透明なマニキュア
化粧なんて、馬鹿がするものだ。
「窪谷! またお前は……!」
朝八時の教室に、怒号が響き渡る。
紅色のリップクリームをつけて登校した窪谷さんが、また怒られた。
少し前にもみんなの前でつけまつげを剥ぎ取られたばかりなのに、懲りない人だ。その前は茶髪に染めてきて、黒いスプレーを掛けられていた。あれは人権的に問題がありそうだったけれど、校則を守らない生徒は人間ではないのかもしれなかった。他でもない先生の態度が、そう言っていたのだ。
窪谷さんの唇が雑に拭われた後、授業中。
隅々まで正しく着こなした制服の、スカートのポケットに振動を感じた。それに続いて聞き覚えのあるメロディが流れ出す。珍しく私のスマホに着信があったらしい。
「おい誰だ」
授業中の端末操作は禁止されている。それが例え、マナーモードの仕損じによる着信音であっても、端末を取り上げられる対象になる。
チョークを持った先生が手を止めて、私の方を見た。
しかし目は合わない。
私の後ろの席を見て、その隣に目をやって、そして私のことをどうでもいいように見逃した。
私は未だ鳴るスマホを静かにさせようと、ポケットに手を入れた。
「せんせー、久住だった!」
犯人捜しの緊張感をつんざいた通報は、私の左斜め後ろの席から上がった。
先生が私を見る。
「……没収しとく?」
私は首を横に振った。反射的なものだった。
「はぁ? ずるくね」
授業が再開した。
至極当然な不平の声が続いていた。
チャイムが鳴って、私は先生にスマホを預けた。連絡を取る相手もいないし、ソシャゲのログインボーナスは既に獲得してある。となると、今日の所は用済みだ。
ぼんやりと、教室を見渡す。
いくつか人の塊があって、その中のひとつ、窪谷さんがいるグループに目を向けた。
「――いいね、清潔感ある」
「でしょ。ベースコートだけ塗ってきた」
自慢げに手をひらひらさせるその人の席に、3人の女の子が集まっている。その爪はやけにぴかぴかしていて、ベースコートというのはマニキュアの類なのだろうと思った。
「マリはやりすぎなんだよ」
窪谷さんが机の端から反論する。
「でもリップくらいよくない? これで学業に支障なんか出たらこの世はファンタジーだよ」
確かに。と心の中で同意して、あまり盗み見るのも良くないと、視線を外した。
罪悪感が、べったりとこびり付いている。
苛立ちがそれを上書きする。
これは差別だ。
問答無用で取り上げてくれたら良かった。
品行方正な優等生。
それが周囲から向けられる眼差しだ。
特に反発するような熱意も無いし、自我もない。手間をかけてスカートの丈を短くするより、少しでも長くベッドにいたい。
それだけの怠惰を、みんな眩しそうに見てくる。
それはピクニックにぴったりなお日様というより、炎天下の灼熱に向けるものに似ている。
みんながスマホをいじるように、私は本を読んだ。
放課後。
職員室でスマホを受け取り帰路につく。
念のため確認してみるも、着信はない。
なんとなくSNSを開いて、ざっと見る。
そこで重大な情報を得た私は足早にコンビニへ向かうと、週刊漫画雑誌を手に取った。単行本派だけれど、好きなタイトルが表紙を飾るとなれば話は別だ。
レジへ向かうと、そこには田代君の姿があった。私の左斜め後ろの席の、田代君だ。
彼はびくりとした表情でこちらを見ていて、だから私は人差し指を立てた。それを口元に持っていって、おまけに笑ってみる。
我が校の校則は、アルバイトを禁じている。おそらく密告されることを恐れているのだろう。
「……」
田代君は難しい顔をしている。
「……」
320円を1000円で支払う。小銭が無かったのだけれど、嫌がらせだと思われていないか気になった。
「今日、ごめん。スマホ」
お釣りと同時に、謝罪を受けた。
「なんかノリっていうか。あの後わざわざ預けに行くとも思わなかったし」
案外、繊細というか、気にするタイプのようだ。
「大丈夫、内緒にするよ」
私には告げ口の趣味、ましてや悪を明らかにする正義感なんてない。田代君が不安になる必要はどこにもない。
けれど田代君は私を正義の人間と見ていることも分かっている。
「本当は、小説より漫画の方が好きなんだ。田代君『戦翼』知ってる?」
ガラにもなくフレンドリーに、軽快に話題を振ってみる。
「まあ」
「そうなんだ。私浦島編が好きなんだ。田代君は?」
多少の効果があればいい。
「……久住、漫画も読むの意外だった」
効果はバツグンかもしれない。
「俺も浦島かな。鬼島もいいんだけど」
「ああ、わかる!」
ガラガラだった店内に、お客さんが入ってきたのを合図に店を出た。
まるであの、透明なマニキュアみたいだ。
不自然を武装して馴染ませて、あたかも自分の一部であるように見せる。
化粧なんて、馬鹿がするものだと思っていた。
あの、やけにぴかぴかする爪を思い出す。
息苦しい。透明な枠が、私を閉じ込める。
あの紅い唇を。つけまつげ、それから茶髪を思い出す。
彼女はああして、息をしているのだ。