君と眺めた海
夏の日差しに焼かれた浜辺を歩く。浜辺から続く石段を登ると、小さな祠が見えた。この島によくある、海の神様を祀った古い祠だ。その祠に毎朝通うのが、俺のささやかな日課だった。
道中で摘んだ野の花を供え、いつものように手を合わせる。遠くで、海が鳴っている。しばらくそのままでいると、後ろで、じゃり、と砂を踏みしめる音がした。人が来たことを珍しいと思いながら、振り返った。そして、驚愕に息を呑んだ。
男が立っていた。その男は、俺の兄によく似ていた。しかし、兄であるはずがない。彼は、十年前に死んでいるのだから。
……
………
…………
俺が住んでいる小さな島では、海を信仰の対象としていて、海にまつわる言い伝えがたくさんある。そのひとつが、死者の魂は海へと帰る、というものだ。そして、海の果てより死者が現れ、生者を連れ去ってしまうのだと。生者の執着が死者を呼び、死者の寂寥が生者を誘う。
いくら恋しくとも、死者に心を傾けてはならない。その名を呼んではならない。その手を取ってはいけない——
脈絡なく、島の伝承を思い出したのは、男があまりにも兄に酷似していたからだ。十年が経っていようとも、俺の記憶の中の兄は一切、薄らぐことはない。穏やかで理知的な、当時の兄の面影をそっくり残しながら、精悍さを際立たせたような顔立ち。兄が生きて十年の月日を重ねたならこうなっただろうな、という理想の姿。泣きぼくろの位置まで同じだった。俺は、この男を、兄の亡霊だと思ったのだ。海の果てよりやってきて、俺を連れ去りに来たのだと。
「この島の人ですか?」
俺を見て、男が言った。低く、落ち着いた声だった。俺が最後に聴いた兄の声は、まだ変声期の途中でざらざらしていた。耳障りのいい声だな、と思う。
「えっ、ああ、はい」
つっかえながらも、何とか頷く。
「いいところですね。海が綺麗で」
男が、階段の上からの眺めに、目を細める。果てまで広がる海は、朝日を受けて白く光っている。潮風が、彼の短い髪を揺らした。
「それだけが取り柄のような島ですからね。——観光ですか?」
「ああ、まあ、そのようなものです。今日の朝、到着したばかりで」
小さな島なので、地元の人は皆、顔見知りのようなものだ。男も島の外からきたのだろうと、容易に想像がついた。それなのに、そうだよな、兄の訳がないよな、と当たり前のことを考えて、何故だかがっかりした。
「このあたり、何もないですよ」
「いや、ずっと前に、此処に来たことがあって、記憶を頼りに、懐かしい場所を巡ってみようかと思っていたんです。でも、昔のことなので、やっぱり、随分と忘れてしまっていますね」
どうしようかな、と男は独り言のように呟いた。
「よければ、案内しましょうか? 大体の場所なら、わかると思いますけど」
「いいんですか?」
俺は笑顔で頷いた。今はちょうど夏休みで、暇を持て余していた。それに、兄によく似たその人を、もう少し側で見ていたかった。
……
………
…………
男が指名する場所は、懐かしいというだけあって、子どもが遊ぶような所ばかりだった。貝殻やシーグラスがたくさん拾える砂浜や、野良猫が住み着く港、鬱蒼と木々が生い茂るさびれた神社、廃墟となった小学校——すべて、俺と兄の、かつてのお気に入りの遊び場だった。朧げな記憶を何とか手繰り寄せているのだろう、男の説明は曖昧なものも多かったが、俺にとっても思い出深い場所ばかりだったので、案内に困ることはなかった。男を案内しながら、俺も、懐かしさに胸が痺れるように痛んだ。兄への恋しさばかりが募る。兄の生き写しのような人と歩いていることに、不思議な心地を抱いていた。
次の場所へと向かいながら、たわいもない話をする。
「お兄さん、俺より年上だと思いますし、敬語はなくていいですよ」
「ああ、それじゃあ、お言葉に甘えて。歳はそんなに変わらない気がする。君も敬語じゃなくていいよ」
「そうか? 俺は十八。高校生。お兄さんは?」
「俺は、二十一。三歳下か。それにしては、随分と大人びてるな」
「兄の影響かな。憧れてるから、真似してるんだ」
「なんだ、可愛いな」
「ブラコンだって、よく言われる」
男は、馬鹿にすることなく、優しく笑った。自然な動作で、俺の頭を撫でてくる。それが、あまりにも格好よくて、そっと目をそらした。
