第一話「被害者ボーイ・ミーツ・加害者ガール」
第一章 テノール
入学式は桜の花びら舞散る中で。
日本人ならなんとなくそんなイメージがあるだろう。だが最近は地球温暖化の影響か、入学式の時にはすでにおおむね桜が散ってしまっていることも珍しくはない。
その多分にもれず、この俺、利根遼平の進学先である私立小宮西高校の入学式も、同じようにピンクと緑の入り混じった桜の下で行われることになった。
奇妙に色の混じり合った背景の中、俺は高校に入ったら何か面白いことがあるんじゃねーかな、とか適当に期待をしつつも、それでいてなにか新しいことを始める勇気もない。
そんな中途半端な気持ちで高校の門をくぐることになった。
入学式の会場である体育館に向かいながら、これから同級生になるであろう連中に目をやる。
誰も彼も真新しい制服に身を包み、少し緊張した面持ちで歩を進めていた。
この中にはきっと、共に高校生活を送るやつもいるだろう。仲たがいする奴もいるだろう。一切会話をしないまま卒業していくやつもいるだろう。
新しい出発にふさわしくない物悲しい考えが俺の心を埋めていく。わずかに肩を落として自分の後ろ向きさを恥じた。
こんな事じゃいかんな、そう思って背筋を伸ばしたその時だった。俺の視界にひらひらと舞う布切れが入り込んできた。
そうしてその布切れは俺の辛気臭さに吸い寄せられるように、避ける間もなく俺の顔に張り付いた。
反射的に首を振ってその布を振りほどこうとする俺だったが、鼻腔に抜けていく甘い香りはそれが汚いものではないと教えてくれた。
それは桜色をしたハンカチだった。
皮肉にもすぐそばに立っている桜の木にへばりついている桜の花びらよりは、よっぽど春らしい色をしているように思えた。
恐らく風にまかれて持ち主の手から俺のところへそのまま飛んできたのだろう。
折り目正しくアイロンがけされた見た目には、その持ち主の几帳面さが表れていた。
どうやら落し物らしいそのハンカチを、俺はとりあえずポケットにしまった。
後で事務室にでも届けよう。
そんな善行を夢想することで、なんとなくささくれていた俺の心もいくらかはましになったような気がした。
神様がそんな俺の心がけを試したくなったのだろうか。
入学式の開始までの間、俺は何の気なしにトイレに向かった。
トイレから戻る途中、体育館の周りのコンクリ敷きの通路を歩いていると、俺の耳に蚊が泣くような心もとない声が届いた。
通路の外。草むらの少し奥まった所から、その声は聞こえているようだった。
なんとなく気になり、俺はそちらにちらりと目をやる。その草むらから前足を引きずりながら一匹の猫が現れた。どうやらさっきのかすかな声はこいつが発していたようだ。
注視してみると前足に少し血がにじんでいる。
どこかで木にでもひっかけたようで、それが原因で前足を引きずっているのだろう。
俺の心にむずっとしたものが走る。
猫を助けるなんてむずがゆいことをするのはなんとも決まりが悪かったが、ここで怪我をしている猫をほっておくのもなんだか後味が悪い。
訴えかけるような視線を送る猫のうるんだ瞳に、俺の気持ちは固まった。
俺は体育館ばきのまま泥の地面に足を踏み入れる。コンクリとは違ったやわらかい感触になんだか違和感を覚える。
このまま体育館に戻ったら、ゴリラみたいなバスケ部員に『……靴を脱げ』とか凄まれたりするんだろうか。
そんなあほなことを考えながら、俺は件の猫の前にしゃがみこむ。
けがをしている部分に何かまいてやろうとポケットをまさぐると、出てきたのはトイレで手を洗ったときに使用した自前のハンカチと、先ほど拾ったかわいらしい桜色のハンカチだった。
俺は少し迷ったが、先ほど拾ったハンカチをまいてやることにした。
嫌がる猫を、そっとあやしながら幹部にハンカチを巻きつける。
巻き終わると、見た目は悪いが痛々しい雰囲気は少し和らいだように思えた。
前足にだけ桜を咲かせた猫は、にゃーと一言だけ発するとそのまま踵を返して草むらへと戻っていった。
俺はいくらか軽くなった心と共に、体育館への途に就く。
勘違いしないでいただきたい。俺は決して自分のハンカチが汚れるのが嫌で、あの猫に他人のハンカチを巻きつけたわけではない。
