとした幻滅から再び歓喜、と表情をころころ変えながら言う。

「存分に見学してって! 今発声練習中だから、これが終わったら一曲聞かせようか?」

「ああ。お願いします。とりあえずここで見させてもらうわ」

 小樽は発声練習とやらを続けるためにキーボードの方に再び手を伸ばした。その傍らで、俺はそこらから椅子を一つ引っ張り出してくると、ドスンと腰を下ろした。

 教卓の上にキードードを乗せて、それに向かう小樽。

 その小樽に向かって、もう一人の小柄な少女は立っていた。

 メガネをかけたその少女は突然の闖入者である俺の方にちらちらと視線を送ってきた。

 しかし目が合いそうになるたびに、彼女が光速で目をそらすため、視線がぶつかることはなかった。

 俺が彼女を見つめている様子を見て、小樽が喋りはじめた。

「あーそっかー。昨日はいなかったもんねこの子。ほら空美、簡単に自己紹介でもしたら?」

 メガネの少女は小樽の発言にビクッ!という効果音が聞こえそうなほどおののくと、急にうつむいて顔を真っ赤にした後、首を左右に猛烈に振った。

「……ど、どうしたの空美ー。自己紹介くらい普通にすればいいじゃん」

「まあ突然来ちゃったもんな。とりあえず俺のことは気にせず練習を続けてくれ」

 俺が練習の再開を促すと、小樽は人差し指を頬に当てて考えるような仕草をして、その後に何か思いついたような仕草をした。

「ってかさ。見学と言わずにあんたも練習すればいいじゃん! 折角来たんだしさー」

 突然の提案に俺は少なからず動揺する。

「マジか? 俺歌なんて音楽の授業以外で歌ったこと無いから、すげえ不安なんだけども」

「まーまー。あたしが一から丁寧に教えてあげるよ! 手取り足取りね……フフフ」

 歌を歌うのに手や足を取る必要があるのかどうかすら俺には分からない。

 素人考えだが、たぶん必要は無いんじゃなかろうか。

「そうと決まれば立った立った! 正しい発声はまず姿勢からだよ!」

 俺は小樽に促されて立ち上がる。とりあえずメガネの少女の隣に並んで立ってみる。……心なしか俺から離れる方向に移動されたような気がする……。

 俺が微妙にショックを受けていると、小樽が俺のところに寄ってきて正しい発声の基礎であるらしい姿勢のチェックに入る。

「まずは足を肩幅に開いて普通に立って! うんそんな感じ。とにかく力が入ったらいい声は出ないからねー」

「こんな感じか?」

 俺は言われた通り全身の力を抜いて、ダラッとした姿勢になる。首は傾き、背骨はS字にカールしていただろう。どこからどう見ても、すっかりやる気のない姿勢になった。

「首を傾けて声が出るか! 普通に考えればわかるでしょー」

 小樽はそう言いながら俺のあごに手を当てると、くいっと首を普段の角度に戻す。

 相変わらず心臓に悪いことをサラっとやるやつだ。

「うんそんな感じでいいよー。じゃあ発声してみますか! 最初は『あ』のロングトーンからね!」

 小樽が突然キーボードで音を鳴らし始める。

「おい。ロングトーンってなんだ」

「あ、そりゃわからないか。ロングトーンは超簡単。あたしが一つの音を鳴らし続けるから、その間その音で『あー』って声を出し続ければいいの。とりあえずあたしがやって見せるね」

