ひとりのパンティ縫製専門職人の晩年
ガラス窓が閉められた夜の病室に、老いた男がひとり。
枕元には、パンティが一枚置いてある。
レースがふんだんに使われたそのパンティは、丸められた状態で、ひとつの置物のように置かれていた。
そのほかには、何も無かった。
暗いベージュ色の部屋の中に、ベッドがひとつあるだけだ。
そのベッドの上で、老いたパンティ縫製専門職人の松山が、呟いた。
「誰も来ない…あぁ、それでいいんだ」
松山は、ひとり、苦い笑みを浮かべた。
松山は癌患者として、入院している。
真夜中の病院は、看護師の歩く気配や、患者の咳き込む声やいびきが響いてくる。なかなかに騒がしい。
その音に誘われるように、松山は昔を思い出していた。
初恋は高校の時だった。
松山は園芸部に所属していた。
植物が好きだったからだ。
毎日水をやり、葉にさわりながら、それぞれの状態を把握し、肥料をやったり、剪定をしたりしていた。気づけば園芸部内で「グリーンハンド松山」と呼ばれるようになっていた。
それは尊敬の意味ではなく、なよなよとした松山を揶揄するものだった。
松山は、筋肉のつきにくい体質だった。
高校生になり、男性女性とそれぞれに体の発達が如実にあらわれる中、松山は女子生徒よりも細かった。
そうなると、当然のことながら、肥料袋を運ぶ時、誰よりも役に立たないのは松山だった。
「グリーンハンドは、水やりしてな」
にやにやと笑う先輩たちに、松山はへらへらと笑い返すのが日常だった。
そんな松山を他の男子生徒たちと同じように扱ってくれたのが、真波だった。
そして、丁寧に植物を世話する松山を褒めてくれる唯一の人だった。
ある日、松山は真波と当番になり、温室で二人きりになった。
とりとめのない会話だったと思う。
その中で、国語の授業の話になった。
「松山くんのクラスでも、百人一首をやったの?」
「う、うん。でも、古文は俺にはちんぷんかんぷんで…」
「わたしだって、そんなに勉強できないわ。でも、『すえのまつやまなみこさじ』って、わたしたちの名前が入っていたから」
「え、そうなんだ、へぇー」
「うん、松山くんが覚えてくれたら、わたし、嬉しいかなぁー、なんて」
「わかった、覚えるよ」
「ほんと?うれしい」
水やりをしながら、緑に囲まれて笑う彼女は、とてもきれいだった。
しかし、真波はその日の帰り道に痴漢に遭ってしまう。
軽く腰まわりを触られた後、悲鳴を聞いて駆けつけた警察官がすぐに取り押さえたため、大事には至らなかったが、真波には深い心の傷が残った。
園芸部を辞め、授業が終わると校門近くまで迎えに来た母親と帰るようになった。それでも精神的苦痛は消えず、通学路を変えるために転校してしまった。
松山は、真波を守れなかったことを悔やんだ。一緒に帰っていればと思った。
たとえ、ひょろひょろの松山でも、ひとりにさせなければ痴漢になど遭わなかったはずだ。
しかし、本当に松山が後悔したのは、歌の意味を知った時だった。
社会人になって、力仕事に向いていない松山は、接客の仕事をしていた。だが、真面目さはあるが社交性の低い松山は、接客に慣れることができず、ストレス性障害になってしまった。
しばらくの休職と復職を繰り返したが、やはりだめだと退職をすることにした。
そして、病院と職安を行き来する中、図書館で本を借りるようになった。
ある日、漫画の並ぶコーナーで、なんとなく手に取ったのが、百人一首が出てくる少女漫画だった。
その中で、「末の松山」という歌があり、そういえばと思い出したのだ。
すぐに百人一首の本を借り、松山と真波の名前が入っている歌を探した。歌はすぐに見つかった。
『契りきな かたみに袖をしぼりつつ
末の松山 波越さじとは』
二人の心は永遠に変わらないと約束したことをうたう歌だった。
結局は、女が心変わりをして、それを男が嘆いているのだが、あの頃、真波がそこまでちゃんと理解していたとは思えない。
だから、これは。
「告白、されていたんだろうか……」
