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出口求むる魚 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 あら、こんにちは。こんな時間に珍しいわね。その両手に提げた買い物袋を見た感じ、これから帰りってところね。

 私は犬の散歩。最近、この子も運動不足だから身体を動かさないとって、連れてきたわけ。

 日暮れ時のこの辺りって、人通りが少なくていいわよね。結構、私も気に入っているのよ。この子もだいぶ小さいから、踏まれたり蹴っ飛ばされたりする可能性を減らしておきたいしね。まあ、その前にたいていの通行人が道を開けてくれるとは思うけど。

 それにね、人がいっぱいいるところって、私たちも注意を重ねないといけない事態があるらしいわよ。「どいてどいて」なんて夢中で人波を掻き分けている間に、大事なものに気がつかない、なんてことがないように。

 ――ん、やっぱり聞きたい? じゃあちょっとその辺りのベンチにでも座りましょうか。


 江戸時代の後期。当時の平均寿命は女なら二十八歳。男なら実に二十歳という、極めて低い数値を持っていたわ。もちろん、皆が高齢者になる前に世を去ったわけではない。

 乳児や幼児の死亡率が全体の七割にも及び、平均寿命の引き下げに関わっていたため。事故、病気も脅威ではあったけど、この中には死亡したとみなされた、行方不明も混ざっていたらしいの。これもその不思議なケースのひとつ。


 正午過ぎ。使い走りの小僧さんは、町中の雑踏にもまれていたわ。午後は帰り次第、お店の入り口に立って、客の呼び込みをすることになっていた。これだけの通行人がいるということは、絶好の商機とも言える。ところどころで、他店のものと思われる老若男女の声がするが、足を止めるのはごく一部。人の流れはまるで川のごとくとどまることを知らない。

 まだ店までは遠い。先へ先へと急ぐ小僧さんだけど、ふと自分の股の間を何かがくぐっていった感覚に襲われる。ほんの一瞬のことで、何が通ったのかはとっさに分からなかった。

 振り返ってみても、それらしい影が見えない。突然、足を止めた自分に対して怪訝そうな表情を浮かべながらも、左右にどきながらおのおの先を急いでいく。

 小僧さんは自分が触られた部分をなでながらも、また店に向かって人ごみを掻いていったわ。


「ぱっと思いつく限り、そいつは『すねこすり』にも思えるが」


 閉店後の店内。いつも通り、読み書きそろばんを習っていた小僧さんは、休みの時間で番頭さんに昼間の話をしてみたところ、こんな返事が返ってきたの。

 小僧さんは何のことかわからず、首を傾げる。


「わしの地元では有名なもののけだ。伝承によれば、雨の夜中に道を歩いていると、その足の間をこすっていく。こすられた者は歩きにくくなったり、転んでしまったりするという。だが、今回はあまりにも状況が違う。ことによると、『地魚』の方かも知れぬ」


 地魚は、水の中の魚と同じように、空を泳ぐと言われている。しかし「空魚」とならなかったのは、地面のすれすれを泳ぐからだ。

 彼らは地面の上、およそ三寸ばかりの位置に浮き上がり、猛烈な勢いで動くのだという。あまりの速さゆえに常人の目にはとまらず、多くの者が、そいつのヒレに足を叩かれる感触のみで、存在を知覚するより他にない、とも。

 

「わしの方でも時間があれば調べてみるが、もしもお前の言うことが正しければ、いずれ客のうわさにも上るだろう。ひとまず今は、算術の続きだ。もう休みは十分だろう。始めるぞ」


 小僧さんは再びそろばんを手に取ると、番頭さんが読み上げる数に合わせて、ぱちぱちと玉を弾いていく。


 それから数ヶ月の間、使い走りで外に出た小僧さんは、何回かあの時と同じ、足の間をくぐられる感覚に襲われたわ。本当にくぐられたくなければ、足を閉じたままぴょんぴょんとから傘のお化けのように移動すればいいのでしょうけど、そうもいかない。

 でっちといえど店の端くれ。奇行に走って評判を落としてはならないと、つとめて普段通りに振る舞っていたそうね。ただ警戒は続けていたおかげか、小僧さんは常人には目にも止まらないという「地魚」の影を、かすかにだけど見ることができたわ。

 思ったよりも大きい、というのが第一印象。大きめの犬くらいに見えた。でもそれが精いっぱい。いずれも雑踏の中で出くわすから、細かい姿は目に収められなかったけど、自分の後ろの方で「あっ」と小さい悲鳴が上がることもあって、その声の主も足をくぐられたのかな、と思うこともあったみたい。