俺は少し湿った自分のハンカチをポケットから取り出す。
……これを傷口にまかれたらしみるよなあ……。
体育館の敷居を踏み越えながら、俺はそんなことを考えていた。
体育館の高い天井の下、少しひんやりした空気が流れる中、入学式は始まった。
俺が気もそぞろでいたせいか、イベントはすらすらと進んでいった。
理事長あいさつに現れたチンピラに驚いて、歓迎式典での先輩たちの大人っぽさに驚いて、クラスの顔合わせでの男子の少なさに驚いて。
うちの高校は数年前まで女子高であったため、基本的にどのクラスも大体8対2くらいの比率で男子の方が少ないのだ。
思春期の男子諸兄にしてみればうらやましく思えるかもしれない。だが同じく思春期の女子の団結力はすさまじいものがある。あらゆる面で疎外され続ける男子の肩身の狭さは想像を絶していた。
多数決で男女に票が割れたらもうおしまい。たいていのイベントで無視されるかおもちゃにされるか、というのが男子の運命である。
そんな背景があるから、この学校の男子の部活は人が集まらず、総じて弱い。悲しいほどに弱い。
校舎の垂れ幕に名を連ねるのはそのほとんどが女子バスケだ、女子ソフトボールだ、と必ず頭に女子がつく部活ばかり。実際うちの高校はスポーツも売りの一つであるらしく、女子の部活はどれもある程度誇れるレベルの成績を残すものが多い。
それと比べて男子の部活はほとんどが一回戦負けである。一番強いのは主将内山田先輩率いる男子ワンダーフォーゲル部であり、県内3位という輝かしい成績を収めている。
ちなみに県内にはワンダーフォーゲル部は4つしかない。
そんな何とも暗い影を背負っている我が校の男子の部活であるが、人数が少ないだけに勧誘活動はなかなかに必死だ。うちのクラスにも、休み時間や昼休みを中心に色々な部活のユニフォームを来た先輩方が勧誘に来ていた。
俺も中学時代スポーツをやっていた身としては、勧誘されちゃったらどうしよう! あたし怖い☆などと気色悪く浮かれていたが、どうもうちのクラスに勧誘に来た先輩方のターゲットはほぼ一人に絞られていたようだった。
まあそれも当然と言えば当然である。入学式の日の自己紹介の時から、いやさこのクラスに一歩足を踏み入れた瞬間から、どうしても二度見せざるを得ない男が一人いるからだ。
ロバート江崎。たいていの日本人のこいつに対する第一印象は「でかっ」になるだろう。この間の身体測定で測ったところによると身長は2メートルを超えているらしい。女子たちがキャーキャー騒いでいた。
地毛で金髪の髪を坊主に刈りこんでいて、顔の中央には高い鼻がそびえ立っている。顔立ちもなかなかに整っていて、ハーフってのはずるいなと感じさせるのだった。
それに加えて筋骨隆々の体。アメフト部、ラグビー部、相撲部をはじめとしたあらゆる体育会系の部活が江崎の争奪戦を繰り広げていた。
そんな中、当のロバート江崎はというと、あらゆる勧誘にただただ顔をそむけるだけで一向に部活に所属しようとはしなかった。
というか誰とも話をしようとしなかった。
クラスではまことしやかに『ロバート江崎日本語話せない説』が浮上した。しかしつい先日の入学後の自己紹介で、流暢に「……『えざき』じゃないです。『えさき』です」と言ったのは記憶に新しい。
そんなこんなで最初は何かにつけ江崎に話しかけていた女子たちも、一切のリアクションを見せない江崎に呆れてすっかりおとなしくなってしまった。今では江崎は孤立しているといってもおかしくないくらいの感じだ。
俺はと言うと、最初から江崎とは全くもって絡みがなかった。黙っている外人顔ってのは結構迫力があるし、特に話しかける接点もなかったしな。せいぜい野球部に入ってくれれば同じチームで野球できるな、と思っていたくらいだ。
しかしまあ、江崎を取り巻く環境は高校生活の初めにおいてなかなか面白いイベントではあった。
とりあえず江崎の話はこれくらいにさせて欲しい。
……というより江崎のことなど一瞬で頭から吹っ飛ぶような出来事がこのころ起きたせいなのだが。
そろそろ野球部の見学にでも行ってみるか、とのんきに考えていた4月の半ば。俺は一人の女子と電撃的で衝撃的で喜劇的な出会いをすることになる。