 小樽はそういうと、キーボードで一つの音を出し始めた。何拍かおいて、小樽は声を出し始める。

「あ―――――♪」

 小樽の弦楽器をはじいた時のようなぴんとした声が響く。同じ音で全くぶれないように聞こえるが、これがうまいのかどうかもよくわからない。

「なるほどな。大体わかった」

「OKねー。じゃあこの音から行くよ!」

 小樽がキーボードを鳴らす。三人の声が空き教室に響く……はずが、先ほどと同じように聞こえる声は小樽のものだけだった。

「なんであたししか声出さないんだよ! こいつだけならまだしもなんで空美も歌わないの!?」

「悪い。予想以上に恥ずかしかった」

 音楽の授業の時と違って、周りにはごくわずかな人数しかいない。そんな中自分の声をいつもよりも余計に聞かれるような気がして気恥かしかったのだ。

 小樽の口ぶりからすると、俺が来るまではメガネの少女はちゃんと歌っていたようだ。おそらく彼女も、俺が来たことで恥ずかしさが増したのだろう。完全に下を向いていて、声を出すどころではないようだ。

「いや悪い。ちゃんと声出すからもう一回お願いします」

「まったく……。じゃあもう一回この音ね」

「「あ―――――♪」」

 今度はちゃんと二つの声が空き教室に響いた。

 まだ思いっきり出し切れていない俺の声は、小樽のそれと比べるととても薄っぺらいように感じられた。

 一回分のロングトーンが終わって次の音に移るまでの間に、小樽は早口でアドバイスをよこす。

「うん! とりあえずその感じでいいよ! でももっと腹から声出しなさい!」

 キーボードからあふれる音がさっきよりも少し高くなる(多分。高い低いもよくわからない。)。

 俺は微妙にほめられて少しうれしくなり、さらに声を大きくしていく。腹から声を出せ、ってのは野球部の声出しでさんざんやらされたから、どうすればいいのかなんとなくわかった。

「おお! いいじゃんいいじゃん! もっと口開いて出して!」

 小樽はどんどんと出す音を高くしていった。それに比例するように俺と小樽の声もどんどんと大きくなっていく。

「「ああ―――――♪」」

 俺の声が出しうる限界の高音に近付く。

 ついにはその時を迎え、俺の声はかすれて出なくなった。

「うん。出るとこまででいいよ!」

 俺が声を出せなくなった高音を超えて、小樽は声を出し続ける。うまいのかうまくないのかはよく分からないが、どっしりとした幅を感じる、安定した声に聞こえた。それでも音が高くなるにつれて、小樽は徐々に眉をしかめていき、そのしんどそうな様子に呼応するように声もかすれていった。

「あ―――――~~~……♪ あーもう無理!」

 小樽がロングトーンの発声をやめてキーボートから手を離す。

 自分の出せる限界の高音まで声を出すっていうのはずいぶん疲れるんだな……。

 俺は少しいがいがする自分の喉をさする。

「あんた結構高い声出るじゃん! パートはテノールだね!」

「テノールって……何だ?」

 そんな単語は聞いたことがない。

「テノールっていうのはコーラスをやるときのパートのことだよ。小学校の時とかに男女に別れて二部合唱ってやったことあるでしょ? それを二部じゃなくて四部に分けた合唱を四部合唱っていうんだけど、その場合のパートを低い音の方から、ベース、テノール、アルト、ソプラノっていうんだよ。あんたは男声の高いほうのパートだね」