松山は、ほろほろと、ひとり暮らしの部屋で、本を見つめながら涙を流した。
きっと、真波は、松山と真波の波の字の入ったこの歌を、永遠の愛を誓い合った歌だと思ったのだろう。
「……歌の通りになっちゃったなぁ」
かわいた笑い声を出してから、松山は声を殺して泣き続けた。
その後、松山は力仕事ではないという理由で、縫製の仕事についた。
一日中ミシンに張りついて、ガタガタと音をたてながら縫い続けるのは松山に合っていた。黙々と縫製を続ける松山は、古株の職人のハナヨに目をかけられ、ある職を任されるようになった。
それがパンティ縫製専門職だった。
松山は最初に、レースと柔らかい布とゴムの縫製に慣れるため、シュシュを作り続けた。失敗して、ほどいてまた縫い直すの繰り返しだったが、ハナヨは根気よく教え続けた。
「いいかい、アンタの縫い方には愛情が足りないんだ。このシュシュを好きな女に贈るつもりで縫うんだ。いいかい。パンティも同じだ。好きな女の一番大事なところをお前の手で守ってやるつもりで縫うんだよ」
松山はしわしわの顔で笑うハナヨに、力強く頷いて応えた。
ーーーそうか。もう真波さんには会えないかもしれないが、パンティを作り続ければ、いつか彼女を守ることが出来るかもしれない。
それは松山にとって、初めて見つけた生きる意味だった。
松山は、真波のためにシュシュを作り、ハナヨに合格をもらってからは、パンティを作り続けた。その執念が出来上がったパンティから見てとれたのか、ある人から専属になってくれないかと声がかかった。
「……俺、あ、いや、私がパンティ職人・田中の専属に…?」
「ああ。先方から是非にと。パンティ田中さんはデザインから縫製まですべてひとりでやっていたんだが、松山くんの腕を見込んで、縫製を任せたいと。ああ、職場はここで変わらない。パンティ田中さんが縫製した見本と同じように作って欲しいんだ。できるよね?」
「……は、はい!社長!やらせてください!」
松山は大きく頭を下げて、涙を隠した。
世界的に有名なパンティ職人・田中に認められた。
それは松山にとって、勲章をもらったように誇らしい出来事だった。
その頃、松山は縫製工場に出勤すると、玄関周りの植木鉢の世話をしてから、仕事を始めるのがルーティンだった。
そして、その水やりの時に毎朝会うのが、斜め向かいの家から出てくる小学生の女の子だった。
職場の同僚であるお母さんたちが「すうちゃん」と呼んでいることくらいしか松山は知らなかったが、なんとなく胡散くさい目で見られていることは気づいていた。
ーーーまぁ、仕方ないよな。縫製工場で男の縫製職人は俺だけだし。
道路に面した窓のそばには、検品前のパンティが山積みになっていたりすることもある。何を作っているのか、一目瞭然だった。
「おはよう。気をつけていってらっしゃい」
「………おはようございます」
職場の同僚であるお母さんたちと同じように声をかけるが、毎回渋い顔で返事をしてくる。
それに苦笑いで答えるまでが、松山の日課だった。
そんな顔見知りになったような、なっていないような付き合いの「すうちゃん」が、不審者に声をかけられていたのは、空を覆った雲がオレンジ色に染まった、不吉な雨上がりの夕方だった。
「何をしている!すうちゃん、こっちにおいで!」
「……おじさん!」
毎日水やりをしながら、近所の人たちを覚えていった松山が、一度も見たことがない男だった。ひょろひょろの松山が、ジョウロから水をこぼしながら「すうちゃん」に駆け寄ると、男は慌てたように逃げていった。
「すうちゃん、おうちにお父さんかお母さんはいるのかい?」
「…お母さんはいない。お父さんは、まだ帰ってこな……」
「すうちゃん」は、答えきれないうちに、涙をぼろぼろと流しはじめた。
松山は、こぼれた水でびしょびしょになった手を慌てて服で拭いてから、「すうちゃん」の手を繋いで縫製工場へ向かった。
「すうちゃん」は、お父さんが帰ってくるまで、縫製工場で面倒を見ることになった。学校と警察に連絡はしたが、お父さんの職場から家まで時間がかかるらしい。
