彼女の問題
相川さんとの一件をなんとか自分の中で消火し、2人で保健室から教室へと帰る。
教室のドアを開けた瞬間、歓声が聞こえたのにはびっくりした。みんな、わたしと相川さんが逢引きしていたとでも思っていたのだろうか。
まあ、この過剰反応にはもう慣れたけれども。
彼女を席に送り届け、その後、自分の席に座る。
「凛ちゃん、すごい人気だね。衰え知らずっていうか」
隣の席の悠が、にっこりと笑いながらつぶやく。
「ふふ。これも我が黒龍の呪縛よ。この力がある限り、この運命からは逃れられない・・・」
目を瞑りながら言って、機嫌よく右手を摩りながら悠のリアクションを待つ。
・・・。
(・・・ん?)
何も帰って来ない。
隣を見ると、悠がにこにこ笑いながらこちらを見ていた。
(あれ、聞こえなかったのかな)
教室の中も少し騒がしいし、わたしも声小さかったような気もするし。悠がわたしを無視なんてするわけがない。聞こえなかったのだろう。
どこかむず痒いような気持ち悪さを感じながらも、その結論で納得がいった。
悠の事だ。少しぼうっとしてしまったのかもしれない。
1学期最後のホームルームが終わる。
周りのみんなは通知表の結果に一喜一憂しているけれど、わたしにそれは必要ない。
次期生徒会長のわたしがこんな事で脅えたり、慌てふためくわけにはいかないのだ。勿論それは圧倒的な自信の中から生まれてくる余裕。ちらっと中を見ていたけれど、いつもと変わらない数字が並んでいた。担任からの言葉にも何も特筆すべきことは書いていない。もとより附属の高校へエスカレーター式に進学が決まっているものだから、進路で悩む必要も無い。
(きっと悠も同じだろうな)
いつもの様子で通知表を一瞥して、それを鞄にしまう悠の様子に焦りは少しもなかった。
ホームルームが終わり、まさに夏休みが始まる。
最初にすることは悠と一緒に寮へ下校することだ。
「あとで本屋へ行こう。欲しい漫画の新刊が出るんだ。あ、その後、夕食の買い物だな」
下校中、いつも通り色々な事を話す。
主にこれからの予定と夕食に何を食べたいか、みたいなことなのだけれど。
「本屋かあ。じゃあ、いつものスーパーよりあっちの大きいスーパーの方が近いね」
「ああ。そっち行くならDVDレンタルショップも行きたいな。今日から旧作80円のセールがあるんだ」
「またハリウッド映画?」
「今日は違う。ネットで話題になってたアニメだ」
悠との会話は楽しい。
お互い相手のことをよく知っているし、分かり合っている。
1番近くに居る相手だから話せること。そんなのをやいやい言い合いながら、夕暮れで少し眩しい住宅街を歩いていき、寮の中へと入る。
「あ、凛ちゃん」
「うん?」
「ちょっと私の部屋に寄って欲しいの。この間言ってた、体育祭と文化祭のスピーチの素案があって。買い物に行く前に、少し目を通して欲しいんだ」
1週間ほど前の光景が脳裏をよぎる。
そうだ、生徒会長は開会のあいさつをしなきゃいけない。それの草案みたいなものを、悠に作ってくれないかとお願いしたんだった。
ふふ、それにしても。
「夏休みが明けたらいよいよ次期生徒会長から生徒会長閣下か」
ふっ、とおでこに手を置きながらやれやれと言ったポーズをとる。
「その前に引き継ぎとか色々しなきゃならないけどね」
「なに、問題ないさ」
悠が自分の部屋のドアを開け、わたしの方が先に敷居をまたぐ。
久々に入るな、この部屋。
悠はわたしの部屋に押しかけてくるけれど、その逆はほとんどない。それこそこういう長期休暇の時じゃないと、なかなかキッカケがなくて。
(うん?)