「そういうことか。ってか、四部だったら一部足りないじゃねーか」

「……それって自分入れて計算してるよね」

「あくまで今現在この部屋にいる人数の話な」

 小樽が白い歯を見せてにんまりしながら言う。その顔はとてもかわいかったが、言ってる内容は気に食わなかったので即否定する。

「ふふふ。まあいいけどね」

 ほころんだ顔を崩さないままで、小樽は次なる発声の練習を始める。

 30分くらいの間そんな感じで発声の練習が続いた。俺は小樽に教えられつつ、見よう見まねで練習をこなした。

 自分がちゃんと歌えているのかはよく分からなかったが、歌を歌うってのは意外に疲れるんだということだけはわかった。

「発声練習はこんなもんね。ちょっと休憩してから、あたしと空美は曲のあわせをするつもりだったんだけど……。結局空美、発声練習一切してないよね……」

 小樽はメガネの少女の方をちらっと見ながら言う。確かに発声練習をしている間、結局この子は一切声を発しなかった。ってか、俺まだこの子の声聞いたことない気がするぞ。

 そんな感じで俺と小樽がメガネの少女の様子をうかがっていると、意を決したのか何かをあきらめたのか、少女は小さな口を小さく開いて、ようやく一言しゃべった。

「……大丈夫。曲の合わせ、やろう?」

 蚊の飛ぶようなか細い声が桃色の唇から漏れる。失礼な話だけどこんな様子で歌なんか歌えるんだろうか。

 合わせってのは曲を普通にみんなで合わせるって意味なんだろう。と言っても、今の段階では小樽とメガネの少女の二人で合わせるだけなんだろうが。

「……だめ。発声練習しないで歌うのは喉にも良くないし、練習しても意味ないもん。とりあえずあたし一人で歌って見せるから、空美も見学ね!」

 小樽はピシャリと言い放つ。締めるべき時はちゃんと締められるのが小樽の性格のようだ。

「もちろんあんたも見学ね! あたしが独唱するから聞いてて! どうせだから誰でも知ってる曲がいいよね。『輝く空に』って知ってるよね?」

 そういうと小樽は鞄から緑色の薄い本を取りだした。表紙には『輝く空に』と書いてある。  

 楽譜なんだろう。俺も知ってるくらいのメジャーな合唱曲だ。中学校の時に合唱コンクールで歌ったことがある。

 小樽がキーボードの横に立って歌う準備を進める中、俺はふと疑問に思ったことを口にする。

「あのさ、普通コーラスってピアノの伴奏がつくもんじゃないのか? 音楽の授業とかじゃ先生が弾くじゃん」

「あー確かにそういうイメージあるかもね。あたしたちの場合伴奏つけちゃったら独唱とか弾き語りになっちゃうから、この曲はアカペラで歌う感じになるね」

 キーボードで音を出しながら小樽が答える。どうやら曲の最初の音を弾いて音を合わせているらしい。

「すまん、アカペラとは?」

「簡単にいえば伴奏なしのコーラスかな。伴奏つきもアカペラも、どっちもいいところがあるけど、あたしはアカペラの方がハモリがきれいに聞こえるから好きだね」

 そういうと小樽は楽譜を開いて、譜面を置く台に設置した。

「じゃあ一回通しで聞かせるね。あんたはよく聞いときなさい!」。

 正直なところ合唱曲なんてまともに聞いたことはない。音楽の授業を思い出すような、退屈な曲というイメージだ。

 結局のところ、俺のそんなイメージは小樽の演奏を聞いてすぐに覆されることになる。

 俺も聞いたことのあるイントロが小樽の口からあふれる。まだ歌詞も乗っていないその音が、教室内の色を一瞬前までとは全く異なるように塗り替えていくように感じた。

 先ほどまで楽しそうにテンション高く笑っていた小樽の顔が一気に引き締まる。

 だらっといすに座って見学していた俺も、にわかに変わった教室の雰囲気に思わず居住まいを正した。

 小樽の安定感のある声が空き教室に響く。歌詞の乗ったその歌はまるで悠然と流れる大河のように存在感を放っていた。

 これだけきれいで安定した音を出していくというのは神経を使うのだろう。音を追うのに集中している様子がわかる。しかもそれでいて、何とも楽しそうに小樽は歌うのだった。

 コーラスになんの造詣の無い俺でも、小樽の歌が中学校の合唱コンクールとはレベルが違うということだけはわかった。