「やっぱり、ホンモノには敵わないよなぁ……」
まるで本当の兄に笑いかけられた気分になって、俺はつい、呟いていた。
「ん?」
「いや、なんでも。……あ、そこの角を曲がったら、見えてくるよ」
たどり着いたのは、こぢんまりとした駄菓子屋だった。俺が物心ついたときからある店で、狭くて古い店内にぎゅうぎゅうに駄菓子や玩具が詰め込まれている。地元の子どもたちは皆、この店の常連客と言っても過言ではない。かく言う俺も、幼い頃は小銭を握りしめて足繁く通い詰めていた。今でもなお、学校帰りに寄ったりする。そこで俺は、小さなお菓子をいくつかと、ソーダ味の棒つきアイスを買った。この駄菓子屋の主人である、無愛想な老女にお金を渡して、店の軒先で男を待った。アイスを齧る。男が出てきた。
「何を買ったんだ?」
男が手にしている袋を覗き込む。店では別々に行動していたので、男が何を買ったのか見ていなかった。
「うまい棒サラダ味と、めんたい味、スッパイマン、蒲焼きさん太郎」
そのラインナップを見て、俺は目を見張る。「君は?」と返してきた男に、自分の袋の中身を見せた。そこに入っているのは、うまい棒サラダ味と、めんたい味、スッパイマン、蒲焼きさん太郎——
「気が合うな」
男が驚いた声で言った。
その時、俺たちの前を自転車が通り過ぎた。自転車はすぐに止まって、乗っていた男がくるりとこちらを向いた。無邪気な笑顔で、こちらに手を振ってくる。
「おーい、カイー!」
高校の友人だった。友人は、自転車を引いて、隣に立った。男の存在に気付いた友人が、こんにちは、と挨拶をする。好奇心を隠さず、生来の人懐っこさで尋ねてきた。
「島の外のひと?」
「そう、観光に来たらしいから、案内しているんだ」
「へー。こんな何もないところにわざわざ来るなんて、変わってるなぁ。おお、お兄さん、イケメンですね〜! 都会のオトコは違うなー」
男の顔をマジマジと見ていた友人が、あれ、という顔をする。
「お兄さん、誰かに似てるって言われません? なんか、はじめて会った気がしないっていうか……」
「芸能人にでも似てるんじゃないか? イケメンだから」
俺は咄嗟に誤魔化していた。子どもの少ないこの島では当然のことだが、友人は、俺の兄とも遊んだことがあった。友人は、深くは考えなかったようだ。俺の誤魔化しに、そうかもしれないと頷いていた。
「学校に行っていたのか?」
「そうそう、夏休みの特別補習だよ。お前は行かなくていいの?」
「うん」
「さすが、優等生様は違いますわぁ」
友人は、特に用事があるわけでもなかったようで、軽く世間話をした後「じゃあなー」とあっさり去って行った。
「ごめん、騒がしかったよな」
「いや、楽しかったよ。高校生のノリって感じで」
「お兄さんも、ついこの間まで、高校生だっただろ」
「……ああ、そうか、そうだったな。十代の三年は大きいから」
男は、曖昧に笑って、答えを濁した。
「そういえば、“カイ”っていうんだな、名前」
「ああ、うん」
「俺の名前も、“カイ”がつくんだよ。——カイト。“海”に、北斗七星の“斗”で、海斗っていうんだ」
ぽとり、と地面に棒切れが落ちる。俺の震える指から滑り落ちた、アイスの棒だった。男——海斗が、片眉を上げて、地面に落ちたそれを拾い上げる。
「お、アタリだ」
俺の兄の名前は、海斗という。
顔立ちは美しく、頭が良くて、性格もよくて。海の神様に、いっとう愛されて生まれてきたような子どもだった。だから、神様がすぐに惜しんで連れて行ってしまったのだろう。兄は、十一歳という若さで、死んでしまった。交通事故だった。
「カイ? どうした?」
海斗は、急に黙りこくって俯いた俺を覗き込み、その顔色の悪さに驚いていた。
「熱中症かもしれない。中に入って、休ませてもらおう」
「いや、日差しが強くて、ちょっと立ちくらみがしただけだ。大丈夫」
そうだ、大丈夫だと、心の中で唱える。この世に、同じ顔の人が三人はいるというし。“海斗”という名前だって、ありふれている。兄であるはずがない。
「随分と連れ回したから、疲れさせてしまったな。ここまででいい。お礼は、後日改めて——」