……自分でも言ってて恥ずかしいがそのくらいとんでもない出会いだったってことだ。
入学式から2週間が過ぎたある朝のこと。
俺は死ぬほど大急ぎで支度すれば始業ベルが鳴る瞬間に教室に着く、という素晴らしい時間に目を覚ました。入学してから3日度にはもうこんな調子だった自分を恨めしく思う。
基本的に夜型の俺は朝が弱い。徒歩圏内にあったからこそ小宮北高校を選んだといっても過言ではないくらいだ。
学校の近くに住んでいる奴の方が遅刻しにくい、というのは一見正しい理屈のように見える。だがむしろその逆が真であることの方が多いような気がする。
学校から離れた地域に住む連中は、時刻表通りに運行する電車やバスに管理されて登校する。対して学校の近くに住んでいる奴、要は俺のような人間だが、そういう奴は男子高校生などという世界でも指折りにだらしない存在に自己管理されて登校することになる。
どちらが遅刻しにくいか、など考えるまでもない命題だ。
ぼんやりとそんなことを考えながらも、俺は残像が残るほどのスピードで身支度を終える。同じく光速で玄関に向かいドアを勢いよく開けようとして、俺はふと手を止める。
キッチンに立っている母上に一言挨拶をせねばなるまい。
「行ってきます。朝ご飯悪いけどいらないから」
普段なら朝飯はちゃんと食べるが、この日はいつもよりも少しだけ寝坊してしまったようだった。腕時計を見ながら母に対して少しだけの罪悪感を覚える。
その瞬間。俺はキッチンから褐色の物体が流線型の輝く軌跡を描いて玄関の俺へと飛んでくるのを見た。
目から炎を出すピッチャーの投球。それがミットに収まった時に放つレベルの轟音が、俺の口元ではじけた。
「うごっ! な、なんじゃこりゃあ!」
その褐色の物体は俺の開け放した口へとジャストミートで収まっていた。香ばしいにおいが鼻腔へと抜けていく。
一瞬何が起きたか分からずに目を白黒させる。俺は状況を確認すべく視線だけを口元に下ろした。
そこには焦げ目からほのかに湯気を立てるトーストがあった。ご丁寧にバターといちごジャムが塗ってある。
「朝ご飯はちゃんと食べないとだめよ♪午前中の集中力が全然違うんだから!」
そう言いながら、キッチンから満面の笑みの母が顔をのぞかせた。天使のような悪魔のなんちゃらっていうのは、ああいうのを言うに違いない。
なんとさっきのトーストはキッチンから母が放ったものだったらしい。
最近アルティメット(フリスビーでやるスポーツのことだ。)を始めたというのは聞いてはいたが、ここまでの腕前とは知らなかった。我が母親ながら恐れ入る。さぞかしチームに貢献しているに違いない。
「気をつけます……押忍」
「いってらっしゃ~い☆」
今後朝飯は抜くまいと心に誓った俺だった。いつ母の手元が狂うかわからんからな。
玄関にいた愛犬のチューバまでもが憐れむような目で俺を見ていた。何か言いたいことがあるなら聞いてやるぞ。
さてそんなこんなで俺はトーストを口にくわえた小走りで学校に向かうハメになった。こんなのが許されるのは少女漫画の主人公だけだと思っていた。
もう4月の半ばということもあって通り拔ける風はだいぶ暖かくなってきている。小走りだと少し暑いくらいだ。
犬の散歩をしているおばさんや日向ぼっこをしている野良猫をしり目に、俺は住宅地をだらだらと駆けていく。
こんな新緑芽吹く中、曲がり角でかわいい女の子とぶつかったらさぞかし素敵な恋が始まるんだろうな。
そんな小学生以下の妄想をしながら、俺は桜の木が枝を張り出している垣根の曲がり角を曲がった。
ああ……この一瞬後の俺がいったい何と遭遇するのか想像がつくだろうか。
1. かわいい女の子
2. もっとかわいい女の子
3. 最高にかわいい女の子
ああ、うん。結論から言うと答えは3なのだ。だがその時の俺にはそれを認識することはとてもできなかった。
なぜならその最高にかわいい女の子は、フルフェイスヘルメットをかぶっていたからだ。
革の鞄を金属バットでひっぱたいたような鈍い音が爆発する。その一瞬後には俺の体は宙を舞っていた。
口にはさんだ食パンを吹き出しながら、俺は住宅地で盛大な月面宙返り(二回ひねり)を決めた。
オリンピックで披露すれば10点満点に違いない。