 曲が一通り終わってから少し間をおいて小樽が喋りだす。さっきまでの厳格ささえ感じられた雰囲気は、もう無かった。

「とまあ、こんな感じかな。あたし結構うまいでしょ? てへ」

「自分で言うかあ。……でもまあうまかったよ」

 俺は素直な気持ちを口に出す。コーラス部なんて作ろうとするくらいだからうまいんだろうなとは思っていたが、実際に聞いてみると本当に小樽の歌はうまかった。

「ホント? ありがとう! ……でもやっぱり一人で歌ってもあんまりコーラスっぽくないんだよね。音が少なくてさみしい感じ」

「それはちょっと思ったな。コーラスっつったらハモリがすごいってイメージがあるけど、さすがに一人じゃハモれないもんな」

 それを聞いて小樽は少し考えた様子になると、閃いた! とばかりに顔をピカッと光らせた。

「そうだ! あんたが歌えばいいんじゃん! 見学兼体験ってことで。この曲聞いたことはあるでしょ?」

 突然小樽がとんでもないことを言い出したので、俺は非常に困る。

「いやまあ……聞いたことはあるけどさ。コーラスってのはパートごとに音程が違うんだろ? テノール? のパートなんてわからないぞ」

「まーまー。じゃあちょっと音取ってよ。せっかくだから音を重ねないと、コーラス聞いた感じしないと思うんだよね! コーラスでパートが一つ増えるってのは、足し算じゃないんだよ!」

 音を取るってのは、曲の音程を覚えるって意味なんだそうだ。

 相変わらず小樽の言うことにわからない部分はあったが、俺は小樽のうれしそうな表情に何も言えず音取りを手伝ってもらうことにした。

 それにまあ、さっきの小樽の歌を聞いて、自分もあんな風にうまく歌えたらな、とちょっと思っていたしな。

 それから30分前後。俺はキーボードを弾く小樽と『輝く空に』の音取りをした。

「まーどーかーらーさーすーひーかーりーがー♪」

「うん! 音は大体とれたみたいだね。あたしの楽譜とりあえず貸してあげるから、それ見ながら一緒に歌ってよ」

「お、おう。歌えるかわかんないけどな」

 いよいよ合わせをするらしい。

「じゃあ行くよー。1,2,3,4で歌い始めてね!」

 小樽が俺の前で手をゆったりと振り回す。指揮ってやつみたいだ。

 1.

 2.

 3.

 4.

 途端、さっきの小樽一人の時のイントロとは全く違った音が広がる。それが俺が出している声のせいだと気がつくのに少し時間がかかるほどだった。

 俺の歌声が、小樽の歌声という土台の上で踊る。

 さっきの小樽の歌を線の歌声とするなら、この二人分の声は面の歌声だ。小樽がさっき言った『パートが増えるのは足し算じゃない』という言葉の意味がようやくわかる。

 これは文字通り次元が違う。

 俺の大してうまくない歌でも次元を一つ増やせているんだと実感する。全く別物になった歌が、さっきとは全く違った表情で輝きだした。

 俺は思わず声のボリュームを上げる。思っていたよりも、なんだ、その、楽しいんだ。

 小樽はそんな俺に少し驚いた様子を見せたが、そのまま歌い続けた。

 空き教室に、二人の声がすこしの間響き続ける。

 最高の学校生活。小樽の言うそれがなんとなく見えたような気がした。

 小樽にあるのは、熱意。俺が高校では必要ではないと思っていたもので、あの野球部には確かに無かったものだ。

 なんで小樽の勧誘があんなに俺を悩ませたのかも、いまなら少しわかるような気がする。

 そんな風に思った。

 

「こんな感じだね。どうだった? 歌ってみて」

「よくわかんねーけど……よかったんじゃないのか。……いや、ちょっと感動したよ」

「そう? それは良かったよ。んで、どうすんの? 入るの? コーラス部」

 俺は少し間をおいて答える。

「わかんね―けど、明日も歌いにくるよ。コーラス」

 小樽は一瞬ぽかんとした後に、ニヤッとして

「それは、そのまた明日も、ってことでいいんだよね?」

と言った。

「それが最高の学校生活への第一歩ってことになるんだよな?」

 小樽は最高の笑顔で大きくうなずいた。


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