ちょっと、室内が暗い。玄関とはいえ暗すぎないか。
先ほどまでの眩しい光景からの落差か、視界がうっすらとしか見えない。部屋中の窓を閉め切っているのだろう。
「悠、ちょっと電気つけてくれないか。なんか暗くてさ」
ばたんと、後方で玄関の扉を閉じた音が聞こえた。
わたしは悠の方へ振り返る。
「悠・・・?」
どうしたのだろう。どうして何も返してくれないのだろう。
彼女は黙ったまま、玄関扉の前に立ち尽くしている。
「あの、悠。暗いから灯りを」
一度言ったことを、もう一度言う。
珍しいな、悠との意思疎通が上手くいかないなんて。
「そうかな」
「え」
今、悠は何かを言ったよな。
「暗いかな、この部屋。私にはちょうど良いけど」
「い、いやいやいや。暗いよ。これじゃ危ないから灯りをつけてくれないか」
これで暗くない? 何かの冗談だろう。
夕暮れからいきなりここへ来て目が慣れてないのを無しにしても、この部屋は暗い。
それに悠にはこれが正常かもしれないけれど、わたしにとっては暗いんだ。
「それじゃあ凛ちゃん、これも見えないかな」
「えっ」
悠が言葉を発した途端。
がん、と耳元で何かの音がした。
いや、正確に言おう。何かがわたしの後ろにあった壁に突き刺さった音がしたのだ。
わたしは直感した。突き刺さったものの正体を。
―――刃物。
確かに暗くて見えなかったし、確信はない。
でも、今、一瞬視界に映ったあの光は、間違いなく刃物のそれだった。壁に突き刺さっている点から言って、ほぼ間違いないだろう。刃物じゃないなら先端が鋭利に尖った何かだ。
わたしは幼馴染の少女に、壁ドンならぬ壁グサをされている格好になっていた。
しかも視界が限られた、真っ暗な部屋の中で。
「は、はは・・・」
笑っちゃう。
いや、笑うしかなかった。乾いた笑い以外、何を出せと言うのか。
「やだな悠。これはさすがに冗談キツいよ」
向かい合わせになっている悠を見る。
わたしは顔の両サイドを刃物と腕でがっつりと挟まれ、まるで身動きがとれない体勢。
「な、なあ。何かのサプライズ?的なやつなのか? あれ、もしかして」
「凛ちゃん」
言葉を遮るように、名前を呼ばれる。
「な、なにかな」
明らかに声が震えていた。
片言みたいにたどたどしい口調になる。
「私ね・・・凛ちゃんのことが好きなの」
「え、あ、うん。それはもう」
自分が変な汗をかいていることを、この時ようやく感じた。
「知ってるよ。いつも、よくしてくれてるし。朝起こしてくれたり、ご飯作ってくれたり、生徒会の副会長だって」
「そんなんじゃない!!」
驚いた。
悠がこんな叫び声をあげたの、初めてだ。
こんな声を聞いたことなんて一度たりともない。あまりに驚きすぎて、わたしはびくっと一度身体を震えさせ、目を瞑ってしまった。
目を開けようとした瞬間。
唇に柔らかい感触を感じた。
そしてそれと同時に、もっと柔らかいものがそこの間から口内に入ってくる。それは異物が入ってきた感覚に逃げようとしたわたしの舌を絡め、何度も何度も絡みつくように口内を舐めまわすと、すっと出て行った。
知らず知らずのうちに、目から涙が出ている。
わたしはされるがままだった口を半開きにして、視界が滲んだまま悠を見つめた。
「私の"好き"はこういう"好き"なの。本当なら、これ以上のこともしたいって思ってる」
言って、悠は再び顔を近づけてきた。
『殺される』。
そんな恐怖が頭を掠めたのだろう。目をぎゅっと閉じてしまった。
・・・今度は柔らかく、そして湿った感触が目元を擦る。
「凛ちゃんの涙・・・、おいし」
「ひゃあっ」
悠はわたしの両目の目元を数回舐めた。
目を開ける。確かに涙は無くなったけれど・・・。それどころじゃない。
「凛ちゃん、好きだよ。愛してる・・・」
彼女はそう言って、刃物を持っていない方の手を壁から離し、自らの首元をまさぐると、制服のYシャツからリボンを外し。
「痛っ」
悠は手際よくわたしの両手を持ち、身体の後方で組ませると、両手首をそのリボンでぎゅっと強引に結ぶ。勿論、絶対に解けないような硬さで。
そして後ろからドン、と背中を押され、わたしは玄関の廊下に突っ伏してしまった。
「ううっ。悠・・・」
うつ伏せになりながら、なんとか後ろを振り向き彼女を見上げる。
そこで悠は、見たこともないような恍惚な表情で笑うのだ。
「これで凛ちゃんは、私だけのもの」
どこか色気すら感じる顔。
心底嬉しそうに、彼女は呟く。
「もう誰にも渡さない。誰にも触らせない・・・。凛ちゃんは、私だけのものだもん」
その時見た悠の目。
部屋の暗さも勿論あるのだろうが、わたしは光が消えた人の眼というものを初めて見た。
今の彼女の眼には、わたしの恐怖で歪んだ表情も、そしてわたしの心も、気持ちも。何も見えてはいないのだろう。
◆
玄関から更に暗い、奥の部屋に通される。
悠が部屋の扉を開けると、わたしは後ろから乱暴に突き飛ばされ、床に身体ごと倒れ込んだ。
痛い。当然乱暴にやられたもんだから頭も痛いし身体も痛い。手を後ろにまわされて自由が利かない状態でこれをされる恐怖といったらなかった。
わたしが倒れ込んでいる間に、悠は寮に備え付けの学習机から何かを取り出し、後ろで縛られている手首をつかむと。
がちゃん、という金属音が聞こえた。
「凛ちゃんは力も強いから・・・、ちゃんと繋いでおかないといけないからね」
耳元で聞こえる悠の声は、今まで聞いたことがないくらいに感情が籠っていない。独り言を言っているんじゃないかというくらい、何の感情も感じ取れなかった。
手首に伝わるこの冷たい金属の感じ、そしてじゃらじゃらと聞こえるこの音。
間違いない、手錠をかけられた。
リボンで結んだその上から、更に手錠を。
「それと、部屋の中で暴れられると困るからね」
そう言って、悠はもう1つ手錠をわたしに見せつける。
(足の自由も奪われる・・・!)
