あの時のあの空気、一緒にいたみんな、忘れない・・
十月×日水曜日。
場所は日本。洋品店を営むくたびれた様子の夫婦が台所を挟んで反対向きに対峙している。
夫婦には二人の娘がいる。姉は名を久美という。中学三年最後の部活、バスケでキャプテンを立派に務め上げ、今は2階の自分の部屋でテスト勉強中。
そこへたった今ソフトボールの部活を終えたばかりの妹、菜々が帰って来た。
夫婦にとって、悩みの種。姉の久美は先生の評価もよく、友達も多く、勉強もスポーツもよく出来て。
洋品店の経営は思わしくはない。子供には言えないが、いつも今月の食費を工面するのにせいいいっぱいな生活。中学二年の菜々はそんな気分を逆なでする。反抗期の真っ只中で、用事がなければ近寄っても来ない。
余計イラつかされる。今日も帰るとすぐ冷蔵庫から菓子パンと牛乳を取り出すと、逃げるように自分の部屋へ。夕食の支度に追われている母親からため息が漏れる。
菜々は部屋に入ると。今日もノートに心のつぶやきを書き綴る。
≪ 新人戦に出ることが決まって、私は2番のユニフォームをもらった。
でも気にかかることが一つ。明日 アンダーシャツとソックスを買わなければいけないけど、
それが二つあわせて3000円ぐらいするらしい。
一応、みんなで4000円持って来る事に決めたけど、それが問題だった。
母に「4000円、アンダーシャツとソックス代ちょうだい」
と言ったら、いい顔しないに決まっている。それを思うと、とても悲しくなって、自分がみじめ
だった。
家に帰ると、やっぱり予想通りだった。
母に、「明日、アンダーシャツとソックス買わないといけないから、4000円ちょうだい」
と言うと、やっぱりいやな顔をした。
その瞬間、私は(ああ、また何か言われるな)と思い、心が暗くなった。
「もう!もっとはっきり何に使うかいいなさい!」
と 母が言った。
「だから、アンダーシャツとソックスだって言ったよね!」
「ひとつの値段を言えばいいでしょうが。」
「それがわからんから、4000円持っていくんでしょーが。」
「もう、4000円、4000円て、そんなに軽々しく言わないで。先月スパイクでも4000円近く払って、今月はないと思ってホッとしてたのに。」
(そんな!私だってお母さんの気持ちくらいわかるわ!何も軽々しく言ってるんじゃない!私なりに悪いと思っているのに、、ひどいわ!)と、そう思った。(ああ、どこかお金のない国へ行きたい、、お金の事で争わない国があったら、、)
でもそれは夢のまた夢、、
その時だった。また母が口を開いた。
「こら!洗濯物たたまないと、4000円なんか出してやらないよ!」
私はその時(そうら、また来た)と思った。金で人を釣るなんて、なんて汚いんだろうと、改めて身に染みた。いそいで涙をふいていると、今度は父が
「返事もしない者に金なんか出さなくていい!」
と、どなった。私はその時、涙で声が上ずりそうだったので、返事しなかったのに。
この4000円の出来事で、私の新人戦への楽しみは、見事に暗闇のすすへと変わった。
(もう、新人戦なんて出たくない!)
そんな気にもなった。≫
「菜々ちゃーん、ごはんだよー」
階段の下から母の声が聞こえ、言い終わらないうちに踵を返して台所へと向かう気配が伝わる。
菜々はしぶしぶ椅子から立ち上がり、毎日繰り返される日常の中へと沈んでいった。
菜々の日記より。
≪十月×日土曜日。
昨日はソフトの新人戦だった。
思い出すのも嫌だけど、もう一度しっかり自分を見つめるために書こう
と思う。
朝、5時25分に家を出た。外は真っ暗。オッチャンは大分経ってから
来る。小雨の中をさいちんと れいと オッチャンの4人で海東駅
に向かう。
着いたら岩次中学まで歩く。
キャッチボール。私はグローブを一年に貸したのでさいちんと球拾
い。(ヤマンバ、がんばってね!私が交代しなくてもいいよう
に、、)
試合開始、対戦相手は岩次中学。しっかり応援する。初めはなかな
か調子いい。しかし、7点 1回に入れられる。こっちは3点。
2回は1対3でこっちがリード。
しかし 次からがいけなかった。もう点が入らない。どんどん入れら
れていく。途中でふるっちと てんてんが起用されたが、私はされない。
ヤマンバはストライクが入らなくなった。疲れてきたようにみえる。
私も投げたい。一生懸命やれば・・その時だった。先生が
「誰か、投げれる者はおらんかなあ」
と言う。隣にいたタマが、返事をした。
「あ、先生、三好さんは?」
「三好はピッチングの練習をしてから下手になったからだめだ!」
私の期待は、無情にも打ち砕かれた。さっきまで張り上げていた、
ファイトの声もだんだん小さくなった。
(もうだめだ。もう私は終わりだ。)その時そう思った。もう、試合
どころじゃなかった。(先生!私だって投げようと思えば投げられます。
あの時は決まらなかったけど、その後のピッチング練習の時は、ほとんど
ストライクばかりでした。)
そう叫びたかった。でも言えなかった。
(私は所詮、ピッチャーなんて向いてなかったんだ。)
がっくりして、その途端気分が悪くなった。
(早くここから逃げ出したい)
そういう気持ちでいっぱいだった。
でも、今は違う。もっともっと練習してヤマンバよりもうまくなって、
新人戦での屈辱を晴らしたい。
31対6の差を挽回したい。
過去のことはもうくよくよ考えないで、明日の事を考えなければいけ
ないと思うようになった。
そのために、どんどん進んで練習に参加しよう。人より十倍も練習
しようと思う。
明日に向かって! ファイト! ≫