お菓子や飲み物を並べても、「すうちゃん」は手を出さなかった。困りきった松山は、自分の机を漁ったが、出てきたのは塩昆布だけだった。
ーーー何か女の子の喜びそうなものは…。
その時、パンティ縫製の前に作り続けたシュシュを思い出した。
松山は、急いでシュシュが詰まったビニール袋を「すうちゃん」の前に出した。
「こ、これ、好きなもの、選んで」
高校生の真波をイメージして作ったシュシュは、小学生の「すうちゃん」には大人っぽいかもしれない。松山はそこに気づき、失敗したと心の中で呟いた。
しかし。
「……うわぁ、大人っぽい。いいの?もらっても」
「あ、ああ、練習で作ったやつだから、好きなだけ持って帰っていいいよ」
涙を拳で拭くと、「すうちゃん」は目をキラキラさせながら、シュシュに手を伸ばした。
翌朝から、「すうちゃん」が笑顔で松山におはようと言ってくれるようになった。
ベッドの上の松山が、目を覚ます。
真っ暗だった病室は、いつの間にか明け方の色に染まっていた。
「……朝、か」
松山は、乾いた咳をひとつした。
あれから、何度か高校の同窓会へ行き、真波が結婚をして子どもを産んだこと、その後に離婚をして、子どもと二人で暮らしていること、そして、五十歳を前に再婚したことを人伝てに聞いた。
松山は、ずっと独身だった。
まさに、あの歌の通り、永遠の約束をしたと思っていた女を思い続けている。
ただ、パンティを縫い、いつか真波がそれをはくことを期待して。
その夢すら、壊れかけたのは、還暦を前にした時だった。
頚椎症性神経根症で、右手に痺れと痛みを感じるようになったのだ。
頚椎の加齢による椎間板の変形で、つまりは老化現象だった。
特に、パンティ縫製をするために前屈みになると一時間ほどで辛くなる。
服薬と首を伸ばす牽引療法と温熱療法でなんとか痛みは和らぐようになった。
だが、パンティを作れなくなってしまうことが、松山にとっては恐怖だった。
ーーー俺の生きる意味がなくなってしまう。
縫製工場としても、一日で一時間が限度のパンティ縫製専門職人を雇い続けることは難しい。
松山は、藁にもすがる思いで、パンティ職人・田中に助けを求めた。一度も会ったことのない世界的有名人に。
返事は翌日、サングラスの若い女が持ってきた。
「パンティ田中師匠から依頼されてきました。筒井数子といいます。あなたがパンティ専門縫製職人の松山さん?」
「ああ…いや、はい、そうです」
「あなたのパンティ縫製の技をパンティ田中師匠は惜しんでいます。もし、仕事がないのなら、パンティ専門学校で教育する側になってみないかと」
「……教育を?」
「ええ、あなたはデザインこそできませんが、それ以外のパンティ作りをすべてこなせます。それも、パンティ田中師匠と同程度に。これはとてもすごいことなんです」
「……だが、私にそんな大役は…」
「おじさん、すうちゃんのお願いでもきいてくれないの?」
「……え?すうちゃん?」
松山が顔をあげると、そこにはサングラスを外した女が笑っていた。
「まさか、おじさんがパンティ田中師匠が認めるパンティ縫製専門職人の松山だったなんてね」
シュシュに手を伸ばした時と同じように、目をキラキラさせながら握手を求める「すうちゃん」がそこにはいた。
松山は、ぎゅっと唇を噛み締め、紅潮した頬で、涙を堪えていた。
それから、パンティ専門学校の講師をしながら、「すうちゃん」こと、パンティ職人・数子のデザインしたパンティを縫製するようになった。
数子のデザインするパンティは、なんだか奇妙だった。
パンティ職人・田中が作るような欲情を誘うものではなかった。むしろ、それは鎧のようだった。
ーーー今の流行りはこういうものなのかなぁ。
松山はデザインの方には疎く、ただ素直に数子の求めるままに、パンティ縫製職人として作り続けた。
そして、還暦を迎え、七十を目前にした頃、癌が見つかった。