わたしは直感的に思った。それをやられたらもう終わりだと。
抵抗する手段が無くなるし、逃げることもできなくなる。
やるなら今だ。
悠は今、正気じゃない。話が通じる状態じゃないんだ。だったらどうするか。
この場から、この部屋から逃げるしかない。
(悠、ごめんっ!)
悠がわたしの足に錠をかけようとした瞬間、心の中で土下座しながら、思い切り脚に力を入れ、彼女を蹴り飛ばす。
足には確かな感触があった。悠を蹴り飛ばした、嫌な感触が。
わたしは立ち上がり、逃げようとする。
しかし、扉の前へ来て思い知らされた。この状態じゃ、手の自由が利かないこの状態じゃ、扉を開けることができない。ドアノブを握れないし、その前に鍵を開けることも。
どうしようかと思案していた時。
「凛ちゃん・・・痛いよ」
後ろから悠の、弱弱しい声が聞こえてきた。
「ねえ、どうして私のこと蹴るの? 私はただ、凛ちゃんと一緒に居たいだけなのに」
ばっと振り返って。
「悠! やめるんだっ。こんなの悠らしくない。何があったんだよ。わたしに不満があるんだろう? 話してくれ。謝れることがあるのなら謝るっ!」
必死に訴えかける。闇の中に居る、悠に対して。
「凛ちゃん。私のこと嫌いになっちゃったの?」
「そんなことは無いっ! ただ、今の悠は怖いんだ。わたしの知ってる悠じゃない・・・だから」
「うるさい」
悠は感情の無い声で、わたしの言葉を遮った。
「凛ちゃんはそんなこと言わない。私の凛ちゃんは、私のこと悪く言ったりしないもん。凛ちゃん、学校で変なこと吹き込まれたんだよね?」
「何を言って」
「今日、体育の授業を途中で抜けたよね。あの後、保健室でさ。あの女に良くない事を言われたんじゃないの?」
「違う、彼女は関係ない。悠、冷静になってくれ。わたしが女の子にきゃーきゃー言われたりするのなんて、いつものことじゃないか」
それを悠は認めていたはずだ。モテるとかファンが多いとか、カリスマ性があるとか。そう言って褒めてくれたじゃないか。そう言う風に考えていたんじゃないのか。
「そう。いつものこと・・・」
「うん。そうだ。特別なことじゃない、今日は普通の1日だったじゃないか」
必死に語り掛ける。
少しでも、少しでも悠の心に何かが刺さってくれればいい。そう思った。
「いつもいつも、凛ちゃんの周りにまとわりつく、虫どもがいるんだよね」
わたしは、悠を説得可能だと思っていた。
「私の凛ちゃんに、うっとうしいお邪魔虫が・・・。凛ちゃんもそれに対して、へらへらして嬉しそうにして。私ね、凛ちゃんのそういうところ、直して欲しいなって思ってたの」
それが大きな誤りだったとも知らずに。
「凛ちゃんはちょっと疲れてるんだよ。いきなり私学に行きたいって言い出した辺りから、ちょっとずつ・・・。だっておかしいじゃん。私のことが好きなら、私の傍から離れようとするわけないよね?」
悠が少しずつ、ゆらゆらと近づいてくる。
「疲れてるから私を蹴ったりするの。私にひどい事をするんだよ。そんな凛ちゃんには」
わたしは扉に張り付いた。
何かとてつもなく悪い予感がする。この予感は絶対に当たる自信があった。
「お仕置き・・・だよ」
お腹に、嫌な痛みが走る。
「悠・・・」
意識が遠のいていく感覚がした。
暗い視界が真っ暗になっていき。
「どうして・・・」
最後には立っていることもできず、倒れ込んでしまう。
急速に意識が遠のいていくと。
「凛ちゃん、おやすみ」
最後にそんな声が頭を掠め、わたしの世界は暗転した。
◆
「・・・う」
ぴくっと小指が跳ね上がる。
それと同時に目が覚めた。先ほどと違い部屋の照明はついていて、わたしは絨毯の上で寝転がっている。
「生きて・・・る・・・」
死んだかと思った。
あの意識の落ち方は、もう二度と目が覚めない類のものに思えた。
けれど、わたしは目を覚ましたのだ。
起き上がろうとした瞬間、まるで上から何かに押し付けられているかのような身体の重さとだるさを感じた。