 自分で調べてみたいのはやまやまだけど、小僧という立場では給料がなく、調べものをする金も時間もなかったようね。だから教育係たる番頭さんから、話を聞くしかなかったわ。

 

 地魚についての情報、番頭さんは二つ調べてくれたわ。

 一つ目は、その影響について。地魚という具体的な名前が出されることは少なかったものの、何人かはもう小僧さんのように、股をくぐられた経験があったみたいなの。けれども事態はそれだけでは済まない。

 くぐられたと話した者の中には、ある日突然、行方が分からなくなってしまった者が出たとのこと。外に出て帰ってこなかったこともあれば、家の中にいながら神隠しに遭ってしまった場合もある、と番頭さんは聞いたみたい。

 

 二つ目は、その存在について。地魚というのは、もともとこの現世で生まれたものではないという。現世には迷い込んでしまっただけで、自分の住処に帰るため懸命に「出口」を探している。

 だから人の足と足の間ですらもくぐろうとする。出口だと思って。

 そうすると、他の魚も次から次へと通り抜ける。するとそのうち、釣り針ごと食いついて持っていく魚のごとく、「出口」ごと持って行く者も現れるだろう、と。

 ぶるぶる震えながら番頭さんに、何か対応策がないかを尋ねる小僧さん。すると番頭さんは、寺の住職から聞いたという、ある方法を教えてくれたの。

 

 数日後。いつものように使い走りが終わった帰り際。

 できる限り人通りの多い場所を避けようと、曲がりくねった路地を進み、店へと向かう小僧さん。けれども、道中で一番長い路地に差し掛かった時。

 足の間を何かがすり抜けていく感覚。間違いなく、これまで何度か味わったものと同じだ。

 けど、今回はそれだけじゃない。わずかに遅れて両足のすねががっちり掴まれたかと思うと、強く後ろへ引っ張られたの。たまらず、小僧さんは前のめりに倒れてしまう。そのまますさまじい勢いで後ろに向かって引きずられていくの。

 

 先ほどまで歩いていた路地の景色が、前へ前へと遠ざかる。不意に、一瞬視界が暗転し、今度はこけの生えた地面の上を滑り出す。見上げると、枝を左右に張り出した松の木が目に入ったわ。どこかの屋敷の中と思われた。

 けれど、それもつかの間。頭上を照らしていた陽の熱さが消え、屋根らしきものの下に。前方に見える光を残して、どんどん暗闇の道が広がっていく。うつぶせになった身体に触れるのは、じめじめとした冷たい地面の感触。縁の下を引きずられているんだ、と小僧さんは感じたの。

 そしてまた視界が明るくなると、あろうことか自分がいるのは、多くの人が闊歩している大路。そのど真ん中で、自分は引きずられ続けている。

 ばたつく自分の四肢は、なぜか誰の身体をつかむこともできず。助けを呼ぶ声は誰の耳をとらえるでもなく。ただひたすら、彼らの足の間を狙いすましたかのように、通り過ぎていったの。時々、通り過ぎたあとで振り返る人もいたけど、こちらが見えていないようだった。

 

 小僧さんは悟ったわ。自分が見てきた「地魚」の影の正体を。

 だったら、番頭さんに教わった方法も使えるかも知れない。

 小僧さんは手のひらを組むと、両肘を限界まで外に突き出す。顔の前に、いびつなひし形の「門」が出来上がった。そして、高らかに告げたの。


「お前の住処を、ここにつながん」


 足がちぎれるかと思うくらいの強い引力が、消えた。ほぼ同時に、上空から降って来た影が自分の作った「門」の中に飛び込み、どぷんと音を立てる。

 影は水へ入っていったかのように、硬い地面の中に入りこんで見えなくなってしまったの。

 

 気がつくと、小僧さんは人だかりの中心にいた。やじ馬たちは隣にいる者とひそひそ話はするものの、自分から小僧さんに声をかけてくる者はいなかったわ。

 きまり悪そうに立ち上がる小僧さん。あれだけ引きずられたというのに、店からの支給品であるあわせには、わずかな土ぼこりがついているだけだった。

 辺りを見回す。町の中らしいけど、自分の見知った店の並びではない。尋ねてみたところ、そこは小僧さんが勤めているお店から、何十里も離れた遠い場所だったとのことよ。


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