「大丈夫、大丈夫だから。他に、行きたいところはないのか? 見たいところは?」
別れの言葉を遮る。俺の勢いに気圧されて、海斗が答えた。
「最後に、どうしても行きたい場所がある。でも、案内はいらないよ。ここからすぐ近くで、道も、ぼんやりとだけど覚えているから」
「なんか、不安だな。入り組んだ道もあるし、迷子になってそう。着いて行ってもいいか?」
海斗は少し考えて、頷いた。
二人で並んで歩くが、俺も海斗も、あまり話をしようとしなかった。みぃんみぃんと蝉の声がやけに耳についた。海斗はのんびりと歩き、時折立ち止まって、街並みを懐かしそうに眺めていた。俺はその姿をそっと横目で見て、こめかみを流れる汗を拭った。進んでいくにつれて、俺の鼓動は早くなる。どこよりも歩き慣れた道。覚えのあり過ぎる道のりだった。もう、隣を歩く男が兄の亡霊であることを、認めざるを得ないほどに。
海斗の足が止まった。変わり映えのない、民家の前。俺の家だった。海斗がそのまま門扉を潜って、玄関を開け、「ただいま」と何気なく言って、家へと入っていく様子が浮かんだ。むしろ、それが自然なように思えた。気付くと、俺は海斗の腕を取っていた。海斗が首を傾げて、不思議そうにこちらを見る。
「カイ?」
「あ、えっと……」
掠れた声が出た。喉がカラカラに渇いていた。何を言えばいいのか。何を言いたいのか。どうすればいいのか。どうしたいのか。わからなくて、言い淀む。あからさまに、俺の態度は不審だった。海斗は、そんな俺を静かに見つめて、辛抱強く言葉を待っていた。奇妙な沈黙が落ちた。
その時、ガチャリ、と音を立てて、玄関の扉が開いた。ハッとそちらに顔を向ける。自分の運の悪さを呪った。出かけようとした母と、ちょうど出くわしてしまった。「母さん」海斗の小さな、小さな呟きを聞いた。
「あら?」
母が、俺たちに気付いて声をかけた。母は、二人並ぶ兄弟を見比べ、
「海斗、帰ってたの?」
俺を、兄の名で呼び、
「海斗のおともだち?」
兄に、初めましてと微笑んだ。その事実が、容赦なく、俺に、己の罪深さを突き付ける。俺は、海斗の腕を掴んだまま、その場から逃げるように、走り出した。
……
………
…………
優秀な兄は、母の自慢だった。母の期待に応え続ける兄を、溺愛していた。対して俺は、出来の悪い子どもで、母は期待することすらしていなかったように思う。母が、俺に対して無関心であることには、気付いていた。それでも、表面上は、兄と同等の愛情を抱いているかのように振る舞ってくれていた。兄が死んでしまうまで。
どうして兄だったのかと嘆きながら、俺をひどく詰っては自己嫌悪するのを繰り返し、母は心を病んでいく。憔悴する母を見かねて俺は、小さな祠に手を合わせ、神様にひたすら祈った。
どうか、兄を返して下さい。代わりに俺を連れて行ってもいいから、どうか、どうか、兄を返して下さい——
くる日も、くる日も。
そして、俺の願いは叶えられた。気が狂ってしまった母は、俺を、兄と思い込むようになったのである。
「ごめんなさい、兄さん、海斗兄、ごめんなさい……」
俺は、柔らかな砂に膝をつき、蹲って咽び泣いていた。あの、祠のある浜辺だった。
「兄さんは死んでしまったのに、俺はのうのうと生きている! ずぅっと、兄さんのフリをして! 兄さんの写真を捨てて、かけがえのない思い出を偽りで塗りつぶして! その存在を、人生を、すべてを奪って自分のものにした!!」
懺悔する俺の前に、兄もしゃがみ込んだ。そうっと、俺に囁きかける。
「お前のせいじゃない」
「ちがうよ。死んだ兄さんのせいにして、母さんのためだからと言い訳して、本当は、ちがうんだ。俺、兄さんになれば、母さんに、皆んなに愛してもらえるって、そう、思ってしまったんだ、だから。だって、兄さんがいないんだ。兄さんがいなくなったら、俺なんかを、誰が愛してくれるというの」
人には優劣を推し量る賢しさがあって、だからこそ、親の愛も平等にはいかない。愚図な俺より、優秀な兄が母に愛されるのは、しごく当然のことだと、受け入れていた。でもそれは、兄がそばに居て、俺を愛してくれていたからだ。
「それなのに、ちっとも上手くできない。どんなに、兄さんみたいに振る舞っても、兄さんにはなれない。そう、気付くばかりで」
