10000人レース ー3
猫に会いたい、と彩乃は思った。
1日に16時間はたっぷりと寝ている愛猫だが、彩乃の心がギザギザになった時には、必ずニャアと鳴いて側にきてくれた。小さくて、柔らかくて、トロリとした体温を膝にのせると硬くなってしまった体もほぐれて癒された。
北門に立って、その外をじっと彩乃は見ていた。
樹木が繁茂して内部がやや暗く、枝葉や幹、下生えなどが密生して見通しが利かない。濃密な緑のにおいが学校まで届くが、密に生い茂った木や草が森への風の出入りをふせぎ学校とは別世界を形成している。
こわい、と思った。
家に帰りたい、と強く思った。
家に帰れば猫にあえる。家族にあえる。
どうして、
どうして、
どうして、私は今、ここにいるの!?
今朝は家にいたのに。猫にあいたい。家族にあいたい。
ぐるぐると、思考がまわる。ぐるぐると、不安と恐怖がおいかけっこしている。
うつむく彩乃をあたたかい手がやさしく撫でた。
猫ではない。
猫ではないが、猫以上に彩乃をいつも、不安から、怒りから、悲しみから、救ってくれた、やさしい手。やさしく強い高広。
「大丈夫。必ず守るから。なんたって俺、5歳から彩乃一筋じゃん」
ニッカリと笑う高広に彩乃は体の力をぬいた。高広がいるならば安心できる、彩乃は息をソッとはいて、あたたかい手に頬をよせた。
いつも高広は守ってくれる。
7歳の時も、守ってくれた。
7歳の時、彩乃は誘拐されかけた。高広は蹴られて骨折しても最後まで犯人にしがみついていた。近くにいた両親が助けにくるまで。
その時、高広は自分の無力を痛感した。
それが武道を習うきっかけとなった。
高広は16歳の今では、スポーツとしての武道の大会には出場できないほどの、桁違いの実力者となっていた。つまり、ルール無用の戦闘術として規格外なのだ。
体格はいいが垂れ目で笑うと人懐っこく見える男前のため、そうは見えないが。
「すまん。待たせた」
祐也と理々が走ってきた。
「いや。俺たちが、少しはやかっただけだ」
器用な高広は待っている間に、園芸部でみつけた竹に包丁をくくりつけ即席の槍を2本つくっていた。彩乃と理々に一本ずつ持たせる。
「やっぱり、リーチが長いほうが、ケンカは有利だもんな!」
高広は自分はシャベルをえらび、腰のベルトに包丁をはさんだ。祐也はバットを持つ。
「外に出る、ってことは魔獣を殺すことになる。いや、魔獣に襲われると思う。さっき理々が魔獣の討伐優先権をもらった」
祐也は、倉庫でのアナウンスを高広と彩乃に話した。そして、わざわざ優先権を与えるからにはクエストか何かにつながっている可能性があることも。
「覚悟を決めよう。僕たちは、これから命を奪いにいくんだ」
ゴクリ、と喉がなる。
ピンと空気が張り詰め、4人の視線がからみあう。だが目をそらす者はいない。自分の心臓の拍動がきこえるようだ。
学校を走り回ってわかったことがある。やはり教師の姿が一人もなかった。それは、守ってくれる者、あるいは指示を出してくれる者がいないということであり、同時に抑止力が学校には存在しない、ということであった。この異常な状況下で生徒のみの学校など、簡単に暴力の罠に墜ちてしまうだろう。
だから祐也と高広の目はゆるがない。迷う段階は、もうすぎた。決めたならば進むだけだ。
彩乃と理々も、口をかたく結び視線をあげている。
「あるいは僕たちが命を奪われる立場になるかもしれない。それでも、もうレースが始まっているならば行くしかない」
決意をこめた祐也の声に皆が頷いた。