ストップウォッチで測れば一秒にも満たない時間だったんだろうが、その時は眠い午後の授業の数十倍時間がたつのが遅く感じた。というか走馬灯を見たような気さえする。
着地失敗。こりゃあ大きく減点されちまうなぁ、とか意味のわからないことを考えながら、俺は地面に顔からつっこんだ。
俺は地面にうつ伏せでケツを高く掲げた情けない姿勢で少しの間呆然としていた。
全く状況が把握できないままようやく顔を上げると、まず俺の目に飛び込んできたのは短いスカートからのびる細く、しかも肉付きの悪くない脚だった。
そしてさらに顔を上げていくと、ボタンをはずして胸元がのぞくうちの高校のブレザー。
そして最後に目に入ったのは、目を大きく見張ったかわいらしい顔立ちだった。
原付にまたがった、最高にかわいい女の子がそこにはいた。
「………………」
「………………」
お互いにあまりに気が動転しすぎて声が出ないようだ。俺はこの状況をなんとかするべく、立ち上がって体をはたきながら率直な感想を口にした。
「……えっと。人身事故っすよね」
「……はい。人身事故ですね」
会話が終わる。ごめん。この状況をなんとかするのは俺には無理だったよ。
困りに困った俺だったが、落ち着いてよく見てみると女の子が少し震えているのがわかった。……そりゃあ人轢いたら焦るわな。まあこの子(服装からみると先輩かもしれないが)もショックを受けているんだろうし、お互いに落ち着いて相互の理解を深めて……。
「……なんで」
ん?
俺がどうにか落ち着きを取り戻そうとしていると、急に女の子の方が下を向いてぶつぶつ言いだした。
なんなんだ。打ち所が悪かったのか? いや、頭を打ったのは俺だ。この子は俺を轢いただけだ。
俺が若干困惑している間にも女の子はすごいスピードでぶつぶつ言い続けている。
なんか、目が据わってないか?
「なんで飛び出してくんのよまったくもう曲がり角で急に止まれるわけないじゃん、車は急には止まれないって子どもの時に習わなかったの、うわー車っていうか原付だったー間違えたー……ってそういう問題じゃないっていうか一応原付も車両って教習で習ったような……そんな問題じゃなくて! あたし人轢いちゃったっていうかこれもしかして免許取り消し? そしたら学校まで一体何で通えばいいの? ……自転車? 自転車なの? 雨の日にも風の日にも自転車を転がして学校までいかなくちゃいけないの? ああ……なんてかわいそうなあたし。ああ無情とはこのことだわ……原題で言うとレ・ミゼラブルなのね。ああ……きっと主人公ジャン・バルジャンのように投獄されて19年の青春を無駄にするんだわ……」
……俺は心からリアクションに困るという体験を生まれて初めてすることになった。
いまや彼女がスポットライトの中心でしなだれてハンカチを噛んでいる姿がありありと目に浮かぶ。
そんな女の子を無表情で見つめる俺。
シュールレアリズムという言葉をうちに帰ったら辞書で引いてみよう。
数十秒後、意味不明のつぶやきも収まり感情を吐き出したせいか、ようやく落ち着いたらしい女の子はここへきて一番初めに言うべきセリフを吐いた。
「えっと……ごめんなさい。大丈夫……?」
こんな状況にそりゃあ腹も立っていたが、女の子に泣きそうな目でこんなことを言われてしまうと怒りよりも気まずさが勝ってしまう。たとえそれが意味不明ツイート女でもである。
派手に吹っ飛んだ割には俺の体は特に痛いところもなく、せいぜい鼻血が少し出ているくらいだった。首の後をチョップすればすぐにでも止まるに違いない。
ここは最低限必要なことだけを言って丸く収めるのがいいだろう。
「意外に大したことはなさそうなんで……後でなんかあった時のために連絡先だけ教えてもらえます? えっと……多分高校は同じっすよね? 何年生っすか。名前は?」
俺が尋ねると、女の子は目に少し涙を浮かべながら、そのきれいな顔を上げる。
俺は息を飲んでしまったかも知れない。涙ぐんだ彼女の顔は、そりゃあ可愛かった。
そんな俺に気づいているのかいないのか、女の子は毅然とした表情で名乗った。
「……一年E組、小樽鈴香」
被害者と加害者。俺と小樽の奇妙な関係は、まずはこんな出会いから始まった。