「——くるしい?」
「くるしい、くるしいよ。気付いたところで、もう、わからないんだ。本当は、何が好きで、何が嫌いで、どんな時に嬉しくて笑って、どんな時に悲しくて泣くのか。何を考えて、どういった風に喋って、動いて、何に興味を持って、どうやって信じて、何を大切にしていたのかすらも」
この苦しみは、自分勝手な都合で、兄を汚した罰なのだ。幼い頃の、愚かな自分がまねいた結果なのだ。今になって、後悔をして、泣き言を言うなんて馬鹿げている。あまつさえ、兄に赦しを乞うて助けを求めるなど。自分の浅はかさと卑しさに、吐き気がした。それなのに、兄に縋り付かずにはいられなかった。
「お願い、兄さん、思い出して……“俺”を、思い出して……」
寄り添い、愛し、“俺”を見てくれたのは、兄だけだった。
「海星」
兄が、俺の名を呼んだ。もうずっと、呼ばれることのなかった名前を。
「そう、そうだ、海星。ああ、ようやく思い出した。俺のたったひとりのおとうと。おまえは何も変わってはいないよ。家族想いで、優しい、俺の可愛いおとうとだ」
兄は、そう言って、俺を抱きしめた。「ほんとうに?」と小さな声で問いかけると、兄は頷いた。口調も、嗜好も、雰囲気も、すっかり変わってしまっても、兄には“俺”が見えるのだろうか。ほんの小さな片鱗を見つけて、変わらずに愛してくれるのだろうか。
「ああ、でも、大きくなったな。大人になった」
兄は、どこか眩しそうに俺を見た。優しく、笑いかけてくれる。俺も、笑い返した。兄の瞳に、十八歳の俺が映っている。そいつは、さんざん泣いて、子どものように笑っていた。
潮騒の音に耳を澄ませる。ひときわ大きな波が押し寄せて、俺の足元の砂をさらった。夕暮れの砂浜に、ふたりきり。
「兄さん、もう、俺を置いていかないで。俺も連れていって」
たとえ、海の果てまでも。
……
………
…………
「海斗は、そこに居るか?」
電話口から、父の声がする。どこか冷たさが滲んだ声。離れて暮らしている父と話すのは、かなり久しぶりだった。父の問いかけに、俺は「うん」と頷いた。父は、それだけ確認したかったのだろう。「そうか」とそれだけで電話を切った。兄は、罰の悪い顔で、こちらを見ている。
兄は、亡霊などではなかった。すべては、俺の思い込みだった。兄は死んでなどいなかったのだ。
あの事故のあと、ずっと寝たきりだったのだという。目覚める兆しをみせない兄に、母の気が狂ってしまった。俺を兄だと思い込む母と、兄のフリをする俺を見限って、父は、兄を連れて島を出て行った。
「三年前に目を覚ましたけど、記憶が殆どなかったんだ。最近になって、この島のことや、弟のことをぼんやりと思い出した。父に尋ねても、何も教えてくれなかったよ。だから、黙って家を出て、この島に来たんだ」
そこまで言ったところで、自分の行動を鑑みて「考えなしだよな」と苦笑した。
「ずっと寝たきりだったから、中身はまるで成長していないんだ。海星の方がずっと大人なのかもしれないな」
「そんなことないよ」
兄はいつだって、大人びていた。記憶の中の十一歳の兄でさえ、今の俺よりずっと思慮深くて、落ち着いていた。そう伝えると、兄は「そんな大したガキじゃなかったけど」と、謙遜する。
「自慢の兄だと思われたくて、弟の前だと、格好つけてたんだよ」
照れくさそうに、白状した。
「兄さんは、格好いいよ。昔も、今も。いつだって、俺を見つけてくれる」
たとえば、小さな俺が迷子になった時。怒られて、暗がりに隠れて泣いていた時。そして、記憶をなくしていたという今日であっても。兄は、真っ先に俺を見つけてくれた。
「そんなの、当たり前だろ。俺は、海星の兄さんだからな」
兄は、どこか得意気にそう言って、晴れやかに笑った。
「もう、帰るの?」
「明日の朝になったら、帰るよ。……一緒に来るか?」
遠慮がちな問いかけだった。俺の答えが、わかっているのだろう。俺は、首を左右に振った。もう少し、この美しい海を眺めながら、俺のかたちを考えるのだ。やりたいことを見つけたら、いつものように、小さな祠に手を合わせ、海の神様に伝えよう。高校を卒業したら、島を出て、そして。
「今度は、俺から会いに行くよ」