(な、に・・・これ)
そうだ。あの時、わたしは悠に刺されたんだ。
この身体の重さは、血液が足りていないから・・・。
そう思った。刺されたはずのお腹をさするまでは。
「血、出てない・・・」
そんなわけない。じゃあ、このだるさは、身体の重さは何なんだ。
そんなことを考えながらおでこを押さえ、起き上がると。
「血は出ないよぉ。だって、さっきお腹に当てたのはスタンガンだから」
無邪気に笑いながら、そんな事を言う声が聞こえてくる。
「凛ちゃん。おはよう」
そこには満面の笑みを浮かべた悠が居た。制服から部屋着に着替えているようだ。
そう言えば、わたしの服装も部屋着のスウェットになっている。
「悠・・・」
「だって凛ちゃんの綺麗な身体に傷痕でも残ったら大変でしょ? 私、ちゃんと考えてるんだからぁ」
「なにが、どうなってるんだ。説明しりょ・・・」
舌が回らず言葉が出てこない。
「ふふ。無理しちゃダメだよぉ。会話なんてロクにできないでしょ?」
「悠、わたしに何をしたぁ・・・」
朦朧とする意識の中で。
目の前の景色がぼやける。頭がくらくらしてふらふらする。
「うん、ちょっとしたお薬を飲んでもらっただけだから」
「一服盛ったのかっ」
「やだなあ。大人しくしてもらうために処方してあげたんだよ」
冗談じゃない。
こんな状態になる薬が普通の女子中学生に投与して良いものであるわけがないことくらい、わたしにも分かる。
「お薬なら凛ちゃんの身体に傷なんてつかないもん。さっきお着替えさせてあげた時に見たけど・・・凛ちゃんの身体って本当に尊いね。昔、見た時よりおっぱいも大きくなってたし、ちょっと揉んだら凛ちゃん反応してたよ」
「こんな状態で反応できるわけが」
「そう言う薬も盛ったから」
わたしの言葉を遮るように悠は言い放つと。
「夜のお世話もこれからずーっと、私がしてあげる。欲求不満で悶々とすることなんて、一生なくなるからね」
そう言って、服の上から胸の先端に触れる。
「ひゃっ」
全身に電流が走ったような感覚がした。
頭が白くなって、何も考えられないくらいの快感が押し寄せてくる。
「ほら、ここに触るだけでそんな風になっちゃうでしょ」
「あぁっ。いやあ、やめえっ」
なにこの声。自分でも聞いたことが無い、本当にわたしの声か分からないような声が身体の奥から込み上げてくる。
「かわいい声。完全に発情してる雌の声だよね・・・。私の指でそんなに感じてくれるなんて、嬉しい・・・」
わたしは悠にされるがままされ続け、やがて意識が飛ぶように身体から力が抜けて床に倒れ込んだ。
がん、と。
受け身ゼロの音と痛みが身体を突き抜ける。
「悠、どうして。どうしてこんな事・・・」
目から涙が滲んでくる。
「凛ちゃんはそんな難しいこと、考えなくていいんだよ」
「ふざけ・・・」
必死に言葉を振り絞った。
それでも、もう意識を保っていることすら厳しい。
「大丈夫。一生私が付きっきりで看護してあげる。凛ちゃんがどうなっても、ね・・・」
悠のその言葉を聞いた瞬間。
わたしは再び意識が黒の中へ溶けていったのを感じた。
(もう、悠にわたしの言葉は届かない)
そう確信する。
何が悠をああしてしまったのかは分からない。
それでも、ああなってしまった悠に正攻法で説得することが不可能なことは分かった。
普通じゃない。普通の状態なら絶対にしないような事をどれだけしただろう。
このままじゃ、悠は壊れてしまう。
あんな事を続けていたら心が死んでしまうのは時間の問題だ。そして、死んでしまったらもう元には戻らない。死人が決して生き返らないように・・・。悠の心は永遠にどこかへ行ってしまうんだ。
でも、まだ間に合う。
話が通じている間は、会話が成立している間はまだ悠は死んでいない。もとに戻すことができるはずなんだ。どうすればいい。
どうすれば、悠はわたしの話を聞いてくれる―――