それはごくごく初期の悪性腫瘍で、手術をして取り除き、抗がん剤治療をすればまだまだ生きられるとのことだった。
「まぁ、ちょっと休めってことね」
「すうちゃんにこき使われたからなぁ」
「じゃあ、入院前に雑誌の取材よろしくね」
「………こんな枯れ枝みたいな見映えのしないパンティ縫製専門職のじじいを取材してどうするんだよ」
「もちろん、冥土の土産に、よ」
「人づかい荒いなぁ。はいはい、分かったよ」
松山は、人生で初めての取材を受けた。
相手は、アクリル板越しにパンティ職人・田中を取材した那珂川という伝説の記者だった。どうやら、人見知りのパンティ職人・田中が松山について知りたがっているのが、本当の理由らしい。
「まったく、困った人ですよね」
そう笑いながら取材を始めた那珂川に、問われるままに、松山は拙い言葉で、歩んできた人生を語った。その中には、高校時代の思い出の歌の話も出た。
『契りきな かたみに袖をしぼりつつ
末の松山 波越さじとは』
「もう、半世紀前のことなんですけどね…」
「いえ、素敵な思い出を教えて下さって、ありがとうございます」
那珂川は、真っ白な白髪頭をゆっくりと下げた。松山も、それに倣うように、少し頭髪の減った頭を下げた。
そして、今、手術当日の朝を迎えた。
今日は、記念すべき第一回目の「パンティ職人・田中杯」の決勝の日だった。
パンティ職人・数子とパンティ専門学校の卒業生在校生が一丸となって、今日の決勝を迎えた。
松山の手術と、決勝の日程が重なった時、松山は決して病院には来るなと厳命した。
「来るなら、優勝してこい」
それは、パンティ縫製専門職人の松山としての意地とプライドだった。
そして、ひとりで病室にて手術の時間を待っている。
正直、もういつ死んでも後悔はない。
妻も子どもも持てなかったが、パンティ専門学校の教え子すべてが自分の子どもだと思っている。
「あぁ、それでいいんだ」
松山は、病室の扉が開く音を聞いた。
看護師かと目線をやれば、そこには小綺麗な老婆が立っていた。
「……久しぶりね、松山くん」
「……ま、まさか、真波さん…?」
「覚えてて、くれたのね」
ふわりとスカートの裾を揺らしながら、真波がベッドに近付く。
その手には、那珂川の取材記事の掲載された雑誌が握りしめられていた。
「…わたし、忘れてないわ。でも、契りを守れなくて、ごめんなさい」
「…いや、いいんだ、俺も、何もできなかったから…せめて、あの時、一緒に帰っていれば」
「いいえ、わたしの娘、数子を守ってくれたじゃない」
「え、真波さんの再婚相手は…」
「ええ、数子の父親よ。もう、亡くなったけど」
「……そうか」
半世紀ぶりの再会は、松山からも真波からも言葉を奪っていた。
話したいことは互いにたくさんあったが、あまりにも多すぎて言葉にならなかった。
沈黙が病室に染み込んだころ、手術室へ案内するために、看護師が訪れた。
「……じゃあ」
「……手術、がんばってね。待ってるから」
真波のその言葉で、松山の感情があふれた。
待っていてくれる。
ーーー今度は、真波が、俺を。
「これからは、俺の作ったパンティをはいてくれないか?!」
「もう、はいてるわよ」
「ええ?!」
「数子がデザインしたパンティ。あれ、わたしたち世代向けの補正下着よ」
「……道理で。鎧みたいだと思った」
「そうね、鎧よ。わたしは、あなたに守られているのよ」
皺の目立つ目元で、美しく笑みを浮かべる真波は、温室で笑っていた時と同じで、とてもきれいだった。
「……そうか、俺は、真波さんを、ま、守れていたんだな……」
ぐすぐすと、細い身体を折り曲げながら、看護師に背を支えられ、松山は病室を出て行った。
手術室に向かうストレッチャーの上で、松山は涙を流し続けた。
そして、全身麻酔から目を覚ました松山は、「パンティ職人・田中杯」の優勝クリスタルトロフィーを抱えた数子と、真波の母娘を御守りのパンティと共に、枕元で見つけるのだった。
「…ただいま」
「おかえりなさい、松山くん」
「おかえり、おじさん」